夜が落ちてきたその後で

藤田桜

Alfonso Vega


 アルフォンソ・ベガの没後三十年を記念するAntología詞華集に寄稿してほしいと出版社から電話がかかってきたのは、まだ蒸し暑い夜のことだった。籐椅子に腰掛けたまま煙草をくゆらせて、僕はからからと笑ってみせる。

「僕とあいつは同い年なんだぜ。僕だけこんな爺さんになっちまった」

 仕事机の左端に置いたベガ全集の第一巻、深緑の表紙をめくると彼が最後に撮った写真が載っている。五十八歳。あのころは、あまりに若いと誰もが嘆いた。平均的な寿命からそう離れていないにも関わらずだ。彼には人にそう思わせるだけの魅力があった。僕も自分はベガよりずっと先に死ぬものだと思っていたから、彼の訃報を聞いてしばらくは引きずったものだ。

 それがだって? 乾いた笑みが漏れる。すると、受話器の向こうでエミリオが慌てだした。この編集者は僕が依頼を断ると思って説得を試みているのだ。優秀なのは優秀なんだが、先走るが玉に瑕である。

「――心配しないでくれ。もちろん受けるさ。光栄な話だよ」

 とはいえ、こんな耄碌した老人に何が書けるのだろう。このごろ手元が緩くなったせいで、ペンを握っていられる時間さえ減ってきた。今では人を呼んで代書してもらう方が早い。挙句そうやって出来上がるものも原稿用紙十枚に満たない掌編ばかり。ヌエバ・エラ社は序文まで僕に書かせるつもりらしいが、冗談じゃない。こんな老いぼれの駄文がベガの名のつくものを汚していいものか。

「ドン・ベネデッティ、何を仰るんですか。あなたはベガにも劣らない素晴らしい作家ですよ。証拠に、ほら……」

 残念なことに、今の文壇で最も権威のある文筆家は僕だった。ベガが亡くなってから次第に世界はおかしくなっていって、軍事クーデタ、社会主義革命、合衆国の介入による内戦……一体どれだけの作家が筆を折る憂き目に遭ったか――考えている間にも、エミリオは僕の物書きとして優れた点を必死に挙げていく。彼の口から昔の文学賞の名前が出始めた時には、もうすっかりうんざりしてしまっていた。

「大丈夫、ちゃんと書くから。困らせるつもりはなかったんだ。悪かったね。ああ、大丈夫だとも――それじゃ、良いブエノス・夜をノチェス

 逃げるように受話器を置いたところで、(話が終わるまで待っていたのだろう)ちょうど後ろから声がかかる。落ち着いていて、少しハスキーな声だ。

「そいつが、前言っていた編集者?」

 振り返ると、アルファ・アクィラエはとっくに化粧を落としていた。風呂上がりなのかタオルを羽織っており、普段はゆたかなウェーブのかかった髪も濡れてぐったりとしている。裸で、股の間からはのセックスが垂れ下がっていた。

「神経質そうなやつだったね。そいつと誰の話をしていたの?」

「アルフォンソ・ベガ。最高の作家さ」背中に抱きつかれながら僕は答える。

「それは、デネブ・ベネデッティよりも?」

「悔しいけれど、そうだね。彼の書いたものさえ残るなら、僕の本なんか何回燃えてしまったっていいと思うよ。ベガの作品には、それだけの価値がある」

 僕がもっぱら幻想的な短編小説ノヴェラ・コルタを書いていたのに対して、ベガは現実社会を題材にした長編ノヴェラを得意とする。社会の疾病を捉えることにかけては並ぶ者なく、熱量に満ちた思想は人々を導く灯となった。何より彼の作品には決して希望を失わないがある。それが僕の、彼の遺した数十冊を愛する理由だ。

