第2話

 夢中で暮らしているうちに、いつしか季節はもうすぐ夏を迎えようとしていた。毎日降り続いていた雨もどうやら終わり、汚れたガラス越しにきれいな虹が見える、そんな日だった。


 静かに長老が寄って来て言った。「いいか、すごい体験をするぞ。いや、すごいというより恐ろしいと言った方があっているかも知れんがな」

 「何のことですか」

 「嵐じゃよ。嵐が来るぞ。どでかい竜巻がこの水槽の中に起こるのじゃ。覚悟をしておけよ」

 


 真夏になった。カンカンの日照りの中をこの家のおばさんが、長いホースを持って近づいて来た。時どき餌をポンと投げるとすぐ立ち去ってしまう人だから、僕はよく知らないがすごい人だ、と長老は言う。どうすごいのかは竜巻の季節になれば分かるからとニヤリと笑い、それっきり会話は続かなかった。


 でも、その意味が本当によく分かった。嫌というほど思い知らされたのだから。そのおばさんが起こした竜巻のすごさと言ったら。ああ、それは僕が生まれてから二度目の、恐ろしい経験だった。


 おばさんのホースが僕のしっぽのすぐ側に刺さったと思った瞬間、強烈な勢いの水が剣のような鋭さで水槽の底を突いた。すると、今まで長い間積もりに積もった、ぶ厚いジュータンのような水底がえぐられひっくり返されて、水槽の天井目がけて舞い上がったのだった。


  それが始まりの合図のようなもので、それからのことは命からがら逃げ回った幼い日の、生まれて初めて経験した、あの恐ろしい出来事と同じだった。強烈な勢いの水は途絶えることなく続き、水槽の中では長老の言った通り竜巻が起こると、その水の流れに乗ってグル~ゥングル~ゥンと、僕らの身体は大きく激しく振り回された。


 僕たちには水の流れに逆らって泳ぐ習性というものがあるらしいが、それを無視して流れに身をまかせるのだぞ、と長老は口を酸っぱくして注意してくれたけど、僕は習性なんかそっちのけで、息をするのさえやっとの思いだった。


 ぶ厚いジュータンは強力な水の力でグチャグチャにもまれると、それはそれはひどい悪臭を放った。僕は気絶しそうになるのをグッとこらえ、竜巻の流れの上昇に乗って水面に出ると、その瞬間に大きく息を吸い、又もぐってはしばらく息を止める、という動作を繰り返してしのいだ。この水流に巻き上げられた身体が、水槽の外へ放り出されて地面に叩きつけられ、大勢の仲間が死んだと後に聞いた時、僕は震えあがった。


 悪夢の時間は過ぎた。荒れ狂うホースからの水が止まると、いくつものどす黒い水の塊が、水槽の中で暴れて止まなかった。僕はその塊にぶつからないように逃げ回りながら、恐ろしかったあの日のことを思い出していた。

 


 僕が生まれたのは巨大な水槽の中だった。そこには何百、何千、いやおそらくそれ以上の仲間がいただろう。そんな所でひしめきあって過ごしていたある日、その水槽をのぞき込む男がしゃべっているのを僕は聞いた。

「こいつら、そろそろピラニアのエサにいいんじゃないか」

 思わず気絶してしまった。だって僕はまだ子供だったけれど、ピラニアって恐ろしい生き物が、僕たちを狙っているという噂は知っていたからだ。気絶したままペットショップに運ばれて行き、店の前の大きなビニールのプールに入れられたかと思うと、僕はすぐさま大勢の人に囲まれてしまった。


 気がついて見上げると、幾つもの目玉が真剣に僕らを見つめていて、手に持ったスプーンのようなもので一斉に追いかけ回し始めた。僕はそれにすくわれないようにと必死で泳いだ。何とか逃げ延びてほっと一息つき、ふと斜め前方の大きな水槽に目をやると、ゆうゆうと泳いでいる立派な魚が目に止まった。側にいた仲間にヤツがピラニアだよ、って囁かれたとたん、僕はまた気絶しそうになったが、今度はそんな訳にはいかなかった。


 水のざわめきが僕にはまるで、ピラニアとスプーンのお化けとが「おら、おら、おら」と言って僕らの泳ぎをあおりたてているように聞こえたからだ。僕は一生懸命、しっぽがちぎれて息も止まってしまうかも知れないと思えるほどの速さで泳いだ。おかげで何とか生きのびることが出来たが、その晩は死んだように眠った。

 

 その翌日だ。僕ら十一匹は良さんのペットに選ばれた。泳ぎの上手な七匹は良さんに、前日の疲れでヘトヘトの三匹は良さんの子供のスプーンにすくわれた。そして僕はといえば、お店の人から良さんの子供へのおまけだった。ああ、神様、僕をおまけに選んで下さってありがとうございます。僕は泣きながら、天に向かって何度も何度もお礼を言った。


 それからの暮らしは言うまでも無く、毎日が天国にいるようだった。水はきれいだし温度も快適で、酸素はそりゃぁもう吸いたいだけ吸える。おいしい高級なエサと十分な運動で、僕はずいぶん大きく育った。もうピラニアのエサだったなんて誰も思えないほどだ。

そうやって幸せに暮らしていたのに、良さんの子供が・・いや、言うまい言うまい。新しく飼ったピラニアに僕らを食わせないで、このおばさんにあずけてくれただけでもありがたいことじゃないか。






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