情けない元カレの未練旅断ち ~オレが前を向いて先へと進むために、溜め込んで澱んだ想いをぶつけるのは許されるのだろうか?~

相生蒼尉

第1話



 北陸新幹線で2時間と少し。

 車窓を流れる景色を楽しむでもなく、目を閉じてのんびりと過ごす。

 降りたのは富山。終着駅の金沢ではないので、車内を流れるアナウンスに従って、降車する。乗り込む前に買って途中で飲み干したおーいお茶のペットボトルはホームのゴミ箱へ。


 ああ、こんな感じだったかな、と。


 久しぶりにやってきた街をぐるりと見渡す。


 2泊3日の荷物はリュックに詰め込んだ。このままでの街歩きはちょっと面倒だ。


 ポケットの小銭を確認して、市内を走る路面電車、富山ライトレールに乗り込む。週末とはいえ、平日である金曜日の午前中、しかも10時前という中途半端な時間だ。がらがらの車内を見て、リュックを背中から下ろしながら空いている座席に腰をどさっと落とす。


 有給消化で取った年末の休暇。

 はるばる北陸までやってきた。


 新幹線と違って、路面電車は本当にのんびりと動く。信号が赤なら止まる。その、ゆったりとした感覚に、心のどこかが癒される気がする。


 ぼんやりと流れる建物や車を視界におさめていると、路面電車が大きく右へと曲がっていく。


 一面、ガラス張りの大きなビルが視界に入った。






『ねえねえ、あれあれ、あのビル!』

『うおっ、すげぇな。ガラスばっかり』

『まだできたばっかりみたい』

『へぇー』

『あれ、なんだと思う?』

『ビル?』

『そうだけど! そうじゃなくて! 何の建物だと思う?』






 ふっ、と息が漏れる。


「……図書館と、美術館、だったっけな」


 通り過ぎて後ろへと流れていくビルを見ながら、そんなつぶやきをこぼす。


 温かい気持ちを感じながら、同時に痛みも感じる。


 路面電車が再び、右へと曲がっていく。


「あ……」


 慌てて、降車用のボタンを押す。


 ……そういえば、このボタン。こういう仕組みだってことすら、あの頃は知らなかったんだよな。


 4年前。

 大学2年生。

 二人が二十歳になった記念に、と。

 恋人になって1年の記念に、と。

 開通して1年にもならない新幹線でやってきた富山の街。






『金沢じゃなくて富山っていうのが、大人っぽくない?』

『なに、その謎理論?』

『わっかんないかなぁ。渋い、ってやつだよー』

『渋い? 金沢よりも、富山の方が?』

『そーだよー。終着駅じゃなくて、その手前。有名どころじゃなくて、その手前。渋いよ。大人の渋さだよ。せっかく二十歳の記念なんだから!』

『金沢の人に謝った方がよくない?』

『え、なんでさ?』

『あ、そっか。謝るのは富山の人に対してか……』

『だから、なんでさ?』






「……ホント、謎理論。全国の富山市民と金沢市民に謝れっつの」


 スマホで地図を確認しながらアーケードの下を歩いていると、そんな独り言がぽつりとこぼれる。


 このままでは、不気味な男になってしまいそうだ。


 どうも、独り言が多くていけない。


「えっと、アーケードを出て、左、か」


 ……つい、出てしまう。


 独り言。

 そんなクセがついたのも……。


「……しっかり、しないと、なぁ」


 アーケードを抜けて、左に曲がると、すぐ、今回の宿が見えてきた。

 開いた自動ドアの隙間に割り込むように入る。

 すぐにフロントが見える。フロントにいる女性は、お姉さん、なのか、同い年ぐらいなのか、女性の年齢はよくわからない。


「ようこそ、いらっしゃいませ。本日は、ご宿泊ですか?」

「あ、はい。とりあえず、荷物を、預かってもらいたくて」

「ご予約は……」

「あ、上島、です。予約してます」

「少々お待ちください……上島様、上島保様ですね? こちらに荷物をどうぞ」


