伍、

 







 紅樹の言葉通り、紅絹が目覚めるとそこは自分の部屋で、釈然としないまま、日常に戻ることになった。


 ただ、またふいに眠気が強くなることが多くなり、あれ以来十数日たった今でも、街へ出かけることが出来ないでいる。


「うう、これじゃあ、街に行けないよう」


 今日も本格的な冬になる前にとやっていた、袷の仕立て直しの最中に眠り込んでしまった紅絹がぼやいていると、縁側で煙管をもてあそんでいた紅樹が笑った。


「まあ、いつかは良くなる。それまでの辛抱さ」

「でも、惣八さんのところで借りた本、もう読んじゃったから返しに行かなきゃ。また新しく借りに行きたいし、私だって何時までも紅樹におんぶにだっこじゃ良くないなって思うの。いつかは、自分の読む本のお代くらいは稼ぎに出たい」


 むんと拳を握って宣言する紅絹は、ふんわりと紫煙の香りに包まれた。

 いつの間にか座敷にいた紅絹のすぐ隣に紅樹が来ていて頬に手をやられた。


「俺から離れたくなったかい?」


 指先がふれるか触れないかで頬を撫でられ覗き込まれ、紅絹の背筋は粟立った。

 紅樹の表情には何の感情も浮かんでいるようには見えなかったが、からめとるような視線と、ほの暗い、艶めいた気配に言葉を失う。


「このまんま、俺のモノになっちまうか?」


 あくまで優しく顎を捕えられ、端正な顔が近づいてくる中。

 続けられたその言葉に、紅絹の口からするりと言葉が出た。


「紅樹は、私が“モノ”でいいの?」


 ぴたりと、息がふれるような距離で止まった紅樹が、瞳だけで問いかけてきた。


「だって、物になるってことは、私が、全部紅樹の思うとおりになるってことでしょ。もちろん、紅樹がそれが良いっていうんなら、私はかまわないけど。紅樹は、私が笑って、楽しんで、そういう顔が見たいから妹にするって言った。なら、紅樹が思うとおりに笑ったり喜んだりする私は、違うんじゃないの。それに……」

