第3話
竜巻から一晩過ぎると、どこもかしこもメチャクチャに散らかっていた水槽の中も、ようやく片付いてガラスも少しきれいになったし、水槽の中の様子もよく見えるようになった。壷のような物の中で長老が暮らしているらしいことはわかっていたが、やはり細長い物が隅の方に見えた。僕は邪魔をしないようにと反対の隅で暮らしていたが、この時からこの長老のねぐらの側で暮らしたいと思った。
生まれてからそう長い間生きてきた訳でもないのに、僕はもう二度も死にそうなほどの恐ろしい体験をしている。でもそんな時、いつも僕は独りではなかった。お店のビニールプールでは大勢の仲間がいたし、今だって長老がいてくれたから僕は死なずに済んだのだと思う。
水槽が明るくなると、この家の様子がよくわかった。庭のあちこちには花が咲き乱れ、木にはよく鳥も飛んで来た。
「ああ、快適な部屋の中の暮らしもいいけど、庭の木や花を眺めて暮らすのもいいものですねぇ。緑の色の何とすがすがしい、花々の姿の何と美しいこと・・」
何だか心がうきうきして、ちょっぴりがらにもないことまで言ってしまった僕だった。長老はいつかのようにニヤリと笑い、そして言った。
「果たしていいことばかりとも限らんぞ」
僕は嵐のことで夢中だったし、あの悪臭から開放された喜びでいっぱいだったが、今度は何か妙な臭いが気になりだした。そういえば幼い頃にはわからなかったあの臭い。それが普通のことだと思っていたけれど、良さんの水槽の水とは違う臭いだった。おばさんのホースの水はあの幼い頃過ごした、巨大水槽やビニールプールの臭いと同じだ。僕の頭の中には又、あの頃のことが思い出された。
嵐から十日ほど過ぎるとこの住まいにもすっかり慣れ、僕はのんびり昼寝を楽しんでいた。太陽の力が少し弱まってきた頃、目の前に二つの真っ黒な玉のようなものがあって、上下左右にと忙しく動いていた。
「コラコラッ、しっしっ。このドラ猫め!」
おばさんの声に長老が近づいて来て言った。
「見たか。今の猫は俺たちを狙っていたぞ。中が見えるようになったから、又しばらくは来るぞ。なるべく天井には行くなよ」
長老から聞く鋭い爪でひっかけられて捕まった仲間の悲惨な話は、僕の心臓をバクバクと波打たせた。
長老は自分が今までどれほど危険な目にあってきたか、そしてそれを沢山の知識と知恵と勇気が、ここまで乗り越えさせてくれたのだということを真剣に教えてくれた。長老の住まいも最初はこの家の中にあって、僕たちが住んでいた良さんの家の水槽と同じく快適だった。だからおばさんが薄紅色の洋服を着た長老に、日に何度かさゆりちゃん、なんて呼びかけること以外には何も不満はなかった。
心豊かに暮らしながら、長老はおばさんが昼寝の間中つけっ放しのテレビで色んなことを学んだ。猫やカラスの攻撃の恐ろしさや、酸性雨が水槽の環境を悪くすること、強い直射日光で気分が悪くなることなどなど。それらの知識が庭の水槽へ転居させられてからの、長老の暮らしに大いに役立ったのだという。
長老はいきなりの環境の変化にとても戸惑ったけれども、おばさんが腰を痛めてもう水槽の清掃が無理になったのだから、仕方が無いと諦めて、恨んだり悲しんだりはしなかったそうだ。部屋の中の快適な暮らしもいいけれど、絶対に幸せな一生を送らせてもらえるという約束なんかどこにもない。だから、これからここでどうやって暮らしていくかを一生懸命に考えた。
腰痛がひどくなるにつれ水槽の掃除の間隔が開きだすと、おばさんはついにあの竜巻を呼ぶようになっていった。そうなっていくまでの間に少しずつ長老も逞しくなり、いつしか自分も腰が曲がると、おばさんの身体や心の痛みがわかるようになったのだと言った。
長老が自分のことをこんなに詳しく話してくれたので、僕も辛かったことをいっぱい聞いてもらった。長老は言った。
「どんな所に行かされても、忘れてはならない大切なことは、命がある限りそこで知恵をしぼり、一生懸命に暮らすということだ。生まれた時からすでに沢山の苦労をしているお前には、もうそれが十分に出来ている。辛いことばかりでかわいそうだとは思うが、反対にその苦難を乗り越える力を、誰よりも早く身につけられたということで、これは実にありがたいことじゃないか」
その日からおじいさんと言うのを止めて、はっきりと長老と呼ぶことに決めた僕は一日中、長老、長老と呼びながら、長老のしっぽにくっついて離れなかった。長老は曲がった上にもうすぐちぎれてしまいそうになったしっぽを気力で振りながら、僕に無理やり元気そうに泳いで見せてくれていたが、やはり相当に弱ってきているのがわかった。
冬になった。長老はもうほとんど動こうとしなかったから、僕は独りで薄い氷の張った天井まで様子を見に昇ったり、長老の身体をさすってあげたりして過ごした。そんなある朝、すっかり寝坊をしてしまった僕の耳に聞こえてきたのは、恐ろしく悲しい知らせだった。
「ああ、とうとういっちゃったね。ずいぶん長生きしたよねぇ。ここに埋めたら後の一匹は、公園の池にでも放そう。かわいそうだけど、今度越す家じゃ飼えないものね」
ビニールの袋に入れられた僕は、めちゃくちゃに揺られて運ばれた後、公園の池に放り投げられた。突然目の前に飛び込んで来た僕を、意地悪な鯉が大きく口を開けて追いかけまわして、池の端から突き落とした。
しばらく僕は気絶していた。やっと目が覚めた、かと思ったがまだ夢の中にいた。
僕の幼かった頃のあのプールでの夢の中に。いや、いや違う。これは夢ではないぞ、現実のことだ。池から公園にある人工の川につながる溝に突き落とされた僕は、今その川で遊んでいる子供達に捕まえられようとしていた。沢山の手がビュンビュンと僕を狙ってきて、僕は恐ろしさの中で懸命に逃げ回った。
夢中で泳いだ。泳いで泳いで、やっと着いた所が川だった。長老が教えてくれた本物の川だ。しばらくしてやっと気持ちが落ち着くと、僕は長老が死んだことや公園の池に捨てられたこと、独りぼっちになってしまったことなどを思い出し、気が変になりそうだった。
大きな声で長老を呼んでみたけれど、悲しみが増すばかりだった。しばらくの間わぁわぁ泣きわめいたら少しは気分が楽になり、その後には不思議と勇気がわいてきた。いつか長老が教えてくれた。川の先には大きな海が広がっているのだと。そこには僕たちの何倍も大きな魚がいる。ピラニアよりももっともっと恐ろしい魚達がいるのだと。
長老は僕達が海の水では生きられないということも教えてくれた。だからその海の水の近くまででいい。どんなに遠くて時間もかかるか知らない。でも行ってみたい。これから独りで、どれだけ強く生きていけるか試してみたいんだ。
そして強く誓った。どんな所にいようとも命のある限り、僕は一生懸命に泳ぎぬいていくぞと。長老と暮らした日々を思い出しながら・・。
~ おわり ~
泳ぎぬくぞ! @88chama
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