 指し示されたところにリュックを下ろして、中からウエストポーチだけを取り出して、腰に巻き付ける。






『お~い、コインロッカ~、どこにいるの~?』

『呼んでも返事しないって、コインロッカーは』

『それくらい知ってるし!』

『いや、知ってるって……』

『ノリが悪いよ、タモツ!』

『駅でそんなことしてたら恥ずいって……』






 ……あの時は、こうやって、予約したホテルが荷物を預かってくれるってことすら、知らなかったんだよな。


 大人になったつもりで。

 実は、ちっとも大人になんかなれてなかった、あの頃。


 本当に、まだ、ただの世間知らずでしかなかった、ただの大学生にして、ただの二十歳でしかなかった、あの頃。


 戻ることは、もうできない。

 だからといって、先に進めているかというと、そうでもない。


 でも。

 先に進めたくて、ここまで来た。


 オレだって、変わりたい。

 成長したいんだ。












 荷物を預けて、抜けてきたアーケードの下を戻る。

 駅、とはとても呼べそうもない、路面電車の乗り場。そこにある折り畳みの椅子に座る。

 かちん、と腰の後ろの、ウエストポーチを留めるプラスチックが椅子の背に当たって音がする。ちょっとだけ腰の後ろが刺されたように痛む。


 ぼんやりと前を見る。

 腰の後ろの痛みはまだ消えない。


 通り過ぎて行く車。

 歩き去っていく人。

 ちょっとふらつく自転車。


 どこにでもあるような、そんな景色。


 突然、道路に水が溢れ出す。


「うおっ」


 小さな噴水のように、水が跳ぶ。


「な、なんだ、これ?」


 ……スプリンクラー? 4年前は、見て、ない、よな?


 通り過ぎていく車が、道路に溜まった水をはね飛ばして去っていく。


 ちょっとしたことで、変わる景色。


 いったいなんなんだろうと思っていると、路面電車がやってきた。


 気にはなるが、どうしようもないので、乗り込む。

 スマホで調べるほどのことでもない。


 やっぱり車内はがらがらだ。数えてみると7人、オレも含めて8人の乗客。


 降り口に近い前の方へと移動して、空いている座席に腰を下ろす。


 路面電車は、降りる人も、乗る人もいないところはどんどん通過していく。

 それでいて、赤信号は普通に止まる。


 ……こういうタイミングで乗りたいとか降りたいとか、そういうのに対応しないのかな。


 そんな、どうでもいい、つまらないことを考えていると、富山駅へと戻ってきた。


 一度降りて、周囲を確認する。

 そして、岩瀬浜行きの乗り場に移動して、乗り換える。


 ……あれ? 人、多くね?


 さっきまでの車内とは違って、10人以上、人がいた。それも、おっさんが多い。というか、おっさんだらけだ。

 別に、うるさいとか、そういうことは一切、ない。

 おっさんは新聞を見つめながら、静かに座っている。


 空いている座席を探して移動して、座る。


 しばらくすると、発車する。

 車と一緒に進んでいくのは変わらない。赤信号で止まるのも、同じ。

 のんびり、ゆったり。


 ただ、さっきよりも、乗客が多いだけ。


 途中での乗り降りはほとんどなくて、次から次へと、通過していく。


 そして、いつの間にか、車がいなくなる。


 道路ではなく、線路。

 電車だけが走る、専用の鉄の道。

 路面電車から、普通の電車へと変わる。

 スピードも、たぶん、速くなっている、はず。


 そんな風に、オレも変われたら、と思ってしまう。


 ここまで通過してきたのに、普通の電車っぽくなってからは、全ての駅に停車していく。

 時々、向かい側からやってくる車両と待ち合わせる駅もある。


 ある駅に停まると、おっさんたちが一斉に立ち上がり、降りていく。


 ……な、何? どうした?


