ぼくのサンドイッチ

髙 文緒

ぼくのサンドイッチ

 ぼくの席はトースターの横。正確にはトースターの置かれたキッチンカウンターの横。正方形のダイニングテーブルの、一辺がキッチンカウンターにくっつける形で置かれている。僕は座ったまま、こちらむきに扉を開けてトースターを操作できる。毎朝、ぼくはきみの分と合わせて二枚のパンをトースターに並べる。

 六枚切りの食パンをきつね色に焼き上げる、ネジをジジリと回す加減がぼくの体には染み付いている。その加減は繊細で、ぼくは職人の気分になる。

 耳のついたままの食パンを、パン切り用のまな板に乗せる。かたく立ち上がったパンの表面にマーガリンをこすりつけると、パン粉が沢山散らばる。そこにチューブの練り辛子を出して、スプーンで塗り拡げる。黄色い着色料が芽にまぶしくて、ぼくは幸福な気分になる。

 ハムを二枚乗せて、慎重に、パン切りナイフの刃を当てる。このとき、ぼくはパンの中心線をパンの内に見出している。刃を入れて、二つに別れたパンを重ねれば、ぴたりと重なる。完璧なハムサンドの出来上がりだ。ぼくはベタついた手をティッシュで拭いながら満足する。それをもう一度繰り返す。そうすると二人分のハムサンドが出来上がる。

 テーブルの向かいの席には、顔を洗ったパジャマ姿のきみが、空の皿を前に座っている。ぼうっとテレビを見るきみの皿にサンドイッチを乗せると、きみは立ち上がって二つのグラスと牛乳を持ってくる。冷蔵庫はきみの席の方が近い。

 牛乳と、ハムサンドと、きみ。これが毎朝のルーティン。ぼくの平和な朝の景色。きみはもそもそと無表情で食べる。しっかり焼いたパンはときおり口に刺さる。困った顔で牛乳を飲むきみが、目の前にいる。ぼくがそれを見るのが好きか、というと、好きとか嫌いとかいうものではない。

 いつだって太陽はひとつで、カラスは黒い。窓の向こうの山はいつも同じ稜線を描く。そういったあたりまえの景色で、永劫続くものだとぼくは思ってみている。きみもきっとそうだと思う、かというと分からない。きみがどう思っているかなんて、当たり前の景色すぎてぼくは考えたことがなかったんだ。

 いつもきみが先に食べ終えて、着替える。そして先に家を出ていく。穏やかで、誰にも侵されない、ぼくのルーティン。

 そんなルーティンがすこし崩れ始めたのは、きみがだんだんと寝坊をするようになったからだ。ぼくはきみの起きてこないダイニングで、やっぱり二人分のサンドイッチを作る。きみは遅刻ギリギリで起きてくる。

 壁を伝うようにして寝室から出てくるきみがたてる音が、誰も見ていないテレビのついたダイニングにも響いてくる。

 ぼくの席はテレビの画面を背にしている。ぼくはテレビの音が無いと耳がそわそわしてたまらないので、何かしらつけておきたいと思っている。きみはあまりテレビの音が好きじゃない。でもきみの席からはテレビの画面が見えるから、きみはぼうっと画面を見るんだ。

「朝ごはん」

「食べる時間ないよ」

 席について、画面に視線をやったままきみが言う。きみはそのとき、画面右上の時報を見ている。壁にかかった時計は見ていない。

「ほんとうだ、もう8時になる」

「7時49分だよ」

 家の時計は、すべて10分進めてある。ぼくは進めた時間で動かないと、落ち着かないのでそうしている。腕時計もそうだ。ぼくのスマートフォンのロック画面には、時計の表示がない。

「じゃあ車で食べなよ」

 サンドイッチをアルミホイルで包む。もう冷め始めていた。

「時計の時間、直さないの」

「この方がいいでしょ、遅刻しないし」

 なんでかきみは、急にそんなことを言った。以前に説明したのを忘れたのかな。ぼくたちの朝の時間は、10分ずれている。それも当たり前のこと。

 着替えたきみを、車でバス停まで送る。一本遅くなるが、それでも遅刻はしないで済むだろう。きみが寝坊をするようになってから、これもぼくのルーティンになった。きみは免許を持っていないから、車はぼくの領分だ。だから面倒とかそういう気持ちもない。ぼくのやることをやる、それは当たり前で、気持ちの良いこと。

 

 きみの寝坊がますますひどくなって、ぼくが寝室まで迎えにいかないとならなくなった。ずるりとベッドから落ちるようにして、それから床を這いながら少しずつ、きみは二足歩行になる。全身におもりがつけられた人みたい。

