だからきっといつか

真花

だからきっといつか

 僕は鉄製の重いドアを閉めて、そのバタンと言う音を確かめた後に、蹴りを入れようと構えて、やめた。拳を握り締めたまま項垂れて、それでもいくばくかの時間を僕のために割いてくれたのだ、一礼をする。雑居ビルの階段を下り、反響する足音と、明滅している蛍光灯、一階に着くまで誰ともすれ違わなかった。胸の中にあるため息の種を、だけど吐き出したくなかった。ビルから一歩を出したのと同時に白い糸が上から垂れて、すぐに二本、三本、土砂降りになる。空を見上げれば真っ暗で、顔がびしょびしょになる。

「クソッ!」

 大声を上げても、雨も結果も変わらない。分かっているけど、声を出さずにいられなかった。滝のような勢いの雨はごうごうと音を立てる。緊張と落胆からなのか、単に夏だからなのか、僕の火照った体は雨に濡れても熱を失わない。その熱にふらふらしながら、僕は歩く。景色が水煙に歪んでいる。僕以外に何も動くものがない。僕でない全てのものがこの雨に身を縮めて過ぎ去るのを待っている。「僕だけが雨と対等だ」呟いて、首を振る。「対等なものか。僕の方が上だ」靴の中がぐしょぐしょになっている。呼吸をするのもしんどい。だけど僕は止まらない。止まってなるものか。

 大通りに出ると、車が少ないながらに走っていた。自分以外の何かが動いていることに妙な連帯感と安堵がある。人間はいない。猫もいない。もちろん犬もいない。だから、この道は実質僕の独壇場だ。排水溝が入り切らない水で溢れている。視界は悪いままで、打ち付ける水の感触が頭に背中に強い。僕は自分の街に向かって歩く。

 雷鳴が轟く。稲光が短く二回。また雷鳴。

 雨だけが降るこの道を僕は歩く。拳を握れ。歯を食い縛れ。負けるな。

 雨脚は一向に弱まらない。足を踏み締めて、踏み締める度に靴から水が絞られる。僕が睨んでいるのは空でも雨でもない。雷の落ちる音。もしかしたら僕と同じように進んでいた誰かがこれで斃れたのかも知れない。次は僕の番かも知れない。でも、もし雷に打たれても、また起き上がって前に進むだろう。僕は前を見る。

「おーい」

 声の方を向くとミズが建物の下で雨を避けている。僕は足を止めて、彼女の側に行く。

「何でいるの?」

「今日はこの街に受けに行くって言ってたから。はい、傘」

「もうずぶ濡れだよ」

「それでも」

 僕が受け取ると彼女は、よろしい、と笑う。傘を差すと、頭と背中に打ち続けていた雨が来なくて、足元は変わらないけどちょっと楽な気持ちになった。彼女が「帰ろう、一緒に」と言って歩き出す。僕が歩を進めると、彼女は僕の横を歩く。僕達は雨音だけを聞いて、何も喋らなかった。でも彼女がいるせいなのか、僕の中で渦巻いていたドス黒いものが気が付けば静かな湖面のようになっている。触れればまた暴れ出すことは分かるし、一人になったらきっと触れるのだけど、今は穏やかにさせておこうと自然に思った。

 雨は強い。僕達は黙々と歩き、いずれミズ恵の部屋に到着した。

「シン、先にシャワー浴びちゃいなよ」

「サンキュ」

 びしょびしょの服を洗濯機に放り込んで、熱いシャワーを頭から被る。同じ水なのにさっきまでは命を奪われていく感触だった、今は逆に与えられている。オーディション会場で言われた言葉が蘇る。「独善的過ぎる」「君は自分が王様だと思っているだろう」「個性は欲しいが、君のやっているようなことじゃないんだ」要するに彼等が欲しかったダンサーでは僕はなかったと言うことだ。でも、あんなに言われると自分がやっていることが正しいゴールに向かっているのか、落ち着かない。このシャンプーで一緒に洗い流せたらいいけど、そうはならないのは分かっている。この悔しさはしばらくは僕の胸の友達だ。努力はしている。その方向性の問題があるんじゃないのか。そもそも才能がないかも知れないけど、そんなのは限界までやってから初めて分かることだ。

 風呂場のドアが開く。裸のミズ恵が入って来る。

「私も一緒に入れてー」

「おう」と、僕は体を少し避ける。

「シン太が考えてたこと、当ててみようか?」

「いいよ。どうせ当たってるから」

 彼女はシャワーの下に入って、頭を流す。僕はそれを見ながら体を洗う。シャワーから抜け出した彼女が、にまあ、と笑う。その顔の半分が湯気で隠れる。

「シン太は才能あるよ。どんどん良くなってる。見る目がある相手に恵まれなかっただけだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

「選ばれないと、自信が擦り減るんだ。ずっと選ばれてない。擦り切れちゃいそう」

「私が認めるから、大丈夫」

 何がどう大丈夫なのだ。でも彼女は自信満々で、どんな言葉にも揺らがなそう。その顔を見ていると、不安がっている自分の方がおかしいのかなと思えて来る。それはまるで太陽で、これまでも何度も僕はその光に力を貰い癒されて、再び踊って来た。……また頑張ろうって思える。そう言う力をくれる。

「先に上がるよ」

「はーい」

 体を拭きながら、彼女の言葉を反芻する。今の僕があるのがミズ恵によっているのは間違いないし、いずれ成功したときにも同じことを僕は思う筈だ。……この部屋に転がり込んでからもう三年になる。誰が決めた期限ではないけど、あと二年の内にはダンサーとして仕事を得ないといけない気がする。もしそうじゃなかったとしても踊ることをやめられないとは思うけど、ミズ恵のところには居づらくなるかも知れない。

 彼女が風呂場から出て来る。頭にターバンのようにタオルを巻いている。

「ミズ恵」

 僕は濡れている彼女を抱き締める。「何よ、もう」と嬉しそうに嫌がる彼女。

「ありがとう」

「そんなの当たり前じゃない」

「それでも」

 彼女は花のように笑う。少しだけ照れた花だ。

「私は君の、一番のファンだからね」

 僕はもう少し彼女を抱く腕に力を込める。

 彼女がキスを求めて、僕はそれに応じる。

 僕は雨の中を一人で歩いているんじゃない。彼女と一緒に歩いている。だからきっといつか。


(了)

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