 駅のホームを見ると、競輪場前、と書いてあった。


「……ギャンブラーか」


 つぶやいた小さな独り言が、思っていたよりも響く。


 ぽつん、と。

 本当に、ぽつん、と、車内にひとり。運転手はいるけれど。


 突然の孤独。


 なんとも言えない、どうしようもないさみしさを感じながら、流れる景色をぼんやりと見る。


 そして、終着駅である岩瀬浜へと到着した。


 運転手にぺこりと頭を下げて、料金をちゃりんと払い、降車する。

 そのまま駅を出て、なんだか小さなロータリーに少しだけほっこりとして微笑む。

 公衆トイレを借りて、ちょっと一息。


 歩いて、その先へ。

 進め。

 進め、と、心に叫ぶ。


 先にある橋へと向かって少し坂を上りながら、左にある駐車場と建物を見る。






『……悩むなぁ』

『いや、悩まねぇから?』

『え、でもさ、ここでしか、乗れないかもしれないんだよ?』

『いやいや、恥ずいから!』

『あ、うん。そーなんだよね。それもわかるから、悩む……』

『悩むな! ふつーのヤツでいいだろ? フツーのやつで!』

『でもさー、二人乗りの自転車とか、珍しくない?』

『珍しいけど、目立つだろ?』

『しかも、二人乗りはタダだよ、タダ!』

『タダほど高いものはない!』






 ……まだ、あるのかな、あの二人乗りの自転車。


 結局、あの時は、料金を払って、普通の、一人乗りの自転車を二台、借りた。


 今回は、こうやって、歩いていく。

 そうやって、何かを、少しでも、変えていく。

 変えていきたい、と、思う。


 運河の上の橋の中央で足を止め、左を向く。


 真っ白な、巨大な、壁。


 立山連峰。


「ホント、すげぇな」






『あー、見て見て、あれあれ!』

『あぶねっ! チャリなんだから気をつけろって』

『ごめんごめん、それよりも、あれあれ!』

『ああ、あれかあ』

『本当に、すごいねぇ。どこから見ても、すごいよねぇ』

『どこで見ても、おんなじこと言うね』

『そりゃ、あれだけすごいと、そう思うもん』

『まあ、な』

『上の方、白いねぇ。6月でも雪があるって、すごいねぇ』

『だな』

『世界の壁って感じ!』

『日本の壁だろ』

『あ、そうかー』






「……冬は、真っ白なんだな、全部」


 あの時との違いを見つけて、つぶやく。


 圧倒的な、大自然。

 本当に、壁のような、大きな山の連なり。

 あいつは、富山市役所の展望台から見ても、この橋の上から見ても、海のそばの展望台から見ても、どこかの道から見ても、すごいすごいとはしゃいでいた。


 運河の向こう側で、乗ってきた富山ライトレールが、富山市街へと戻るために横切っていく。


「……そういや、あの時は、ここまで船で来たんだっけ」






『……なんか、船からの目線って、低いね』

『だな』

『なんで?』

『なんでって……水の上だから?』

『ん?』

『ん?』

『なんで水の上からだと低いの?』

『え? 陸の上は、川とかが氾濫しても大丈夫なように高くなってんじゃないのか?』

『ほうほう、なるほど』

『いや、ホントかどうかは知らねぇけど』

『えー』






「……おバカな話、してたなぁ」


 ふ、と息を吐いて、少しだけ、微笑む。

 また、温かさと同時に痛みを感じる。


 それでも、溢れ出る思い出は止まらない。


 見えない何かを振り切るように、再び足を動かす。


 橋を渡り、横断歩道を渡り、交番の横を通り過ぎて行く。

 このまま、運河沿いのこの道を進めば、展望台に行けるはず。

 潮の匂いがする風が冷たい。でも、運河は見えるけれど、まだ海は見えない。

 消防署っぽい建物のところで、道が大きくカーブしていく。