 その日きみは、四つ這いの状態から立ち上がろうとして、ぼくのシャツを見て「え」と言った。

「辛子がついてるよ」

 そう指をさされて、ぼくは自分のお腹を見下ろす。辛子の鮮やかな黄色がワイシャツの下から二番目のボタンの横にあった。

 着替えて、ワイシャツはそのまま洗濯カゴに放り込んだ。

「ちょっと手洗いしといた方がいいよ、シミになるから」

 壁にもたれながら後ろに立っていたきみが言う。

「うん」

 とぼくは言ったかもしれない。その日もきみにアルミホイルで包んだサンドイッチを持たせて、車でバス停まで送って、車を置きに家に帰ったらもう忘れていた。

 ぼくはぼくの職場までは歩いていっている。


 洗濯は週末にまとめてするものと決まっている。洗濯は僕の担当だ。だから僕がそう決めているとも言える

 やり方にこだわりがあるわけじゃない。洗濯機に放り込んで、洗剤と柔軟剤を入れる。スイッチを押す。出来上がったら干す。それを二回やる。こだわりは無くとも、「ぼくが」やるというのが大事だ。それが領分というものだ。だからきみは洗濯物には一切触れない。

 辛子のシミは落ちなかった。幸せの黄色の着色料は、放置しているうちに随分とがんこな汚れに変わったようだ。

「辛子ってシミになるんだねえ」

 ぼくは濡れたシャツを手に、きみに言った。きみはきみの領分の、シンク掃除をしていた。シミを見たきみは、声をたてて笑った。そういえば久々に笑った顔を見たなとぼくは思った。

「手洗いしないからだ」

「忘れてた。どうしたら落ちるんだろう」

「洗濯に口出ししていいんだ?」

 きみは手を拭いて、ぼくからシャツを受け取った。ぼくは無意識にシャツをきみに差し出していたみたいだ。

「口出し?」

「きみの領分だったからさ」

 そう言ってスマートフォンで検索したきみは、すぐに染み抜き方法を探し当てた。

「さん、そ、系、漂白剤だって」

 ぼくが車を出して、スーパーに行く。いつもは目に入らなかったけれど、洗濯用洗剤のコーナーにたしかにそれはあった。

 

 家にあった一番大きな鍋で、ぼくたちはシャツを煮洗いした。もはやぼくの思う洗濯の範疇から外れていたので、二人で湯気に包まれるのが正しいやり方だと思った。きみが笑って「楽しい」というので、ぼくも笑って「楽しい」とオウム返しした。

 シミはとれてもとれなくても、もういいかという気持ちになっていた。

 とはいえ実際シャツがきれいになると嬉しくて、「実験だねこれ」ときみが言うのを「実験だねこれは」とぼくは返す。不思議な楽しさの理由を言い当ててくれたきみは流石だ。

「サンドイッチさ」

 シャツを干す僕の背中に、きみが呟いた。

「辛すぎるからもういらないよ」

「辛いかな」

「始めからずっと辛すぎた」

 ぼくの幸せの黄色は否定されてしまったが、ぼくはルーティンをやめられない。

 毎朝二つのサンドイッチを作って、一つは朝食に、もう一つはアルミホイルに包んで会社に持っていく。昼食だ。

 ぼくのルーティンは変わらないけど、きみのルーティンは少し変わった。

 きみは冷凍のご飯を電子レンジで温める。電子レンジはトースターと違って、ぼくの管轄ではない。毎日納豆ご飯を食べるようになったきみが、納豆のパックをあける手付きがどんどんと手慣れていく。納豆のパックにも辛子がついている。それも鮮やかな黄色だ。ぼくは黄色が好きだ。

「ごちそうさまでした」

 そう立ち上がるきみは、車を出さなくてもいい時間に起きられるようになった。

 きみのパジャマのズボンに辛子がはねているのを見つけて、ぼくが「それ……」と言うときみはすぐに気がついた。

「あ、手洗いしとこ。シミんなる」

「もう時間だからぼくがやっておこうか」

 壁の時計を見上げて、ぼくが言う。きみはわざとらしく呆れた顔をつくって、テレビの画面を指さす。

「まだそのくらいの時間はある」

 さっさとパジャマのズボンを脱いで、シンクで洗うきみのふくらはぎが浮腫んでいて、毎朝納豆ご飯なのは塩分過多なんじゃないかとぼくは思うけれど、言わない。絞ったズボンをぼくに渡すきみの振る舞いは、正しい。干すのはぼくの領分だから。それでも受け取りながら、ぼくがきみを、きみがぼくを、解放しつつあるのを感じた。

 とはいえぼくはトースターの隣を動く気もないし、ツーンとくるサンドイッチを作るのをやめる気もない。時計を進めておくのも、直す気はない。

 だけど向かいに座ったきみが納豆ご飯を食べるとき、変わらないはずの景色は変わった。

 きみとぼくが生活をするのなら、景色は少しずつ変わっていくものなんだろう。

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