クジラは冷たい宙に眠る

かんな

クジラは冷たい宙に眠る

 青い光を大きな影が遮った。ノームはまただ、と腕時計を見る。地球標準時の朝八時、この三十分前にも彼はジャンプした。半球の窓に近づいて覗くと、ノームの乗る船と地球の間をザトウクジラが悠然と泳いでいる。黒くずんぐりとした巨体に縞模様の腹、顎で起伏を見せるコブの輪郭を地球光が縁取る。翼のような大きな腹鰭は先端が白く、よく見ればその影で子クジラがくるくると体を回している。小さな翼を動かして真空の海に遊ぶ姿は微笑ましく、ノームはしばらくのあいだ子クジラを見つめた。

 親子の姿がゆったりと遠ざかっていく。あれだけ大きなブリーチングをして獲物でもいたのだろうか。クジラの航跡が広がるにつれ宇宙デブリも拡大、そもそもデブリを捕食するかも不明だが、少なくともクジラ以外の小魚はいない。

 ザトウクジラが巨体を移動させると、窓一杯に地球が広がる。大気の膜がうっすら青く輝いている。

 小さな影が横切った。細長い体に長い背びれ、特徴的な曲がった胸鰭、オキゴンドウだった。その一頭を皮切りに小型のクジラたちが押し寄せる。ザトウクジラのジャンプを避けていたのが戻ってきたのだろう。多種多様、大小様々なクジラの大群が押し寄せ、ノームはダイアナに彼らの軌道から離れるよう指示した。地球を周回するクジラたちの中には、何組もの親子が見える。

「手紙が来ているよ」

 落ち着いた少女の声の呼びかけにノームが顔を上げると、宙を浮いた立方体がくるりと回る。小型宇宙船ダイアナの船内における体はナノマシンを両手で抱えられるサイズの立方体に固めた物で、見た目はキューブ状のおもちゃにしか見えない。ノームがそう言うとダイアナはすぐさまその形へ変形して見せ、そしてそれがいたく気に入ったようだった。船内にはセンサーがあり、体を得る必要はないのだが、「小箱ひとつ分の圧迫感は意外と大切だよ」と漂っている。

 手紙、と聞いてノームはその場から離れた。

「あとで読む」

 またそう言って、とダイアナが後をついてくる。

「誰の手紙かも確認しないの?」

「いい」

「した方がいいと思うよ」

 ノームは仰向けになって腕を組み、ついてくる立方体を睨んだ。

「くどい」

「あ、そのまま」

 目前で画面が立ち上がる。抗議のために口を開いたノームは固まった。

「……わかった?」

 メールは『特異性ハイパーソムニアに関する緊急のお知らせ』と題されていた。

 特異性ハイパーソムニアとは耐えがたい眠気による入眠後、現時点では覚醒者がいない新病である。初確認が五年ほど前、以降、患者は国境をまたいで拡大と増加を繰り返し、小国では国としての機能が維持出来ない事態にまで陥っている。

 病気の正体を探ろうにも関係者が次々と眠りについてしまうため、原因も対処法も不明、何故、伝播するのかもわからない。辛うじて観測出来たのは患者の脳波が常にノンレム睡眠にあるということで、昏睡状態を提言した医師もその翌日には眠ってしまった。

 残る人類に出来るのは眠る人々の保護と、これから眠る人々のための環境づくり、そして対処法が見つからなかった場合の最悪の事態に備えること──ノームはそう記憶している。

 ノームには船に乗る直前の記憶がなかった。乗るまでの記憶はあるが、気づいた時には既に乗船していた。水や食料などの備蓄は万全だが他に乗員はおらず、地上管制へ問い合わせると出航許可証と提出されている運航計画を見せられ、それに問題はなかった。試しに自身の個人情報を引っ張り出してみたがこちらも記憶の通りである。

 どうして、何故、と繰り返すことは非常に疲れることで、そして無駄だった。端末から地球の様子を引っ張り出して見ても虚無で鐘を叩くようなもので、音の響かない鐘を持ち続けても無意味なことに気付いたある日、窓の外を優雅に泳ぐクジラを見た。