 ようやく、海かな、と思える水面が見えてきたと思ったら、今度は建物で見えなくなる。

 まあ、展望台に上れば、見えるし。


「あ、ここって……」


 左側に見えた、ちょっとレトロな、それでいておしゃれな雰囲気のある建物に目を奪われる。

 1階はなんか、雑貨屋のような感じで、2階は確か喫茶店だったはず……。


 ポケットから取り出したスマホで時間を確認する。

 11時を少し過ぎたくらい。


「……朝から、何も食べてなかったな」


 何か食べられると思うと、自然とお腹が空いてくる。


 扉を開いて、中へ入る。


「あのう……」

「いらっしゃい」


 渋い感じの、おじさん……いや、おじいさんか、どっちだろ? とにかく、店主が渋い感じで素敵なお店だ。


「ハヤシライス……食べられますかね?」

「ああ、2階へどうぞ」


 渋い店主に指し示された階段へと進み、2階へ。

 どうやら、お客は誰もいないらしい。

 窓際の席に座る。

 こつんと音をさせて、ウエストポーチの留め具のプラスチックが腰の後ろに刺さる。

 ほんの少しだけしかめっ面をして、かちん、とウエストポーチを取り外す。

 並べられたいろいろな本と、コーヒーのためのキッチンカウンターと、そうそう、謎の昇降機。






『うーん、どっちにしようかなぁ』

『どっちも頼んで、半分ずつすればいいんじゃね?』

『え? それですっごく美味しかったらどうすんの?』

『え? 分ければよくね?』

『美味しかったら分けられないよ! 何言ってんの!』

『ええ? そこは分け合うとこだろ?』

『食べるって、戦争だからね?』

『ええ?』






 ……カレーか、ハヤシか。どっちにするか、悩んでたよな。


 あの時は、結局、あいつはカレーに決めて、オレはハヤシにした。

 そして、あまりの美味しさに、絶対に渡さないと言って、その代わり、そっちのも盗らないと宣言していた。

 そういう謎理論も、不思議とかわいいと感じた。






『……あぁ~。美味しかった~』

『うまかった。マジで』

『ごはんがごはんだけじゃないって、すごいねぇ』

『おしゃれな感じだったな』

『ハヤシも食べてみたかった~』

『いやいや、分けようって言ったよな?』

『言ったけどさ。あれはダメ。美味しすぎてあげられなかった』

『はいはい』

『う~、ハヤシ~……』

『なら、さ』

『ん?』

『今度、いつか、また、一緒に来た時に、さ。今度はオレがカレーで、そっちはハヤシにすれば?』

『おお!』

『うん』

『……その時は、結婚してたりして』

『うえっ!』

『あ、照れてる? 照れてるのかな?』






「……そんな話、してたよな。あ、オレ、またハヤシ頼んでるし」


 未来が輝いてた、4年前。

 まだ、何も知らない、ただの大学生だった頃のこと。

 その瞬間は、全てを知ってるつもりだった。


 謎の昇降機が動いて、渋い店主が階段を上ってくる。

 昇降機から取り出されたハヤシライスがテーブルの上に静かに置かれた。


「食後は、コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」

「あ、コーヒーで」


 ピクルスっぽいサラダのような何かと、ごはんにハーブらしき何かが混ぜられたハヤシライス。


 4年前の味を覚えている訳ではないけれど。

 今、食べても、間違いなく、うまいと感じる。

 食後のコーヒーも、ゆっくりと香りを楽しみながら、飲んでいく。


 ……結婚、か。


 階段を下りて、店主にハヤシライスの代金を支払う。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「それはどうも。お一人ですか?」