「それに?」


 紅樹の黒々と吸い込まれそうな瞳に見つめられるのが耐えられなくなり、紅絹はちょっぴり視線をそらして、続けた。


「……私だって、紅樹と“家族”っていうの、気に入ってるから。紅樹には、できれば兄ちゃんでいて欲しい」


 紅樹が目を真ん丸にして珍しいほど驚きをあらわにするのに、紅絹はなんだかいたたまれなくなった。

 だから、耳まで真っ赤になりながらふいと顔をそむけて、手元の針仕事を再開しようとしたのだが。


「わっ!?」


 その前に、喜色満面の紅樹にばっと両脇に手を入れられ、一気に高く持ち上げられた。


「まったく、紅絹には敵わねえなあ、おい」

「き、急に何するの!?」

「俺がにいちゃんのほうが良いって言うんなら仕方ねえ、しばらくはこのまんまだな」


 そのまま腕に座らされるような格好で抱かれた紅絹は、不安定な姿勢に紅樹の首に不本意ながら手を回す。


「だから何なのよ、もう……」


 訳が分からなくてむくれる紅絹に、紅樹はにやりと笑いながら言った。


「んじゃま、ちょっくら付き合ってくれや」

「……どこに?」

「御狐屋だ。おめえが寝たら俺がおんぶして帰ってやるから安心しな」

「……全力で起きてる」


 その醜態を想像した紅絹が悲壮な決意で宣言するのに、紅樹はからからと笑った。





 **********






「おや、旦那、妹さん。ようこそいらっしゃいました」


 紅樹に連れられて御狐屋を訪れると、番台から立ち上がった藤右衛門に出迎えられた。


「この間はうちの者が、ご迷惑をおかけしました」

「構わねえよ、もう終わったことだ。それよりも例のやつはそろっているかい?」

「もちろんですとも、うちの店のつてを大いに使って仕上がった一品です。近年まれに見る良い品物になりました」

「そいつは良い」


 言いながら紅樹が草履を脱ぐのに次いで、紅絹も上がり框に上った。


「では、ご用意させますので、奥の座敷でお待ちを……っとどうやら無粋な方が居らしたようですね」


 奥を示して、案内する態をみせていた藤右衛門が、細い眉をそれとわかるくらいにしかめて出入り口を睨む。


「恐れ入りますが、奥でお待ちを」


 そうして藤右衛門が明けたふすまの奥に紅樹と共に紅絹は入る。

 更に紅樹がすっと、傍らにいた紅絹を背に庇ったとたん、複数の荒々しい足音と共に、男達が敷居をまたいできた。

 藍鼠の着物に、「八」の紋が白く染め抜かれた羽織をひっかけた男が、どかりと上がり框に座る。


「これは、“八洲の”忠治さん。めずらしい」


 藤右衛門が先ほどの不快な表情をきれいさっぱり覆い隠して、その傍らに膝をつくと、忠治は懐手のまま、藤右衛門に言った。


「おう、藤右衛門、邪魔するぜ。ここに紅樹の兄貴がいるだろう?」


 その傍らいる子分の男たちが無言で威圧しているのを気付いていて、藤右衛門は飄然と流した。


「最近緋衣の旦那はとんとご無沙汰でねえ。うちの女衆も寂しがっているんですよ。どこかの鼠に篭絡されるくらいには、ね」


 藤右衛門の痛烈な嫌味に忠治は眉をしかめ、藤右衛門の細い目を眼光鋭く睨み付けたが、藤右衛門は静かに睨み返す。


 そんな光景を紅樹の影から入口の方を覗いた紅絹は、その男が、紅絹を痛めつけようとした男だと気づいて驚いた。


 紅絹は、あの男につかまって一体どうやって逃れたのか、よく覚えていなかった。

 あの後紅樹が来て連れて帰ってくれたと教えられたが、あの男から受けたいわれのない暴力の記憶はまだ新しい。


 紅絹が思わず紅樹の着物を握ると、安心させるように背中を叩かれた。


「怖いかい?」


 紅樹の言葉に紅絹は少し考えた後、首を横に振る。


「平気。紅樹がいるから」


 すると、しょうがないと言わんばかりの紅樹に、今度は頭を撫でられた。


「そうか」



 にらみ合いにしびれを切らしたのは忠治だった。


「話は上がってんだよ。ついさっきうちのもんが、兄貴がこの店へ向かうのを見てんだ。……用があるのは兄貴だけだ。別にこれ以上手を出そうっていうわけじゃねえ。一言謝りてえだけなんだよ」