 初めは一頭だけだったものが、それは日を追うごとに増えていった。まるで件の病気のような増え方だが調べる手段はない。ダイアナにもわからないと言われ、記憶もやるべきことも、ついでにやることもなかったノームはクジラを観察するしかなかった。ホエールウォッチングに行かずとも、海以上に広大な宇宙でクジラを見られるのは幸運かもと呑気に考え、そしてそう考えている間は家族のことを思わずに済んだので気が楽だった。

「……眉間の皺、深いよ」

 ダイアナが角でこつんと叩く。額をさすったノームは「うるさい」と答えて足を抱える。

 仲は良かったが、いい親子関係だったかと問われると微妙である。両親はノームへ構いたがり、ノームはそれを煙たがった。不安や心配は勿論、愛情までも押し付けられているような気がして、家はいつもそれらで一杯だった。

 息が出来ない。胸が詰まる。高校は寮のある所へ、大学は地元から離れ、就職は国を離れ、何があったか地球を離れて宇宙まで。──離れた方がいい親子というのもある。

 だから、クジラの親子を微笑ましいと思いこそすれ、理解は出来ない。自分もクジラになればああなるのだろうかと、夢想することも難しかった。

 その両親が、死んだ。特異性ハイパーソムニアに発症したことに気付かれずに死亡、死因は餓死とメールには綴られていた。入眠に気付かれず、適切な処置がされないまま放置され死亡した例はある。だが、それが身近で起こるとは何故か思わなかった。

 メールには経緯と現状の説明、お悔やみの言葉に続いて今後の対応について書かれていた。状況を鑑みて遺体は冷凍保存されているため、面会をするのなら近日中に。埋葬については希望に応じ、墓所に心当たりがなければ行政の方でリストアップしたものから選択してほしい。

 手厚い、という感想が浮かんだ。人がいないだろうに、むしろいないからこそ数少ない生存者へ心を傾けられるのか。最後の仕事、という言葉が降りてきて、両親の死を知った時よりも強い痛みが胸を刺した。

 窓の外ではクジラの群れが通り過ぎていく。オキゴンドウの親子が互いに位置を入れ替えながら泳いでいった。地球光が目を刺し、ノームは足を伸ばして方向を変える。

「頭痛いから寝る」

 ダイアナは「おやすみ」とだけ言う。


 ノームは闇の中で漂っていた。何事かを呟いてはいたが、言葉の部分だけが早送りされているように聞こえなかった。だが、その声は非常に狭い空間の中で響いていた。顔の周辺だけ、ヘルメットのようだと思うと目前の闇にうっすらと光が反射する。やはり何かを被っている。同時に、体も何かを身に着けているようで動きが鈍い。手を持ち上げてみると、分厚いグローブと分厚いオレンジ色の服が見えた。

──船外宇宙服だ。

 途端、背中から引っ張られる。それはノームの体をぐいぐいと引っ張って光から遠ざけた。光だと思っていたのは白い船、そこから紐のような物が漂っている。命綱、という言葉が頭に降りた。すると、引っ張られているように感じていた体は、腹から押されているのだと気づいた。船の周囲に細かな破片が舞っている。

 待てと叫ぶ。ここだと吠える。頼むと懇願した。

 それでも、ノームの体は船から遠ざかっていく。


 勢いよく目を開いたノームは荒い呼吸に「またか」とうんざりする。ベッドに固定した体は汗をかいている。胸に手を当てて早鐘を打つ鼓動を落ち着けていると、照明がゆっくりと光を取り戻していく。ベッドから降りて思わず手を見たが、夢で見たようなグローブでは勿論ない。部屋を出ると、ダイアナが浮かんでいた。

「ひどい顔だよ」

「わかってる。嫌な夢」

「睡眠薬使ったら? もう七日にもなる」

 あの夢を見るようになって七日、両親の死亡の知らせを受け取ってからも三日になる。ノームは食堂へ向かいながらダイアナへ尋ねた。

「……ねえ、この船には本当に誰もいないの?」

「きみとぼくだけ」

 その割に食堂は広く、船室も余っている。操舵室の座席の多さからも、多人数が使うことを想定した造りだ。外へ出たことがないので想像するしかないが、夢に出てきた白い船と規模は似ている。