「え?」


 ひとりだなんて、見ればわかることを……。


「……以前は、かわいいお嬢さんと一緒だったと記憶しておりますが」

「あ……」


 この人は、覚えていてくれたのか。


 あの日のオレたちのことを。


 二人で向かい合ってそれぞれカレーとハヤシを食べて。

 おバカな話をたくさんして。

 この場で、二人で並んで会計を済ませた。


 オレたちのことを。


「……あー、いろいろ、あったんですよ」

「……そうですか」


 ぺこり、と頭を下げて、店を出て行く。


 そう。

 いろいろ、あった。

 ありすぎた。


 大学に入学して、出会った。

 入学から3か月。6月にあった経済学の集中講義で、オレから告白して、お互いに人生初の彼氏、彼女になった。

 それから1年、ケンカもしたし、もちろん仲直りもした。いろいろとデートにも出かけた。

 あいつは5月の終わりに、オレが6月の初めに二十歳になって。

 記念に旅行に行こうと、やってきた富山。

 二人での初めての旅行。

 いや、オレにとっては、家族旅行とか修学旅行とか部活の合宿とか以外で、初めての旅行だった。

 かけがえのない思い出。

 初めての彼女との初めての旅行。

 思い出しかない。


 心の中に感じるかけがえのない温かさも、それと同時に感じる刺すような痛みも。


 あいつと一緒に過ごした時間があったから。


 展望台にたどり着いて、中へ入る。

 エレベーターなどなく、展望台の外側に沿うようにぐるりと伸びる、螺旋階段とは呼べない階段を一歩一歩、上っていく。






『……何、この階段、まだ10メートルって? 殺す気なの?』

『……お互い、運動不足みたいだな』

『市役所はエレベーターだったのに!』

『古いからじゃね?』

『おんぶして』

『いや、無理だって』

『お姫様だっこ』

『う……いや、無理』






「きつっ……」


 まるでスクワットでもしているかのように、大腿部に乳酸を貯め込みながら、階段を上っていく。

 苦行だろうか。

 ある意味では、この旅そのものがオレにとっては苦行なのかもしれない。

 苦行の終わりは展望台の中。

 ここでもまた立山連峰が見える。

 そして、富山港、富山湾と、能登半島。






『……あっちに見えてる能登半島って、あれだよね? なんか、釣り針みたいな』

『釣り針……』

『こうやって、横から見ても、わかんないよね?』

『横からって……』

『地図だと上からだよね?』

『ああ、そういうこと……』






「……確かに。ここから見ても、あの地図の半島の形は絶対にわからん」


 ああ、あれが能登半島か、と思うだけ。

 本当に能登半島なのかどうかも、わからない。


 世の中は、わからないことだらけだ。


 なんで。

 オレがあいつに、フラれたのかも……。






『ごめん、タモツ……』

『いや、なんで? なんで別れようって……』

『ごめん……』

『あやまんなよ……』






 大学を卒業して、およそ半年。

 残暑厳しい9月に。

 オレの部屋であいつは泣いた。

 泣いて、ひたすら謝っていた。

 どれだけ理由を聞いても。

 何があったのかも。

 話してはくれなかった。


 浮気されたのかもしれない。

 寝取られたのかもしれない。

 ただ嫌いになっただけなのかもしれない。


 でも、何もわからない。

 わからないままに、終わりがやってきた。


 卒業して、それぞれ別の企業に就職して。

 大学生だった頃とは、これでもかというくらいに、一緒にいる時間が減って。


 卒業後は同棲でもするか、という話も、互いのアパートが互いの職場に行くのに便利だったから、あきらめて。


 たった、半年。

 半年で。


 ずっと一緒だと思っていたあいつに、別れを告げられた。











 岩瀬の、古い街並みを歩く。

 かわいい名前の喫茶店も、薬局も、地元の信用金庫も、銀行も、古い街並みのまま。あんな銀行とか、見たことない。


 街並みの保存で観光資源にしているのだろうと思う。


 北前船廻船問屋森家の住宅に入る。国の重要文化財らしい。


 オレ以外に、おばさんの3人組と、老夫婦。合わせて6人。


 おじさんか、おじいさんか、どっちだか微妙な感じの人が、いろいろと説明してくれる。

 しゃべりがうまい。まるで学校の先生のように思える。

 ぐるりと、内部を案内してくれて、ひと通り、説明が終わったら、自由見学だ。






