泳ぎぬくぞ!

@88chama

第1話

 あの時、長老と会えたから、僕はこんなに強く逞しく生きる力を持つことが出来たんだ。もしあそこに長老が住んでいなかったら、あの新しい住まいで冬を迎える前に、僕はもう死んでいたかも知れない。

 どんなにしっぽが曲がっていようとも、ちぎれてぼろぼろになっていようとも、立派に泳ぎ堂々としていた長老を思うと、身体の底から勇気が湧き出て来る。長老、長老と心の中で叫びながら、僕は今日も懸命に泳いでいるよ。



 僕たち五匹が新しい住まいに着いたのは、もうすぐ日が暮れようとしている時だった。車を止めると良さんは庭に行って、木の下にある水槽に僕たちを流し込んで帰って行った。まだかすかに夕日があたっているのにその水槽の中は、まるで真夜中のように真っ暗で何も見えなかった。

 

 仲間達が僕の横を通り過ぎる時、僕は何だかぬらっとしたものに、身体を撫でられているように思えてならなかった。不快感と一緒に、今までとは違う息苦しさもそこにはあった。長旅の疲れた体で僕はぬらぬらの水の中を、ぬらぬら、ゆらゆらと泳ぎ回った。


 少したって目が慣れてくると水槽の底の方に、仲間とは違う姿があるのを見つけた。いや正確にははっきり見えてはいなかったのだから、気配で分かったと言うべきだろう。僕はその姿に向かって声をかけた。


 「初めまして。これからここに住むことになりました。よろしくお願いします」

 「お前だけだな、まともに挨拶ができるのは」

 それだけの返事が返ると、あとは何も聞こえなかった。



 それが長老との初めての出会いだった。夜が明けて辺りの様子が分かるにつれ、今度の住まいの酷さについ涙が溢れてくるのだった。仲間達には悟られないようにしていたが、長老にはすぐに見破られてしまった。


 「弱虫め、泣くな!ずっと部屋の中で暮らしておったな。そのうちに慣れる。それまでの辛抱じゃ」

 情けないことは百も承知だけれど、悲しくて苦しくて、とても辛い。そんな僕を長老は全てお見通しだった。



 一週間もするとここの水にも慣れ、僕の呼吸は少し楽になってきたが、仲間の一匹の泳ぎが鈍くなってきていた。自分の泳ぐ姿がタキシードを着てダンスしているようだろう、と大威張りの全身真っ黒な彼だったが、今の姿からは到底ダンスなんて想像出来はしなかった。


 次の日にはしっぽの長さを自慢して、いつも彼と並んで泳いでいた、真っ赤なドレスの彼女が全く動かなくなってしまった。


 僕たち三匹はただオロオロするばかりだった。以前の住まいではこんな時、水草のかげで休ませて静かに見守ってあげていた。水槽のポンプからはいつも新鮮な空気が溢れていて、その空気の玉を見ているだけでも、十分に元気を取り戻すことが出来たのだった。


 けれどここには新鮮な空気の玉など一つも無いし、水草どころか四方のガラスの壁にはまずそうで汚げな藻が、びっしりと生えて陽を遮っていた。越して来た次の日に貰ったフランスパンの切れ端なんかは、なかなか食いちぎれなくって大変だった。


 けれど一番身体のでかい兄貴分が欲張って、たくさん食べたら二週間目にお腹をこわして、具合の悪かった二匹と一緒に死んでしまった。僕と残ったもう一匹は、お互いを励ましあいながらひと月ほど生きていたが、そいつもある朝、水面にお腹を出して浮いていた。


 けっこう広い住まいだったが、それでも勝手気ままなダンスのカップルや、兄貴分に威張って泳がれると、薄暗い中で衝突事故が起きそうで、僕は毎日ビクビクし通しだった。そんなストレスからは開放されたけど、それさえ懐かしくて、泳ぐ元気も出なかった。



 何日泣き暮らしただろうか。独りぼっちは寂しくて心細かったけれど、身体は不思議と元気だった。息苦しいのもなくなり、身体を触るぬらりとした感触にもすっかり慣れて、むしろ心地良ささえ感じられるようになった。


 「どうだ、少しは元気になったか。そうか、良かった。悪かったな。知らんぷりをしていた訳ではない、ずっと見ておったぞ。よく独りで耐えてきたな。偉いぞ。褒めてやろう」

 それだけ言うと、長老はすーっと水槽の隅に消えた。そうだ、僕は独りぼっちじゃないんだ。悲しみにくれている間、僕はここに長老がいたことさえ忘れていたのだった。



 長老は僕を避けているかのように、いつも遠い所で静かに悠然と泳いでいた。ぼんやりと影のようにしか見えなかったが、時おり強い日差しの日には、その姿を見ることが出来た。そんな時には何故か、必ず長老の姿に後光のようなものがさし、僕が密かに名づけた長老という名にふさわしく、ますます近づきがたい立派な存在となっていった。



 

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