 夢を思い出してノームは咳き込み、飲んでいた水を吐いた。あの恐怖と絶望は嘘ではないと体が訴えている。何故、そう思うのかはわからない。だが、夢を思い出すと震える手には明らかな恐怖が詰まっている。ノームの与り知らない恐怖だ。そんなものに、いつまで振り回されていればいいのだろう。

 ふつふつと腹の底で湧き上がる感情に突き動かされて、ノームは食堂を飛び出した。

「待って! ノーム君!」

 制止の声を振り切って向かったのは船の後部にある船外宇宙服の格納室だった。開閉パネルに触れて入ろうとするが、やはり扉は開かない。追いかけてきたダイアナを振り返り、ノームは扉を示す。

「中を見たいから、開けて」

「駄目だよ。ここは立入禁止」

 船で目覚めて後、船内を探索した時にも聞いた言葉だった。あらゆる場所をダイアナは案内したが、この格納室だけは汚染されていると言って見せてもらったことがない。

「事故が起きて汚染されているなら、証拠を見せて。センサーは動いているんでしょ」

「そのセンサーも壊れてるから出来ません。ほら戻った戻った」

「中に猫でもいるの?」

「にゃあ」

 ノームは顔をしかめる。ダイアナに促されるまま引き下がったが、閉ざされた部屋への言いしれぬ引力だけは心に残っていた。

 だから一計を講じた。船内で何かをすればダイアナが気づく。それならダイアナを眠らせてしまえばいい。その日の夕食後に「頭が痛いからもう寝る」と告げ、前と同じようについてこないことを確認して船のサーバールームに忍び込む。ダイアナのメインコンピューターの電源を落とし、工具箱から拝借したバーナーを握りしめて格納室へ向かった。

 非常電源へと切り替わった照明が足元を点々と照らす。途中、窓から見える地球が悲しくなるほど美しかった。暗闇に冴え冴えと広がる地球光を、ミンククジラたちが細切れに遮っていく。不自由であるはずの空間で自由に泳ぐ彼らと自身を顧みて、ノームはしばらくその場で足を止めた。

 格納室の扉のセンサーを持ってきたバーナーで熱する。ダイアナによる開閉の命令を受け取れるなら扉は生きており、それを壊せば開くはず。単純な考えに不安はあったが、しばらくの後に頑なだった扉がふっと緩んだ。わずかに空いた隙間へ両手を突っ込み、戸口に足をかけて上体を反らすと、少しの抵抗の後に扉が開く。

 汚染されているなら、この時点で既に影響が出ているはず。だが、身体に異常はない。思考も問題なく行える。

 中を覗くと人影が見え、ノームは一瞬固まった。よく見れば奥の壁に備え付けてある姿見へ自身が映っているだけで、詰まりかけた息を吐いて足を踏み入れる。入って正面に青いベンチが伸び、両側の壁は四つの区画に仕切られ、その中に船外宇宙服が置いてある。オレンジ色のそれにノームは息を飲んだ。

──夢と同じ。

 仕切られた四つの区画のうち、三つには宇宙服があった。だが、右奥の一つは空になっている。

 ノームは恐る恐る近寄った。ようやく、目指した答えにありつけるというのに喜びよりも恐怖が勝っていた。体は今すぐにでも逃げ出したくてたまらない。知りたかったはずのことを、本能が拒んでいるように感じる。だがもう、ここまで来てしまったのだから行くしかない。

 重い足を引きずるようにして進み、首を伸ばせばすぐそこという所で足を止めた。息を整えている間、隣の区画に置かれた宇宙服が首のない頭でこちらを見つめている。頭部は服の下で、怯えた表情の女を映していた。

 鼓動に身を震わされながら、そっと覗き込む。そこには空虚が居座っていた。自身を苛むようなものは見当たらない。考えすぎだった、とほっとしかけたノームだが、奥の壁に貼られたものを見つけて息を止める。それは家族写真だった。冴えない顔の若い男に三歳くらいの少女──その隣で笑う女はノームの顔をしている。