「その言葉に嘘はないか、忠治」


 店前に現れた紅樹をみた忠治の表情が輝くのに、紅絹は軽く驚いた。

 だがついで、忠治の視線が奥から様子をうかがっていた紅絹に向いた途端、ぎゅっと眉間にしわが寄る。


 その視線をさえぎるように、紅樹が立った。


「あんまり、俺の妹を見つめんな。減る」

「兄貴……」


 ひどく情けない顔をする忠治と、真顔の紅樹に、藤右衛門はやれやれと額に手を当てため息をついた。


「こんなところで話されちゃ商売の邪魔です。座敷をお貸ししますから、そちらで話しをなさい」

「いや、手短におわらせる。もう少し厄介になるぜ、藤右衛門」


 藤右衛門の申し出をばっさりと切った忠治は、ゆっくりと立ち上がると、紅樹に向き直り、ばっと、頭を下げた。


「お、親分!?」

「なにを!!」


「勝手に兄貴の大事なもんに手を出したのは申し訳なかった!この通りだ。許して下せえ!」


 後ろの手下たちが驚きに声を上げるのも無視して、忠治が言うのに、紅樹がため息をつく。


「忠治、謝る相手が違うだろうが」

「いいえ、あっておりやす。俺があやまりてえのは、兄貴のもんに手を出したことであって、その小娘が紅樹の“妹”にふさわしいかは別ですから」


 そうっと顔を出した途端、忠治にぎろりと睨まれた紅絹はひるんだが、その潔さにかえって尊敬の念を抱く。


「……それじゃあ、もう一度やるってか」

「そればかりは、兄貴に何と言われようと」


 紅樹の低く這うような声音にも、忠治は当然とばかりに返す。


「忠治、勉強代の意味、分かっていなかったらしいな」


 そう言いながら一歩踏み出そうとした紅樹を、奥から出てきた紅絹は着物の袖を引くことで止めた。


「紅絹?」

「別に、良い」


 困惑した紅樹の代わりに、紅絹は勇気を出して一歩踏み出す。


 二人の手下の牛頭のほうが、顔腹を抑えて後ずさったのを不思議に思いながら、上がり框に座り、険しい顔で紅絹を睨む忠治の前に、ひざをそろえて座り、三つ指をついた。


「初めまして、紅樹の“妹”の紅絹です」

「……何のつもり―――」

「私は! 紅樹が私を妹と言ってくれる限り、紅樹のそばにいる事に決めています。そのための努力は惜しみません」


 忠治の言葉をさえぎって、一気に続けた紅絹に、忠治は、初めて紅絹をまともに見たと言わんばかりに目を見張った後、獰猛に唇を吊り上げた。


「へえ、それが“答え”ってか」

「はい。よろしくお願いします」


 そのまま、すっと頭を下げた紅絹に、忠治は目を細めた。


「八洲の忠治だ」


 はっと顔を上げた、紅絹とは、視線を合わせないまま、忠治は立ち上がって背を向けながら続けた。


「俺は、紅樹の弟分だ。ちょっとでもボロ出しやがったら容赦しねえぞ」


 そうして忠治とその子分が去っていった後、藤右衛門がぼそりと付け足した。


「――――ま、“自称”ですけどね。緋衣の旦那も大変ですなあ」

「俺は何にもしてないぜ。あっちが勝手にじゃれてくるんだ」


 珍しく疲れた様な顔をする紅樹は、座り込んだまま、茫然としている紅絹の傍らに膝をついた。


「おう、紅絹。よくやったな」

「……腰、抜けて立てない」


 不承不承そう訴えた紅絹に、紅樹と藤右衛門はそろって吹き出した。


「いやあ、度胸の座った可愛い娘さんだ!」

「てえ出すんなら覚悟しとけよ」

「おや、恐い」


 ぶるりと大げさに震えた藤右衛門が奥から現れた紅絹も知る女衆をみて立ち上がった。


「さ、用意ができました、奥へどうぞ」

「……運んでやろうか?」

「……あともうちょっと待って」


 必死の努力が実りまもなく立ち上がることのできた紅絹は、残念そうな紅樹を置い藤右衛門に続いたのだった。








 奥座敷に入ると、鮮やかな緋色が目に飛び込んできた。

 思わず足を止めた紅絹は、その衣桁にかけられた振袖を前に呆然とする。


 数拍後、その肩口から裾にかけて大小様々な紅葉が乱舞しているから、そう見えるのだと気づいた。

 まるで花が咲き乱れているかのように紅葉は、限りなく白に近い薄紅から、紅樺べにかば紅緋べにひあけ深緋こきあけまでさまざまだ。

 その咲き乱れるかのように艶やかに舞い散るさまに、紅絹は言葉を失った。


「良い色でしょう? この色を出せる職人を探すのに苦労いたしましたが、現物を見て一瞬で報われましたよ。良い経験をさせていただきました」


 藤右衛門の言葉にも答えられずにいると、両肩に手を乗せられた。


「どうだ? 柄はお前の名前に合わせたんだが」

「私の名前?」

「“もみ”じ、だろう?」


 紅樹の言葉に一瞬考え込んだ後、意味を飲み込んだ紅絹は、目を見開いた。


「これ、私、の?」

「おう、俺のはこっちだ」


 理解した紅絹が驚きをあらわにするのを見て、してやったりと言わんばかりに笑う紅樹は、その振袖の傍らにつるされた羽織を手に取り、ざっと羽織る。

 その羽織の背を埋め尽くす、振袖と同じ紅葉の乱舞に、紅絹は思わずつぶやいた。


「お揃い……?」

「おう。一つくらい、兄妹でそろいのものを持ってるのもおもしれえかと思ってよ」

「なんで」

「初めて会った時言わなかったか? いっとう赤い羽織が欲しくて狒々を探していたって」

「そりゃあ、手前は本当のことを言いましたけどね。まさかふらりと一、二年姿をみせなかったと思ったら、本当に狒々の血を手に入れて帰ってくるなんて思わないじゃありませんか」