『どうする?』

『えー、入らなくていいかなー』

『……意外。せっかくだから入るのかと思った』

『うーん。こういう、歴史とかって、よくわかんないんだよねぇ』

『街並みはなんかいい感じって言ってたよな?』

『街並みの雰囲気と、歴史の勉強は別腹だよー』

『そんなもんか』

『それよりさ、あっちの三角どらやきが気になる』

『別腹って、そっち?』

『リアル別腹。色気より食い気だよ』

『歴史は色気か。あれ? さっき、白エビコロッケ、食べたよな?』

『コロッケとどらやきはまさに別腹ですもの、おほほ』






 重要文化財をじっくり見ていく。

 もちろん、オレごときに歴史がわかるはずもない。

 でも、古いものにもいいところはたくさんあるはず。

 だからこそ、残そうとしている。


 ふと、顔を上げると、絵地図のような何かが、額縁の中にあった。

 この、岩瀬という地区の絵地図らしい。鳥瞰図というものだろうか。


 煙を出す汽船が描かれているから、明治とか、大正とか、そういう感じの古いものなのだろう。


 でも、なんとなく。

 かっこいい地図だと思った。


 古くたって、かっこいいものはかっこいい。


 そう。


 古い、古くなった、お古の、元カレにだって。


 いいところは、きっと。


 たくさんあるはずだ。












 富山駅まで戻って、少し、歩く。

 ビルとビルにはさまれた道路の向こうに立山連峰が見える。

 大きな交差点で左へ。


 ラーメン屋ののぼりを発見。


 富山ブラック。


 ご当地ラーメンは重要な旅の友だ。






『この白エビラーメンって、美味しいよ!』

『……あれだけ下調べで富山ブラック、富山ブラックって言ってたよな?』

『言ってたけどさ』

『なんで現場で白エビに?』

『現場の判断こそ重視されるべきだよ!』

『出た、謎理論』

『美味しいは正義!』

『まあ、スープまで満喫できたのは確かだな』

『どんぶりの底に、ありがとう、って、なんかいいよね?』

『最後まで飲み干したご褒美みたいな』

『うんうん。最後までって、大事』

『だよな』

『……あたしたちも、このスープみたいに、最後まで、一緒にいよう、ね?』

『スープかよ!』






 その時、その瞬間の、その言葉には、偽りはなかったと信じたい。

 あの時と同じ煮干煮玉子ラーメンをスープまで完食して、そう思う。


 今は、ほんの少しだけ、わかる。


 あの時のオレたちは、まだ、世間知らずのガキだったんだ、と。


 支払いを済ませて、歩く。

 スープまで飲み干したラーメンのカロリーを消費させたい。


 ビルの間に時々見える立山連峰の白い姿を確認しながら、富山の街を歩き続ける。


 4年前の富山のビジネスホテルで。

 オレたちは初めて、肌を重ねた。

 恋人として付き合って1年。大学生としては、そういう関係になるまで時間がかかった方なのかもしれない。


 あの時のオレたちは、たぶん、あいつもそうだと信じたいけれど、二人の関係は永遠に続くものだと思ってた。

 1年、続いた。だから、ずっと続く。

 何の保証もないのに、そう信じていた。


 大学時代の友人から、あいつが来年の3月に結婚すると教えられたのは、2週間前のことだった。

 おまえもそろそろ、切り替えろよ、と。

 居酒屋で、オレの方を見ないようにしながら、教えてくれた。


 聞きたくなかった。

 知りたくなかった。


 未練たらたらなオレを見ようともせずに、言い捨てた友人。


 オレがあいつにフラれて、およそ1年と3か月。

 とどめを刺されて、死にたくなった。


 相手は同じ企業に勤める先輩だそうだ。


 どす黒い何かがぐるぐるとオレの中を奥の奥までかき乱していった。


 その、どうしようもないもやもやとした何かをなんとかしたくて、今回の旅を決意した。


 二人が、一番幸せだったと思える、その瞬間の、同じ場所で。

 もう一度、いろいろなことを考え直して、見つめ直して。


 そうして区切りをつけて、どうにかして前に進もうとして。


 今、ここ、富山にいる。


 ホテルにチェックインして、部屋に届けられていた荷物を整理する。預けておいた荷物を先に部屋へと運んでくれるサービスのよさ。

 部屋にあった作務衣っぽい何かに着替えて、タオルを持って大浴場へ行く。ビジネスホテルなのに大浴場があるとか、とてもいい。


 ……ビジネス、だよな?