「……え?」

 窓や鏡に映って見てきた顔を間違えるはずもない。だが、何かが違う。この写真には大きすぎる違和感がある。それを答えにしようとして口を開く。

「俺じゃない」

 飛び出したのは低い男の声だった。ノームは思わず口を抑える。

 何が起きている。これが汚染の影響なのか、だが部屋の中にそれらしき痕跡は見当たらない。何かが起きている。それも自分にはわからない何かが。逃げなければという体の反応は正しかった。今はそれに従った方がいい。そしてダイアナを呼ぼう。

 踵を返したノームの視界が回転した。眩暈──否、これは世界の回転である。

 そこで、意識は途切れた。



 目を開くと、うっすらと明かりが見えた。何度か瞬きを繰り返すと通路の明かりが点いているのが見える。ダイアナが目を覚ましたのか、とノームはぼんやりと考えた。どうやら自分は倒れているようで、横になった風景の真ん中でダイアナが座していた。

「……ダイアナ」

 呻くように呟いた。

 ダイアナはふっと浮き上がり、ノームの側で止まる。

「そうだよ、ノーム君、思い出した?」

 体を起こしながら、ノームは自分の手足を見た。骨ばっていて筋肉の薄い体、これが自分だ。視界の端に光る物を捉えて振り返ると、備え付けの姿見に冴えない男が映っている。目の下の隈が濃く、年齢の割に老けて見られることが多い顔。

 ノームの後ろでダイアナは戸口に向かった。

「移動しようか。クジラでも見れば少しは落ち着くかもよ」

 窓の外をクジラの群れが泳いでいく。地球の影に入り、遠ざかる光を追いかける姿にも見えて哀れだった。

 ノームはダイアナがどうやってか淹れた暖かい紅茶を飲んだ。ふっと広がる甘みに目を丸くしていると、ダイアナが「蜂蜜入り。香りだけね」と教えてくれた。

「名前は憶えている?」

「ビクター……ノーム。ノームは名前じゃない」

「うん」

「船の派遣点検員。36歳、男。妻と娘が一人……いた」

 ノームはコップから顔を上げる。

「ここはあの船か。今はいつだ。俺はどうして、あの顔は」

「落ち着いて。まず、この船は間違いなく、きみが派遣され事故の起きた船。そして今は西暦2145年四月十日」

「……は?」

「きみのご両親の訃報が届いたのはつい先日のことだよ」

 ありえないとノームは呻いた。派遣された年月日は記憶と一致している。だが、両親の訃報が届いたのはその五年前だ。

「それに俺は……あの時事故で、宇宙に……」

 その先を言葉にするのは恐ろしかった。今こうして思い出している自分と、闇に放り出された自分とを重ね合わせたくない。震える体を抑え込むノームへ、ダイアナは優しく語りかけた。

「あのね、きみは事故で宇宙に放り出され、そしてブラックホールに飲み込まれたんだ」

 ノームの目の前に浮かびながら、ダイアナは続けた。

「きみは帰りたいと、ずっと願った。あの中は重力の大嵐、光も時間さえも飲み込んで歪めちゃう。情報量っていう、ぼくらには計り知れない力も」

 ダイアナは風車のようにゆっくりと回り始める。

「きみの願いは強烈な情報量としてブラックホールの中で膨らんだ。でも、きみはその願いを極限状態にあってさえ、否定した。その理由、今のきみなら言えるよね」

 ノームは俯く。その顔の影へダイアナは小さな体を滑り込ませ、レンズを絞った。

「……親から逃げてこんな所まで来た奴が帰りたいなんて、我儘にも程がある……」

 うん、とダイアナは相槌を打つ。ノームは声を震わせた。

「俺は親から逃げた。家から逃げた。だから、あいつや子供にも向き合えなかった。亡くしたのは全部、俺のせいだ。俺がちゃんと向き合えば、もしかしたら……」

 レンズに涙が落ちる。ダイアナはノームの影から窓の側へと移動した。

「願いは本来意識して行われるものだけど、きみはその逆だった。帰りたいと望む無意識が意識を凌駕して情報量は増大。大きな山を越えるには大きな力が必要でしょ? けど宇宙のそれは一定なんだ。偏った力の対面では減っていくだけ。それが地球、そして生じたのが特異性ハイパーソムニア。情報量の減少が真っ先に影響を与えたのが人類ということだね」