「おまえがそう言うなら、そうなんだろうね」

 アルファは文学には興味がない。彼女が好むのはとくにコニャックと、ミロンガダンス・パーティーで流れる陽気なタンゴ、あとは事後の語らいだけだ。男とのつきあいの中で勧められて本を読むこともあるが、その度に「難しくて分からなかった」と笑う。とらえどころがなく、風のように現れて、風のように消え、同じように戻ってくる女。――Alfa Aquilaeアルファ・アクィラエ。彼女は僕らにそう名乗っていた。わし座のアルタイルのことである。当然、偽名だ。

 僕と彼女は亡命者だった。どうも僕らの存在は「革命的」ではなかったらしい。他にも多くの作家が国を追われたり、牢獄に入れられたりしている。そんな中でのベガ没後三十周年のイベントだ。は、分かっていた。

「でも、彼の記念に寄せる文章を書けと言われても、何を書けば相応しいのか分からなくてね。そもそも相応しい文章なんて、書けるやつはもういないのかもしれない」

「なら最初っからしなきゃいいだろ、そんな面倒な行事」

 彼女は釈然としない顔で小椅子をひっぱり出してきた。どうやら話に付き合ってくれるらしい。それが嬉しくて、僕は積み木で城を作る子供のように、慎重に、返す言葉を選んでいく。

「たぶん、僕らにはAniversario記念日が必要なんだ」

 に区切りをつけて、ちゃんと次に進むために。

 その輝きが余りに眩しかったから、彼の去った後、僕らは暗闇のなかで迷子になってしまった。世界は瞬く間に移り変わっていくのに、みんな彼の影に囚われているんだ。自分の信念を保っていた作家はもういなくなってしまったし、生き残った者もベガの後追いじみた作品を書くばかりで、今の文学界は荒れ果ててしまっている。

 彼らと同じように、僕はひたすらに個人的な幻想小説しか書けないし、書かない。あの頃はそういった人間が一人は必要だと思ったからそうしていた。だが、それがこの混迷の時代に何の役に立つのだろう? こんなもの――、

「おれに本を勧めたやつらは、ベガとやらと同じくらい、おまえの本を渡してきた」

 彼女は僕の言葉を遮るように言った。でも、そんなことに何の意味がある?

「おまえの小説だって、確かにだれかの灯になっていたんだよ」

「違うよ、アルファ。人に読まれる小説と、人を救う小説は別だ」

 それでも彼女は苛立った様子で、

「アルフォンソ・ベガ全集第二十八巻、後ろのほうのページ」

「何を」

「いいから、見ろ」

 仕事机に積んであるうちの一冊を引っ張り出してくると彼女は言った。

「ベガがおまえのことを褒めてた。読め」


――デネブ・ベネデッティの作品は、幻想小説の姿を取っただ。宣戦布告と言っても、国家や、組織や、個人に対するものではない。誰もいない荒涼とした世界への幻滅を打ち破る喊声ときのこえなのだ。その輝きが現世の何かを照らすことはない。だが、それは何よりも確かな美しい光である。

 私は何か諦めたような気持ちになったとき、彼の作品を本棚から取り出して開く。その一冊が、再び私に世界への愛情と希望を思い出させてくれるからだ。ベネデッティの作品は、世界を否定する声への、人類がしうるかぎり最も強力な反証である――


「何で、これを」

 それはいつかベガが僕の小説に書いてくれた推薦文だった。

「へんなやつがいたんだよ、アルフォンソ・ベガをぜんぶ読まそうとする。この文章は、おまえのことを書いていたから、覚えてた」

 ――ああ、

「こんな言葉を貰っていたんだな、僕は」

 震える指で煙草の火を消す。ペンと紙を彼女に手渡して、

「アルファ、今から僕が話すことを書いてくれるかい」

「なにを書くか、決まったのか」

「おかげさまでね。――さあ、頼むよ」

 僕はくちずさむ。不気味な夜のとばりが落ちてしまったこの世界にも咲く、思いつくかぎりの美しい幻想を。胸のうちを苛む不安に満たされた世界に叩きつけるありったけの挑戦を。いつか、彼が称えてくれた僕の文学リテラトゥラを。

 それが僕の、盟友に捧げられる最もふさわしいはなむけだった。

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夜が落ちてきたその後で 藤田桜 @24ta-sakura

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