 露天風呂で星空を見上げたつもりが、ひとつも星は見えない。曇り空なのかもしれないが、もう暗くなっていて判別がつかない。


 どうして未練たらたらなのか。

 どうすれば未練を断ち切ることができるのか。


 オレの中で、答えは出ている。


 かっこつけて、綺麗に別れたから、だ。


 どんなにかっこ悪くても、すがりついて離れなければよかった。未練を残すくらいなら。

 どんなに嫌われても、とことんまで追及して、理由をはっきりさせればよかった。未練を断ち切れないのなら。


 泣きながら、ごめん、としか言えなかった、あいつ。

 大好きなあいつを、それ以上、追い詰めることなんか、あの時にはできなかった。


 結果として、醜く汚れた、どす黒い何かが、オレの中で暴れ回ったまま、居座っている。


 大浴場を出て、部屋へと戻る。

 エレベーターの中で、ひとり、奥歯を噛みしめて。

 醜い自分を噛み殺すように。


 部屋の中、冷蔵庫を開けて、買っておいたビールを見つめる。

 でも、手に取らずに、そのまま冷蔵庫を閉める。


 今からやることは、アルコールの勢いで、やるべきじゃない。


 充電していたスマホを外して、手に持つ。


 あれから1年と3か月。

 一度も連絡することのなかったあいつに。


 通話をつなげる。


 金曜日の夜だ。

 出ない可能性だって、ある。

 いや。

 金曜日の夜とか、関係なく。

 出ない可能性は高い。


 あいつからしてみれば、別れた昔の男。

 相手にする必要はない。

 もうすでに、結婚する予定の新しい男がいるのだから。


 奥歯が粉々になりそうなくらい噛みしめて。


 どれくらい時間が過ぎたか、わからない。ほんのわずかに時間だったのかもしれない。


『………………もしもし』


 あいつが電話に出た。少なくとも、連絡先を消されたとか、変えたとか、そういうことではないらしい。


「おう……」

『……久しぶり、だね』

「おう」

『……』

「……」

『おう、しか、言ってないよ?』

「おう」

『も、もう。どうしたの? 突然?』

「……今、時間、いいか?」

『あ、うん………………』


 少し、間が空いた。結婚予定の今の彼氏が近くにいるのかもしれない。声も、なんとなく、抑え気味な感じがする。


 ……まあ、元カレから突然電話がきたら、おかしなことにもなるか。


『それで、どうしたの?』


 オレはふぅと息を吐いて、気持ちを固めた。


「……高島から、結婚するって、聞いたから」

『あ……』

「同じ職場の、先輩なんだって?」

『……うん』

「そっか……」


 おめでとう、なんて。

 そんな綺麗ごとはもういい。

 そういうことを続けると、いつまでたっても、オレは前に進めない。


「…………オレは、さ」

『うん……』

「おまえを、そいつに、寝取られたのか?」

『違うよ。そうじゃないよ』

「じゃあ、どうなんだよ? なんで、ごめん、ごめんって言われて、別れなきゃダメだったんだよ?」

『ごめん……』

「ごめんじゃねぇよ。おまえ、浮気してたのかよ、琴美?」

『してない! 浮気とか、絶対、してない! あたしがそんなことするって、タモツは思ってるの?』

「じゃあ、その先輩と、いつから付き合ってんだよ?」

『…………タモツと別れて、3か月ぐらいしてから』


 ……付き合って1年ぐらい。それで、結婚、か。オレとは4年、付き合って、別れたのにな。


 あいつが、琴美が、浮気なんかしない女だってことくらい、オレも信じてる。信じたい。


 でも、それじゃ、オレは区切りをつけられない。

 オレの中で暴れ回るコイツはどうにもできない。


 もうダメだ。

 苦しい。苦しすぎる。


「……オレと別れた理由は、その先輩か?」

『……』

「その先輩なんだな?」

『……』


 返ってくるのは沈黙。でも、沈黙が答えなのだろう。


「琴美は浮気をしなかった。その先輩と、デートもしなかっただろうし、もちろん、キスも、セックスもしなかった。そういうことだな?」