 ノームは赤い目でダイアナを見上げた。落とした涙がレンズの曲線をなぞっている。

「……俺が?」

 うん、と答えたダイアナの声はいくらか苦い。

「窓を見てくれる?」

 ノームはのろのろと動いて窓に顔を張り付けた。

「上の方をよく見て。地球の光に紛れて薄くなっているけど」

 目を細めたノームは闇の中で浮かび上がった姿に声を上げて飛び退った。

「このあたりから見えるのは上顎の裏。ずっと向こうで光ってるカーテンみたいなのはクジラひげ。下の方を見ると舌が見えます」

 闇にぼんやりと浮かび上がったのはごくごく薄いピンク色の口の中だった。自分の口の中を鏡で見たことを思い出すが、それよりも細長く実体感がない。ダイアナに言われて遠くを見つめると、位置的に上から細い何かがカーテンのように連なって輝いている。下を見る勇気はなかった。

「きみの無意識は意識を超えてしまった。この意味、わかる?」

「眠っている」

「うん、そんな感じ。ブラックホールの中で膨大な情報量を得たきみの無意識は、その願いのベクトルに従って、地球へ帰ったんだ。でもそれはきみ自身じゃない。きみの願いが生んだ形だ。それがあのシロナガスクジラ。そしてきみは──というか、シロナガスクジラはぱっくりと、地球を含んだこの辺り一帯を飲み込んだんだ」

 ノームは力なく椅子に戻った。

「そこで、情報量の流出は止まったけど宇宙では偏ったまま、この中では未だに膨大な量が滞留していて、だから何でも起きる。きみに触発されて生まれた、あのクジラの群れみたいにね。あれは特異性ハイパーソムニアの人たちの無意識だよ。宇宙を泳ぐ夢を見ているのかも」

「何でも起きるから、こんなことになっているのか?」

「そう。そしてきみは自分の願いに素直じゃなかった。だから、逆行も中途半端に行われた。……それがまさか、ご両親の訃報をまた聞かせることになるとは思わなかったけど」

 気づかわしげな声に「いいんだ」と頭を振る。

「そこまでしなければ、気づかない馬鹿だ」

 ノームは辺りを見回した。

「……ここが俺の夢の中」

「それが現実を侵食しているんだ。滞留した情報量がなんやかんやあって、この状態。ぼくにも観測しきれないよ」

 体があれば肩をすくめていそうな言いようである。ダイアナは続けた。

「ただ、ここには新しい宇宙の法則が出来上がり始めている。いわばビックバンだね。クジラに合わせるならビックウェーブの方がいいかな? ここで過ごすのも一つの選択肢だし、ぼくはそれを尊重する。でも、帰ろうとしていたきみの心は、本当にそれで満足?」

 ダイアナは四角い体をこてん、と傾けた。その姿にノームは不思議と幼い娘を思い出していた。彼女もこういう風にして物を尋ねる時に首を傾ける癖があった。おそらくそれは妻の真似をしてのことで、数少ない家族の記憶である。

──覚えている。

 ただ、それは過ごしていたはずの年月に対してあまりにも少ない。もっとあったはずの思い出を進んで自分は捨ててきた。その資格がない、自分は逃げてきたのだからと足を向けることすらしなかった。故に二人は交通事故で死に、それ故に天罰が下ったのだと思った。

 もう一つ、思い出したことがあった。愛娘は小さな体で覆い被さるようにして図鑑を見るのが好きだった。繰り返し同じページを開くものだから、すっかりくせがついて放っておいてもその部分が勝手に開く。

 開いたそこでは、いつでも世界中のクジラが待っていた。

「……うん、そうだね。思い出したもんね。過去に戻って、奥さんと子供を引き留める。家で映画を観て、きみがご飯を作って、子供と一緒にお風呂に入る。そういう一日を送るために、きみは帰ろうとしたんだよ」

 ダイアナはくるくると回転した。

「さあ! そうと決まったら善は急げ!」

「いたっ、いてっ」

 ダイアナは角でノームの背中をつつく。たまりかねて立ち上がるが尚もつつくのを止めず、そのまま居室へ歩かされた。

「急ぐって、船で?」

「無理無理、物理的な影響は意味を成さないよ。やることは簡単、ベッドに横になって寝るだけ。いい? きみの眠りがこの宇宙を作っている。つまりは、目覚めたら全て駄目になるってこと。ということは?」