 藤右衛門が呆れたように言いたその言葉に、紅絹は、紅樹が赤い着物欲しさに、染料から揃えようとする道楽者だったことを思いだした。


「それで藤右衛門のとこに持ち込んだら、ほんの少しで十分だっていうんだよ。一反染めるのに一体分もいらねえんだとよ。お前のおかげで二体分手に入ったから俺の羽織を染めてもまだ余る。なら揃いで、お前の着物を作るか、って相談したのさ」

「なんで、私にも?」

「そうさなあ」


 紅絹が問いかけると、紅樹が少し考えるように間を置いて、言った。


あかし、かね」

「?」

「お前は俺に助けられた、と思っているだろう? だが、お前は確かに狒々を倒したんだ。自分の身を守るために最大限の努力をして、目的を達成した。そういう戦い抜いた証を形として残すのも悪くねえんじゃないかと兄ちゃんは思ったんだよ」

「証……」


 紅絹が、その赤い命で染められた着物を見つめていると、紅樹は続けた。


「まあ、俺が勝手に仕立てた、袖を通す通さねえもお前次第だ。気持ち悪いっていうんなら燃やしてくれても構わねえ。ただ、俺は命の一滴まで燃やして狒々に立ち向かったお前に惚れて“妹”にしたんだ。そのことは忘れないでくれ」


 最後の言葉が、紅絹には「後悔しないでくれ」と聞こえた気がした。

 紅絹の中に混ざる、紅樹の血が、そう訴えているような気がするのだ。

 あくまで泰然としているように見える紅樹が、どこか不安げなように思えて。


 紅絹は、ふいに自分がどうしたいのかを、理解した。


 思わず笑みを浮かべ、傍らにいる紅樹を見上げて、言う。


「ありがとう、兄ちゃん」


 目を見張る紅樹の横を通り抜けて、紅絹は、普段だったら怖くて近づきすらできないようなその美しい緋色の着物近づきその袖を掬い取った。


 予想以上に滑らかなその生地を彩る赤い紅葉を見つめ、次いで、瞳を瞬かせる紅樹を振り返った。


「あのさ、お願い聞いてくれる?」

「……なんだ?」

「今は無理だけど。いつかさ、いつか、これを着てあの場所に行きたい」


 紅絹は、軽い驚きを示す紅樹にこの真剣な気持ちが伝わるよう、真正面から見つめた。


「紅樹と一緒に、姉ちゃんや、ほかの娘さんたちの墓参りがしたいんだ。仇は取ったよ、って」


 それが、きっと村のために命を散らした娘たちにできる唯一で、精一杯のことだと、紅絹は思った。


「紅絹……」

「ついてきて、くれる?」


 急に不安になって弱気になる紅絹に、紅樹は柔らかい微笑を浮かべる。


「ああ、もちろん。いつか行こうぜ」

「うん!」


 いつものように頭を撫でてくれた紅樹に紅絹は嬉しくなってうなずいたのだが、途端、紅樹が愉快気に藤右衛門を振り返ったのに、ちょっと不穏な気配を感じた。


「よし、そのためにも、こいつに合わせる帯を選ばねえとな!」

「おや、旦那ともあろうものが、襦袢に半襟なんぞをお忘れですよ。草履も髪飾りも必要でござんす」

「おう、全部持ってこい!」

「あーい只今!」


 いつの間にやら廊下で控えていた女衆が笑顔で様々なものを抱えて入ってくるのに、呆気にとられた紅絹だが、すぐに我に返った。


「ちょ、ちょっとまって紅樹! そんなにいらない、いらないから――――っ!」


 そうして、紅絹をそっちのけで盛り上がる紅樹と藤右衛門に割って入り、余計なものを買わせないために付属品を必死で選ぶことになった紅絹であった。





 **********




 旅人は、獣道と見間違うような山道を、息を切らして歩いていた。


 急峻な山道は、容赦なく旅人の体力を奪うが、それよりも、数日前に立ち寄った宿場で聞いた話が、旅人の足を急がせていた。


 “お前さん、あそこの山を登るのかい? 気をつけなせえ。あの辺りは昔、猿の化けもんが住んでいてよ、近隣の村娘を生贄に出すくらいの威勢をふるっていたんだ”

