第4話
勘定の時、オレの分も一緒にカードで支払おうとする彼女にワリカンを主張した。
店主はオレ達の方をしげしげと見て、その関係を思案しているようだった。そして言った。
「あの、未成年の方でしょうか? それならお安くなる割引がありますよ」
「いえ、未成年なんかじゃありません! れっきとした大人です! 二十一才になります、今日で」
「今日で?」と店主も優理子さんも驚いていた。
「何か証明できるものはございますか? 当店ではお誕生日のお客様には半額のキャンペーンをしているんです」
「免許証ならありますよ」オレはズボンのポケットの財布から免許証を取り出して見せた。
「……本当に誕生日だったのね」
「そう。毎年、誕生日に滝を見に行く事にしてるから」
それから二人でまたバスに乗り、来た道を引き返した。白っぽい明かりの灯るバスの中には人は少なかった。勤め帰りのちょっとくたびれたような人を見るとどんな仕事についているんだろうと考えたりした。バスのつり革を持ち、立っている優理子さんの華奢な姿は朝、列車に並んでいた時の印象と何だか違って見えた。朝は頼りなげだったのに、今は心なしか強く見える。
別れ際に「今日はありがとう。楽しかったわ」という優理子さんに「僕の方こそ」なんてキザなセリフも言えず、またいつかどこかで会えるんだろうなんて甘い期待を抱いていた。
「あ、そう言えば……」とオレは思い出して言った。
「何?」
「虹を見つけた事ないって言ったでしょ? 秘訣を教えます、虹を見つける」
「へえ、どんな方法?」
「いつも出来るだけたくさん空を見るようにする事」
***
季節は過ぎ、秋の足音が聞こえてきたかと思うと、街中にはもう冬のセーターを着ているような季節を先取りするヤツらも見かけるようになった頃。例の同級生の親夫婦が一人暮らしのオレのアパートにやって来た。近況を見るついでにと、野菜や果物や日用品までお裾分けだとどっさり持って来てくれた。松恵さんは、例のブランドのバッグを持っていた。
それで、「そういうバッグって高いんだよね?」とオレがさり気なく訊くと、「高い事もあるけど、手に入れるのが大変なの。このビンクベージュは限定品だもの。結婚十周年の記念にダンナから買ってもらったのよ」とチラリとダンナさんの方を見た。
「へえ、限定品なんだ。それ、持ってる人、少ないんだ」
「そうよ。そう言えば駅前のクリニックの院長夫人も持ってたわ。剪定のための下見に行った時に見たの」
「クリニックってあの駅前にあるオシャレな内科?」
「そう。高階ハートフルクリニックよ」
「た、高階?」オレは動揺した。
「高階ハートフルクリニックの事、知ってるの?」
「いや、ちょっと聞いた事あって。でも同じバッグなんて女の人はそういうの気にするもんじゃないの?」
「剪定の下見に行くのに、こんなバッグ持ってかないわよ。それに院長夫人はサッパリした可愛い人だもん。気にするかしら。院長夫人って言っても最近離婚したけどね」
「え?」 やっぱりとオレは心の中でつぶやいた。何気なさを装い、オレは叔母さんにさらっと尋ねた。「院長夫人なのに離婚だなんて。それともダンナの方が一方的に言い出したとか?」
「詳しい事は知らないわ。でも別れてほしいって言ったのは奥さんの方からよ。でもね、それが私達の間ではちょっとしたワイドショーネタになってたの」
「ワイドショーネタ?」
「うん。ま、相手を知らないから言っても大丈夫よね。離婚のきっかけは奥さんの妊娠に対し、子どもはもういらないから諦めるように言った事なの。年の差夫婦で院長にはもう後を継ぐ前の奥さんとの息子がいたし。それはきっかけなだけで、一気にそれから夫婦仲が悪くなったんだって」
「奥さんは産みたかったんだ」
「そうなの。で、離婚が決定して、子どもの事も当然諦めるって思ってたんだけど、最後の最後で産むことに決めたのよ。しかも奥さんは近所や選定に来た私達にも意気揚々とそれを話してね」
「それっていつ位のこと?」
「さぁ。七月の半ば頃かな。でもまぁ、あのワンマンな院長の性格を考えると離婚はやむを得ないし、でもたとえ子どもの父親はキライになったにしても子どもを愛おしいっていうのは、良い事だから気持ち的には応援したいかな」
オレは呆然とした。じゃあ、あの時はお腹の中に赤ちゃんがいたんだ。そしてオレは、彼女の言った『私達、この風景を見る事が出来て良かった』という言葉の『私達』とは、彼女とオレの事ではなく、彼女と赤ちゃんの事だった事実に気が付いた。そして、「またこの風景を見る日が来るかもね。滝も。一緒に」の『一緒に』も子どもとの未来を決意しての事だったのだと。
そしてオレは、最初から自分の中の父性というもので、彼女とそのお腹に宿る命に導かれたのかもしれないと思った。
自分が滝を見て、自分のルーツを確かめてまた一年頑張ろうと思うように、見知らぬ命にもその風景を見せたいと願ったのか。彼女が滝の風景を見て、静かで穏やかな表情をしていたのを思い出した。世界は美しいって事の代表選手だという言葉を蹴り返した事も。そしてあの日別れる前の優理子さんが朝、会った時とはうってかわって強く見えた事も。
それからこのちょっと不思議な一日の事は、ずっと心の中に秘めたままだ。その後に念願の大学に行くようになってからも、友人に打ち明けた事はない。何ら悪い事をしたわけでもないが、おそらくお人好しだという、いつもながらのレッテルを貼られるのが関の山だと思って。
自分の中で、お人好しのやった事だとか優しさからだとかは意地でも言われたくない何かがあった。何かもっと根元的なものだと。優しさと呼ばれるくらいなら、若いクセしてもっと大人の世界をほんの少し引っ掻き回した罪なやつだと思われた方がまだいいから。
〈Fin〉
これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい 秋色 @autumn-hue
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