「あ」

鈴谷凌

「あ」



 少女はつられて空を見上げる。つられたというのは、何かが大きく光って、瞬いたように見えたから。



 ただそれだけのことで。それぐらいしかなくて。少女は首を思いっきりに反らして、高い空を望んだ。



 見上げると、ただただ暗い、黒く塗りつぶされたいつもの夜空。少女をかどわかした閃光はどこへやら。


「あぁ……」



 けれど少女は目を離さない。離せなかった。少女の視線の先には、その期待に沿わせるように残されていた、空に浮かぶ星々が。



 白、黄、赤、青、橙。いつもよりもたくさん見えて、中には普段まるっきり見えないものもあって、少女は不思議そうに目を丸める。

 少女は一人の時間のとき、こうして欠かさず夜空を眺めて過ごしていた。



 その少女からしてみても、今日の星空は格別だった。



 本当に今日の星空は色とりどりで、満天が星で覆われていて、鮮やかに光り輝いていて、かつて見たことがないほどに綺麗だった。



 少女は目を奪われた。現実のものとは思えない光景に少女はしばらく動けなくなった。



 たしか。夜空を流れる星に出会ったら、その光が消えないうちに願いを唱えるのだと。そうすればその願いを叶えてくれるのだと、少女の父がそう言っていた。



 少女にも叶えたい願いの一つや二つあった。

 だからこの束の間だけでもいいから、時間も何もかもが止まってほしいとすら思った。


「あ……」


 だけれど、どうしてだろう。少女の願い虚しく、突然どこからか空の黒とも違う煙がもくもくと。

 そしてその見事な星空を覆い隠してしまった。堪らず少女の口から悲しげな声が漏れる。



 そうして間の悪い煙が薄っすらと広がったと思うと、中からいくつかの黒い影が飛び回っているのが目に入る。



 速い。少女は目を回しそうになった。けれどもその弧線や直線を描く影は見るに飽きず、少女は追いかけるのをやめなかった。



 慰みだったのかもしれない。



「あ」



 また変化があった。飛び回る影から、一つ、また一つと。



 さらに小さい粒のような影が、飛び回る影からいくつも生えてきて、いくつも放たれて、そしていくつも落ちてくる。



 筒のようなそれが、あちこちに落ちてくる。あちこちに落ちたそれの一つが、やがて少女の立つ遥か向こうの地平に当たって。



「あっ……」



 光って。それはさっき空を見上げた時の光みたいに。



 震えて。地面ごと少女の身体が揺れて。


「あぁあ、ああ……」



 少女の身体は棒切れのように吹き飛ばされて、身体の節々が地面に擦れて、叩きつけられて、ふわりと宙に舞って、また地面に落ちて、ぐるぐると回りながらやっとのとこで勢いが収まって。



