第3話

 先程の店主はまずスープから運んできた。


 実はオレはここの勘定の事を考えると、気が滅入っている所だった。ホームページに載ってあった料金通りなら、入ったばかりのバイト代が今日一日で一気に減る事になる。


 スープは不思議な白さだった。と言っても、スープなんてシロモノはインスタントのカップスープくらいでしか味わった事はないが。


「これはごぼうのミルクポタージュです」


女店主が伝えた。

 

え? これがごぼう? あの垢抜けない野菜の代表格みたいなやつ――ちなみにオレの偏見による意見だが――がこれに変身したのか? ところが

一口、口にするとそれは美味いどころのもんじゃなかった。美味って、味が美しいってこういう事を言うんだと思った。深く心の中に染み込んでくる植物のコクと深み。もう、金の事なんか忘れて今日のこの料理に集中する事にしようと心に決めた。


 次の肉料理も最高だった。たぶんハーブと言うのだろう。草が添えてあったけど、それが良い具合にツンとした香ばしさで、肉自体の旨さを引き立てていた。店主の高齢の女性は、肉に添えてあるのは、庭で栽培したローズマリーという植物だと言う。添えてある野菜も同じく庭で採れたチコリという植物だとも。そして同じ野菜の花がテーブルに飾られてあると言った。

「これがチコリの花なんですよ」

それは女がこのテーブルについた際に「キレイな花ね」と言った深い青みのあるマーガレットみたいな形の花だった。


 いつの間にか一面のガラス張りの向こうには薔薇色の夕焼けが広がり、それも藍色の雲に呑み込まれようとしている。


 女店主は最後にデザートを持って来た。それは甘夏のムースだと言った。薄いオレンジ色のアイスクリームのようだけど、舌の上で柔らかく溶けていくやつ。上品過ぎてオレにはどうかと思ったけど、初めての味なのに思い出の引き出しを開けにかかってくる、なぜか懐かしい味。

 向かいに座った女は、一すくい一すくい口に入れながら、ガラス張りの向こうの景色から目を離さない。まるでムースと景色の両方を同時に自分の中に納めようとしているかのようだった。そんなにこの風景に心ひかれるのか。


「そんなにこの風景、気に入った? 確かに海岸の工場地帯は夜見るとすごい綺麗だと思うけど」


「私がこの街に来て最初に見たのが、夜の工場地帯の夜景だったの。新幹線の窓から見て何て綺麗なんだろうって感動したのよ。だから最後にまた見ようと思ったの」


「最後って、この街を出ていくの?」


女は、コクンと頷いた。オレは、今日初めて会ったこの不思議な女がこの土地を離れると聞いて、理不尽な失望感を味わっていた。


「ところで……こっちはさっき名前を名乗ったけど、まだ名前教えてもらってないですよね?」


「私の名前? 高階優里子。でも離婚したら名字変わるから藤木優理子ね」とあっけらかんと言う。


「え? 離婚するの?」

じゃあ、一緒にいる所を見られちゃマズイとずっと思っていたのは取り越し苦労だったのか。


「ええ」と女は、いや優理子さんはその事に何の興味も無さげに肯定する。そこには寂しさなんてものは一切感じられない。そして彼女はさり気なく言った。

「最後に私達、この風景を見る事が出来て良かったわ。それに滝もね」


 オレは「私達」と自分を含められた事に思いのほか舞い上がってしまった。彼女の真意も知らず。

「最後なんて分かりませんよ」


優理子さんの美しい目に何か輝きが閃いたように見えた。

「そうね。またこの風景を見る日が来るかもね。滝も。一緒に」

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