第7話『安寧』

 何か、悪夢を見ているようだった。

 真鍋は家で一人、テレビを見るともなしに見ながらぼんやりと思った。

 何かあったわけでは無い。崎谷を拒絶したあの日から一ヶ月が経っていた。だが、崎谷の態度は何も変わらなかった。平然と飲みに誘い、互いの家も行き来した。悩みも葛藤も何も無いと言った手前、付き合いをやめるのもおかしい気がして連絡を取り合うことも止められなかった。


 表面上、あの日を境に何か変わった、ということは全く無い。


 仕事も順調だった。スクールの方もオフィスの方も。


 しかし真鍋の内面は散々だった。


 表面上何も問題が無いというのは、問題を抱えている人間にとって一番の問題なのだ。誰かが気遣ってその内面を探ってくれることはなく、自分から相談を持ち掛けることもできない。何度か崎谷に言われたことを無視して誰かに現状を相談しようとも思ったが、それもできなかった。こんなに自分はプライドが高いタイプだっただろうか、と己を顧みれば、そもそもプライドで悩みを黙っていることなどいままで無かったはずだとすぐに思い至る。

 何故、誰にも、親にさえも、自分の内情を語れないのか。

 嫉妬の感情を見せるのが恥ずかしいというだけでは説明がつかない。なら、何故。

 カウンセリング、というより、心理的探究の基本は『何故』を積み重ねることだ。


 何故、自分は誰にもこのちっぽけな嫉妬心から生じる悩みを打ち明けないのか。


 幾度も自問自答するうちに、どうあがいても一つの結論に到達してしまう。答えは一つだった


 ――崎谷が、誰にも言うなと言ったからだ。


 真鍋はおぞましいことに気づいた。自分はどう考えても、嫉妬している相手に執着している。関係が変わることを恐れ、連絡を遮断することも、徐々に離れることもせず、それどころか相手の要求を呑んでいる。それは、完全を切られないための従属だ。


(従属……その対義にあるのは、支配だ)


 自分は友人に支配されているのか。平素なら馬鹿げた妄想だと鼻先で笑っただろうが、いまの真鍋にそんな精神的な余裕は無かった。

 真鍋にはもう、普通の生活が、通常の状態が存在していなかった。

 仕事で成功を収めても、知らぬうちに犯した失態を崎谷が挽回しているのではないか。より大きな成功を崎谷が収めているのではないかと恐れる。そして、その恐れは現実のものとなった。


 真鍋の働きは、決して不十分ではない。それどころか、他の同僚や先輩と比べても頭一つ抜けているぐらいだ。担当するクライアントも多く、その分状態が上向いたクライアントも多い。自他ともに認める実力があった。

 だが、その実力も結局は、崎谷に次ぐものでしかない。

 カウンセリングに劣るも勝るもない。そんなことは真鍋も重々承知している。そもそもある程度の実力や実績があるカウンセラーが揃っていないと、カウンセリングルームや派遣の運営は成り立たない。自分の力は必要とされるものだ――真鍋は何もかも客観的に理解できていた。

 だが、客観は主観を切り離してはくれない。むしろ主観と相反する客観は、主観を、己自信を間違っていると断罪して切り刻んでくる。真鍋に執着してしまうのはおかしいと、病的な自分をカウンセラーとしての自分が否定してくる。否定するだけで、寄り添ってくれることはない。ただ、改善を促すよう黙って自分を見つめてくるだけだ。

 どうして人は、カウンセラーに相談するのか。問題を理解し、その対処法も理解しているようなクライアントも存在する。彼らは何故自分では問題を解決できないのか――精神の状態によってはできない、というのはただの理屈でしかなく、真鍋は理屈でしかそのことを知らなかった。だが、いまになって知ってしまったのだ。自分を客観的に動かすことはできない。自己の中にある客観は、ただ見つめることしかしてくれない。自分を動かすことができるのは、主観的な自分だけなのだ。それは客観性という敵を己の中に作ることに等しかった。