 じんわり纏わりつく鈍く重い痛みと、ちくちくと針で刺されるかのような鋭い灼熱が、再び少女の全身を襲った。



 言葉にならない喘ぎを漏らす少女。



 痛くて、熱くて、耐え難くて、理解が及ばなくて。

 解放されたかった。この場から離れたいと思った。もう星空は見なくてもいいと思った。



 幸いにして、もう全身を覆う痛みも熱も引いてきていた。



 だから少女は力が抜け落ちた腕に懸命に力を込めて、必死にその上体を起こした。

 地面に散らばる何かの破片、石の破片やら、きらきらとしたガラスの破片やらが、力を込めた掌に食い込み、少女は少し眉を歪めた。



 それからすぐさま立ち上がろうとして、その足で駆けだそうとして、どこか遠くへ行こうとした。


「あ」



 だけれど、それはいずれもできなかった。



 おかしいと思って足を見てみれば、いつもの肌色とは違って黒い汚れがあちこちについていた。黄色や茶色、白もあった。

 丁度見ていた夜空のような黒も、星のような白も、こっちの方はなんだか色が濁っているようで、汚いなと少女は思った。



 少女は今更ながら自身のその足の状態に気が付いたようで、同じく変色していたももも二の腕の裏や肘回り、肩や鎖骨辺りを順繰りに見回した。



 そういえば、着ていたピンクのワンピースも、糸が解れ、繊維も焦げてしまっており、身を守る衣服としての機能をとうに終えていた。



 両親からもらったせっかくの衣服なのにな、少女は思った。



 足を失った少女にできることと言えば、そんな役に立たない思考のみだった。


 けれどもそんな最後の一手すらをも嘲笑うかのように、閃光が再び瞬き、衝撃が地面を揺るがした。



 少女は、もう空を見上げなかった。



 二度、三度、閃光と衝撃が繰り返されるうちに、辺りに煙が立ち込め、途端に息苦しくなる。

 ああ、ここから出たいなと、地面に膝をつきながら。



 少女の周囲に纏う煙は、黒にも紫にも灰色にも見えた。もしかしたらその中間の色かもしれない。



 ぼんやりとしてその煙の色彩を見る。星空や空を飛びまわる影に比べたら、悲しいほどにつまらなかった。



 暗く、汚く、変化に乏しい。それでも少女は、その退屈な煙幕に縋っていた。



「……あ」



 もはや掠れてしまった声の先に、いつの間にか人影が。

 薄暗い煙のなかでもなお暗い、くっきりとした輪郭が三つぽつりと。



 人影だった。前に一人、後ろに二人が横並びになって、音もなく少女の方へ歩いている。



 煙の向こうにいた三人の姿がようやくはっきりと見て取れるようになる。

 全身を黒いセットアップで身を包んでいる男、のようだ。



 ようだ、というのは、その者たちが頭をすっかり覆うほどのマスクをしており、透明なガラス越しの目元しか窺い知ることができなかったから。



 変わった服装だなと少女は思った。顔を覆うマスクもそうだが、収納が豊富な厚手の黒服も、この辺りでは見たことがなかった。

 それが三人お揃いだから、余計に不思議だった。



「あー……」



 少女は彼らのうち先頭の男に名前を聞いてみたのだが、その人は少女に何を返すわけでもなく、そのガラス越しの瞳を微かに見開いた。



「年は十ほど……酷い格好ではあるが、驚いたな。まさか生き残りがいるとは」



 歩を進める先頭の男。後ろの二人もそれに倣って少女の方に近づく。



「うおっ、なんだこの火傷跡……気味悪いな」

「……それより、どうするんですリーダー。街も、人も、全て綺麗さっぱり焼き払うというのが、上からのお達しですけども」



 少女はせっかく久しぶりに人間に無視されたことが面白くないようで、地面に散乱する砂やれきを頼りなくなった両手で弄繰り回していた。



 その少女の様子に、先頭の男が一歩前に出た。



「何者だ」



 片膝をついて少女の目元を見据える。

 少女は急に接近してきた男に首を傾げた。



「無駄っすよリーダー。オレらの言葉じゃ、こいつらには通じない」

「いや、そうではないようだ」



 男は少女の目から、喉筋までをじっとりと睨る。



「喉を火傷したかと思ったが、違うな。恐らくだ。体系的な言語を話している様子もなく、けたたましい爆音や悲鳴にも無関心ときている」



 男は立ち上がって後ろの二人を見据える。刺すような視線から解放された少女は、再び砂弄りを再開しようとして。



「あっ」



 地面に置いた少女の手が吸引力を伴って、その場から動かせなくなってしまった。

 引っ張ってみると、黒ずんだ指の先がぽろぽろと崩れ落ち、割れ目からはまるで撹拌かくはんされたかのような赤と白が剥き出していた。



 出来損ないのマルゲリータピザみたいだと少女は思った。

 それを見ると、母の作ったピザが食べたくなって少女はもう一度この場から離れようと試みた。



 けれどもやはり、黒ずみ、乾燥した血がこびりつくその両足では立つことすら叶わない。

 全身も嘘のように力が入らず、少女はいよいよ所在がなくなり、熱された地面の元で彫像のようにじっとしているほかなくなった。



「あの調子では、放っておいてもあのガキはやがて死にます。作戦を完遂するためにもここは――」

「ふむ」



 先頭の男は顎に手を置いて考えるポーズをとった。それから一体どんな思考を経たのだろう、おもむろに着用していたマスクを脱ぎ去って、再び座り込む少女の元へと歩き出した。