 “あの山の中腹辺りにある祭壇でよ、花嫁衣装を着せた娘をぼりぼり食わせていたというんだから、おっかねえわな”

 “まあ今じゃ、なんだっけか、通りすがりのお侍様だっけか?”

 “おりゃ、徳の高い坊さんだって聞いたぞ”

 “まあ、ともかく誰かに倒されてよ、生贄なんぞを捧げることもなくなったらしいが、それでもまだ祭壇は残っているらしいぜ”

 “貪り食われた娘の悲鳴や、すすり泣く声が今でも聞こえるらしいって話だ。お前さんも、うかつに近づいて取りつかれねえように気をつけなせえよ”


 宿屋の主とその友人の話に、大丈夫だと虚勢を張って山越えを始めた旅人だったが、木々のざわめく音や薄暗さに、早くも後悔し始めていた。

 しかも、どうやら、土地の者もあまり使わないらしく、道には草木が生い茂り、時折見失いかけるようなありさまだ。


 急ぐ旅とはいえ、やはり、街道を行ったほうが良かったか。


 言い知れぬ不安を抱えながら草をかき分け進み続けると、先方の草木が途切れていることに気付いた。

 旅人は表情を輝かせて足を速めたが、そこにあった物にさっと青ざめた。


 その、古びた様に苔むしたその石造りの祭壇は、いやがおうにも宿屋の主人の生け贄の話を思い出させた。


 よりにもよってなぜこんなところに出てしまったのか、とあわてて、道を引き返そうとした旅人は、足元の木の根につまずきひっくり返る。


 草木に埋もれた旅人が痛みに顔をしかめつつ体を起こすと、石造りの祭壇に、人が立っていることに気付き、息を飲んだ。


 いつの間に、そこに現れたのか。


 長い黒髪は結いもせずに背に流し、鮮やかな紅葉の緋衣を身にまとったその娘は、ぼう、と祭壇の中央に立ち尽くしていたかと思うと、その場にしゃがみ込んだ。

 緋色の振袖を惜しげもなく石床に投げ出し、持っていた花をその場に置くと、祈るように手を合わせる。


 その頭に生える二本の角を見つけてしまった旅人は、逃げることもできず、息を殺して見守った。

 いや、見惚れていた。


 その身にまとう紅葉の緋衣のなんと美しいことか。

 そして、その娘の横顔に、禍々しくも美しい二本角が何と似合うことか。


 このような美しい鬼であるならば、殺されてもよいかもしれない、と旅人が思った時。


「紅絹、もういいか?」

「うん、紅樹。ありがとう」


 不意に現れ、娘にそう声をかけたのは、見上げるような長身の美々しい男だった。

 頭には、やはり娘と同じ二本の角。

 その男鬼もまた、目にも鮮やかな緋色の紅葉の羽織をまとっていた。


 娘は男鬼に親しみのこもった笑みを向けて立ち上がる。


 その一対の浮世絵のような姿に、旅人が呆けた様に見惚れていると、男鬼がちらりとこちらを振り返り、口角を上げて笑った。


 明らかにこちらに気付いての笑みに、旅人はざっと血の気が引いたが、それ以上何をするでもなく、娘と男鬼は、唐突に姿を消す。


 また森閑とした石造りの祭壇を前に、旅人は、大きく息をついた。


 次の宿場にたどり着いたらこのことを誰かに話さなければ、いや聞いてもらいたいと思いつつ、旅人は立ち上がろうと足に力を入れたが、果たせなかった。





 腰が、見事に抜けていた。





 〈了〉



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生贄鬼譚 道草家守 @mitikusa

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