「……寝る」

 答えながらベッドに腰掛けると、ダイアナはすかさず胸をつついた。体が後ろへ傾く。

「その通り!」

 ノームの頭は固い枕に収まり、胸の上ではダイアナが喋り続けている。

「もうきみは大丈夫。だから、未完成の夢を完成させに行って」

「でも、どうやって」

「まず全人類には眠ってもらうとして」

「本当に?」

「それだけのエネルギーが必要ってことだよ。……やめとく?」

 数秒考えた後に頭を振る。

「……嫌だ」

「うん。ここはきみの眠り、きみだけの宇宙。きみの法則で全てが動く。あのクジラたちみたいにね」

 出来るのか、と尋ねた声がぼんやりとして聞こえていた。また恐ろしい夢を見るのではないかと不安がよぎる。だが、ダイアナの声が閃光のように射しこんだ。

「出来るよ」

 まどろみかけた瞼が一瞬動きを止めた後、段々と重くなっていく。穏やかな闇が頭の後ろから覆い被さってくる。

「おやすみ」

 そして、闇が降りた。



 静かな寝息が聞こえ始めるまでに時間はかからなかった。四角い体の下で胸が上下に動く。目を閉じると思いのほか長い睫毛が影を落としていた。その目が彼の意志でダイアナをとらえた時、わずかな期待があったことを思い出す。

「……でもやっぱり、そういうところだよね」

 一面分、横へと転がってビクターの顔を見つめる。

「ノーム君の姿やぼくの声を聞いても、何も気づかないんだもの。……でもねえ、そういうところが、私は好きなんだ」

 ここはビクターが描いた不完全な夢。あらゆることがひっくり返るここでは自分の姿さえもひっくり返る。──夢見る前に、強く思った誰かになることも出来る。例え、そう願ったことを忘れたとしても。

 四角い体を斜めにして、気持ちとしては体を伸ばしているつもりで長い声を出した。その下で眠るビクターの体が段々と薄れていく。深い眠りへと入り、意識が霧散して彼の世界へ溶けていくのだ。上下する胸が段々と静かになっていく。

「おやすみ、ビクター。私と、今度は会えることを願ってる。事象の果てから、私もきみを待ち続ける」

 すとん、と体がベッドへ落ちる。ビクターの体は消えていた。

 ダイアナは浮かび上がり、その体に光を走らせる。世界の中心たる彼を送り出すまでが自身の役目、以降は世界に霧散して娘の意識の残滓をかき集める。ナノサイズにまで分散出来る体は貴重だ。しかも肉体ではないから空腹も疲労もない。ただし、そのサイズにまで分かれてしまうと、自らの意識は保てない。故に、自身の行動における最優先事項だけを残して眠る必要がある。

「……眠れるかなあ。……何もかもが心配すぎて眠れなかったらどうしよう」

 だが、その心配も杞憂だった。四角い体から光の粒子が流れ出て、その形が崩れ始めると風景にノイズが混じり始める。機械の眠りとはどんなものだろう、という好奇心さえ霧の中へ消えていく。

 ビクターが望んだ宇宙では何でも起こりうると言った自分が、自らに起きている状況に驚いていたなど彼も知るまい。肉体という物理的な情報は既に消えていたが、意識という量子的な情報は元の宇宙に漂い次の形を待っていた。そこには既にかつての「個」としての意識はなかったのだが、ある時、唐突に思い出した。

 そして、あの船でダイアナは目覚めた。

 探さなければ。彼が道筋を探すのなら、自分はその果てを探す。終わりのない夢は死でしかない。ささやかで大それた夢を終わらせて、そしてこの宇宙を終わらせる。

 光の粒が空に消え、そこにダイアナであったことを示すものは何もない。窓の外ではクジラが群れを成して泳ぎ、そこへ一頭、また一頭と新たなクジラが増えていく。歌も通さない真空の海で、故郷を眺めながら巡り続ける。

 ザトウクジラの瞳が空を見上げる。闇に降りる光の筋が揺れる。その彼方で星が瞬き、数万年前の光をシロナガスクジラは見つめ、銀河の揺り籠に身を浸す。

 そうして人類は永遠の眠りについた。



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