 真鍋にはどうすることもできなかった。いまの真鍋にできることは、自分よりも優れた崎谷に羨望と嫉妬の眼差しを向け続けることと、そんな己の醜さを直視し続けることだけだった。



 ――耐えきれなかった。



 平穏なまま、自分の精神が淀んでいく。

 次々立ち直っていくクライアントを恨めしいとさえ真鍋は思った。そして、そんな八つ当たりに真鍋はやはりすぐ気づいた。カウンセラーとしての輝かしい自分が濁っていくのがよく見えていた。崎谷どころか、同僚たちやクライアントと比べても、自分の精神はどうしようもなく汚れていた。



 真鍋は限界を迎え、それを悟り、静かに自分を諦めた。



 ――――――――。



 ――冬。

 冬だ、と真鍋は不意に思った。



 外で風の音がしている。座っていたソファから立ち上がって、カーテンを開けて外を見る。曇り空を背景に、昼の薄明るい空気の中で粉雪が踊っている。風が強いのか、右に左にと流される雪を真鍋はしばらく眺めていた。

 酷く静かだった。

 およそ一週間ほど前までは、ひっきりなしにスマホがメッセージの到着を告げてうるさかった。唐突に退職を申し出た真鍋に周囲は仰天し、心配と引き留めの言葉が矢継ぎ早に送られてきた。退職事由について真鍋は詳しくは話さなかった。理由は話せないが、いまの自分では他人のカウンセリングを行えないとだけ上司に告げれば、よほどのことがあったのだろうと全員が察して、深く探ろうとする者は誰もいなかったが、それでもいま、真鍋が抜けると人手が足りなくなってしまう。――そういう理由だけでは無いだろうが、ともかく、真鍋を引き留めようとする者は多かった。


 そんな中で、崎谷だけが止めなかった。いつも通りの、どこかお気楽なメッセージしか来なかった。心配していないというわけではない。ただ、真鍋がカウンセラーを止めると直接告げたその時、

『その方がいいよ』

 といともたやすく言ってのけた。

『お前が……そうさせたんだぞ』

 真鍋は逆恨みした。その逆恨みを崎谷はどこか喜ばし気に受け止めていた。辞めさせたかったのかと聞けば、どうかな、とも言った。

『いかれてるな、お前』

 病的な自分を棚に上げて、真鍋は言った。崎谷は悪びれることもなくごめんと言った。何のための謝罪かと呆れ果て、その時はそれで会話を切った。


 そうして真鍋は仕事を辞めた。


 退職した後は何もしていない。あまり金遣いが荒い方ではなかったから、しばらく無職でも食っていけるだけの金はあった。

 真鍋はただ茫然と、誰のことも、自分のことも考えずに生きている。輝かしい己を諦めたその時、何にも苛まれることはなくなった。病んだ状態から、狂った状態になったのだろうと真鍋は思っている。何も感じなくなっただけならば、ただ壊れただけでしかない。だが、真鍋は崎谷といまだに連絡を取り合っていた。あらゆる人間との関わりを断つ中で、嫉妬と執着の対象であった真鍋だけが、唯一真鍋といまだ繋がっている人間だった。

 いまも、真鍋は崎谷と飲みに行くし、互いの家に行く。仕事の話はしなくなり、映画だのドラマだのの他愛ない話が話題の大半だった。それでも崎谷は、真鍋にとって羨望の対象だった。嫉妬はもはや枯れ果てていた。ただその秀才から放たれる輝きを、目を細めて眺めていた。その時間は徐々に増えていった。会う日数が増え、家に行く日数が増え、宅飲みをして帰らない日ができた。



 全ては平穏だった。真鍋は輝きと淀み、主観と客観を捨て、従属に安寧を見出した。同じ舞台に立つことなく、ただ仰ぎ見る輝きのなんと尊いことか。嫉妬に渇いた精神は、諦観と従属によってようやく満たされ、安らいだのである。

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そして、はち切れるほどに満たされる 羽生零 @Fanu0_SJ

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