開く距離

「……どうしても、行かなきゃいけないのか」

「ああ。どうしてもだ」


 麟のか細い問いかけに、紡は躊躇うことなく頷いた。

 それは友人に強い意志を示しているようにも見えたし、紡自身に言い聞かせるためのようでもあった。

 街灯もなく、空に浮かんだ月と星の灯りだけが照らす下を、麟と紡はゆっくりと歩く。


「あんなに後輩や他の門下生達からも好かれているのに、自ら尾根山道場を捨てるのか」

「捨てるなんてつもりはない。けど……俺にはやらなきゃいけない事がある」


 紡は、道場で世話になった人々の顔を思い浮かべる。

 師範も門下生達も……自分に期待をかけてくれているのは重々承知の上だった。

 それでも、道場には紡の他に有望な後輩がたくさんいる。

 きっと彼らはじきに芽吹き、紡が開けた穴などすぐに埋めてくれるであろう。

 紡も、道場を離れるまでの間に後輩達の指導には全力を尽くすつもりであった。


「……絃の事は」


 麟が突然立ち止まり、感情を押し殺した声で呟いた。

 数歩先に行った紡と、二人の間で少しの距離が開く。


「絃が、好きなんじゃないのか。」

「……。」

「絃だってあんなに紡の事を慕っているのに……側に居てやろうとは思わないのか。」

「……。」

「お前が剣を捧げた相手は、その程度の存在だったのか……」


 麟は一向に応えようとしない紡に腹を立てて、大股でその背に迫る。

 そしてその肩を掴んで無理やり振り向かせた。


「……答えろよ!」

「好きだからだッ!」


 紡は麟の腕を掴み返し、まるで噛み付くようにしてそう吠えた。

 麟は予想だにしなかった彼のその反応に、目を見開いている。


「絃の事が好きだ!例え他の全てを捨てたとしても、彼女だけは絶対に失いたくない!だから今は離れても、何が何でも行かなきゃいけないんだ!」

「……。」


 珍しく激情を露わにした紡は、肩で息をしながら麟の瞳を見つめる。

 麟は、紡が試合の中で見た獣のようなそれではなく……まるで親と逸れた子供のように心細げな目をしていた。

 紡はそれが妙に悲しく思えて、ゆっくりと彼の腕を掴んでいた手を離した。


「麟。俺が居ない間、絃に何かあったら……その時は頼んだからな」

「そんな……そんな事を、俺に言わないでくれよ」

「いや、麟の事を信頼しているから言うんだ」

「肝心な事は頼ってくれない癖に、そんなの……身勝手すぎる」


 紡の言葉に麟は小さくそう呟き……それ以降黙りこくってしまう。

 紡は麟の言う、自分の身勝手さも自覚していたが故に反論するつもりもない。


 一度お互いに落ち着いた方が良いだろう。

 そう考えた紡は麟に背を向け、進むべき道を歩いた。


「友達が出来て、嬉しかったんだ」

「……。」

「行かないでくれ……」


 いつも冷静な麟が、小さな子供のようにしゃくり上げる声が聞こえる。

 紡の耳に、彼がはらはらと落とす涙の音が聞こえてくる様であった。


「……また、明日」


 今の麟に聞こえているとも思えなかったが、紡は背後の友人へとそう声をかけ、振り返る事なく足を進めた。


 空に輝く明るい月がまるで二人の心に空いた穴を照らし出そうとするように、煌々と輝きながら夜空に浮かんでいる。

 麟とその足元に伸びた黒々とした影は、しばらく縫い付けられたようにその場から動くこともできず……時間ばかりが過ぎてゆくのであった。

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分かれ道 はるより @haruyori

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