「リーダー! 脱ぐのはまずいですって――」

「すぐに済む」



 男と少女は再び相対する。



「あ――」



 男は金髪で、土煙と硝煙しょうえんでくすんだ視界にも良く映えていた。

 男はアイスブルーの瞳で、少女がかつて見たどの宝石にも負けじと美しかった。



 少女はそこから目を離せない。男の口が開く。



「ここまで辛かっただろう」



 容貌が露わになったため、少女は口の動きで言葉を探ろうとするが、倦怠感からかまるで上手くいかなかった。



「生きるにも生きられず、死ぬにも死ねず。お前にも、他の者にも恨みなどない。これはただの手段に過ぎないのだ」



 男性にここまで至近距離で見つめられたことがなかった少女は、その氷雪のような瞳にはにかんだ。



 頭に霧がかかったかのように意識が酩酊めいていし、少女は流れのままに男との距離を詰めようとしたが、きらりと光る何かによってその間が隔たれた。



「あ……」



 鋭い光沢を湛えた鋭い刃。男が取り出したのは、片手で持つにしてはやや大きい刃渡りのハンドナイフ。

 緩い曲線を描く刀身と刃に刻まれた歯のような凹凸。



 そして、その輝かしい金属面に移る少女の顔。



 薄く朱に色づいていた健康な頬は、その見る影もなく、水疱すいほうが所々に浮かび、まるでひび割れた大地のように荒れていた。



 額から頭部にかけては皮膚が破られており、赤黒く焼けた肉が露出し、腐臭が漂わせている。



 特に上の部分にまで浸食した火傷痕は、表面に生えていた自慢のライトブラウンの髪ごと皮膚を消し去ってしまっていた。



 久しく見る自分の顔。汚い顔。みすぼらしい顔。不細工な顔。



「あぁ……あ、あぁ……」

「む……」


 そこで少女は、初めて対する男にも伝わるほどに、その表情を変えた。



 感情が判別できないほど、少女の顔面は崩壊してしまっているのだが、少なくとも男には、彼女が笑っているように見えた。



 唯一正常といってもいい少女の輝く瞳は、今し方彼女と男との間に割って入った件のナイフを、物欲しそうにしながら見つめていた。



「そうか。これが欲しいのか」



 横向きにナイフを持ち直し、男は刀身を目でなぞる。

 仕草と口の動きから初めてその意図を読み取れた少女は、緩慢な動きで微かに、だが確かな動きでもって頷いた。



「……まったく難儀だな」



 男は横に構えたナイフを逆手に握り直して。



「あ、ああ――」



 躊躇なく、少女の差しだされた左胸へと突き刺した。拳が傷口にめり込むほど深く、確実に蔵を貫けるように。



 狂いのない鮮やかな手捌き。

 少女は最後まで短く声を漏らし、やがてあっけなく息を引き取った。



 その終焉しゅうえんの瞬間、少女の目からは雫が滴り落ちていた。



 たちまち支え失った少女のむくろが男の方へと倒れ込む。

 刺したナイフを無造作に引き抜けば、まるで栓を抜いたかのように傷口から血が溢れ出し、飛び散った液が熱された地面と男の足元を濡らした。



「……軽いな」



 赤く染まったナイフの刃を眺めながら男は短くつぶやく。

 人を一人殺したにしては、言葉通り軽すぎる反応だ。



 薄情か、虚勢か。



 どちらにせよそんな男にも一応の礼儀はあるようで、少女の身体を横たえようとしたのだが。

 膝を畳んで座っていたためか、足の部分が地面にくっついてしまって、中々剝がすことが難しかった。



 仕方なくその場から動かさずにうつ伏せで寝かせると、男は後ろに控えていた仲間の元へと帰っていく。



「どうしてわざわざご自分の手で殺すんです? 外に逃げようとするものならまだしも……これじゃあ徒に手を染めただけだ」

「そうです。むしろ奴に拘って漏らしたとなれば、貴方も責任を問われますよ」



 口々に文句を言う二人を尻目に、金髪の男は血塗られたナイフをそのままさやへと収めた。



「リーダー」

「……そうだな」



 なおも食い下がる部下に、男は先ほどの少女を見据えながら返答する。



「強いて言うなら……覚えておきたかったから、だろうか。敵国の民とはいえな」



 男は外していたマスクを再度付け直し、踵を返して歩き出した。

 部下の二人は彼の言葉に顔を見合わせるが、既に距離を離された上官の背を慌てて追従した。



 そうして男たちは、既に爛々らんらんと燃え盛る街を行く。



「……その言葉にも満たない声の一つ一つに、一体どれだけ大きな想いが込められていたのだろうか。その軽くはない想いを、あと何回焼き尽くせば俺は解放されるのだろうか」



 男の絞りだすような声は、正しく取るに足らないもので、他の誰も気に留めやしない。

 丁度、あの少女と同じ。この闘争の世界にとって言葉などちりに等しい。



 男たちの姿はまた薄暗い煙の中へと戻る。



 やがてこの場に残ったのは、血だまりに浮かぶ少女の亡骸なきがらのみであった。

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「あ」 鈴谷凌 @RyoSuzutani2

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