『…………そうだよ』

「ちゃんとオレと別れて、それから、その先輩と付き合った、そうだな?」

『……うん』


 ……そうだろうな。琴美は、そういう女だ。順番を間違えたりはしない。


 でも。

 それじゃ、オレは、立ち直れない。


 このまま、何もしないで、琴美を、こいつを幸せにしたら、オレは立ち直れない。


 だから、刺す。

 どれだけ幸せを感じても、忘れられない、抜けない棘を。


「でもな……」

『え……』

「心は、その先輩の方に、動いてたって、ことだよな?」

『……』


 沈黙は、答えだ。

 そうでないと、オレと別れるという結論は出ない。

 そして、それを言い訳せず、ただひたすらにごめんと謝って別れた。

 そんな、いい女だ、と。

 オレ以外の誰かは言うのかもしれない。


「キスしてない、セックスしてない、だから浮気してない。それはそうだろうな。でもな、一番大事な、恋人であるオレに対する気持ちとか、心とか、そういうものを、動かさないように守ろうとしないで、守れずに、そっちに動かしたってことだろ?」

『……』

「浮気って、浮ついた気持ちって、ことだろ? 体は動かなかった。でも、気持ちは動いたんだろ? キスしてない、セックスしてないけど、体は浮気してないけど、一番大事な心は浮気したんだろうが! 一番大事な、動かしたらダメなやつを動かしたんだろうが!」

『タモツ、ごめ……』

「謝ったらそれでおまえは気が済むかもな! たぶん、おまえとはもう2度と、会うことも、話すこともないと思うからはっきり言っとく! おまえ、最低だな! 最低な女だな!」

『ご……ごめ……ごめん、なさ……』


 スマホの向こうで、琴美が泣いているのがわかる。はっきりとわかる。


 最低なのはオレだ。オレの方が最低だ。


 でも、こうでもしないと。

 琴美にオレを突き刺さないと、オレはいつまでも琴美を断ち切れない。


「一人の人間を、死にたい気持ちにさせるぐらい傷つけて、それで結婚して幸せになれるとか、甘えてんじゃねぇっ!」

『ごめ……』

「一生、忘れんな! 一生、背負っていけ! じゃあなっ!」

『タモ……』


 ぷつっ、と通話を一方的に切る。


 そのまま、琴美の連絡先を着信拒否にして、その他もろもろ、ブロックし、2度と、連絡ができないようにして、オレはスマホを手から離した。


 ごとん、と床にスマホが落ちる。


 乱暴に冷蔵庫の扉を開いて、ビールの缶を取り出し、ぷしゅっと、グビっと、一気飲み。


 ひょいっと空き缶をゴミ箱へ投げ入れる。うまく入らず、からん、と床に落ちる。


 景色がブレる。

 うまく視界が確保できない。


 ああ、オレ、泣いてんのか。


 あの時。

 琴美と別れる時。

 琴美がどれだけ泣いても、一滴も涙はでなかったのにな。












 富山旅行、2日目。

 2泊3日だから、この日は丸1日、のんびり使える。


 富山駅まで出て。


 ふと、みどりの窓口を見る。


「………………金沢、行ってみるか」


 今日からは、新しい自分。新しいオレ。


 それなら、富山にこだわらず、その先へと進むのもおもしろいのかもしれない。














 ……この日、金沢を満喫中のオレは。


 ホテルの部屋の床にスマホを置き忘れたことには気づいたけれど。


 そのスマホに大学時代の友人たちから100件を超える着信、メッセージ、その他もろもろが残され、自殺したと思われているということを。


 まだ、知らない……。













この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

情けない元カレの未練旅断ち ~オレが前を向いて先へと進むために、溜め込んで澱んだ想いをぶつけるのは許されるのだろうか?~ 相生蒼尉 @1411430

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画