肆、

 








惣八そうはちさん、借りた分返しに来ました!」


 日差しよけののれんをくぐって貸本屋にやってきた紅絹に、主人の惣八が顔を上げた。

 だが、その後ろにいつもの長身がないことを訝しそうにする。


「おや、紅絹ちゃんいらっしゃい。一人かい?」

「あ、はい。紅樹は別の用事があるとかで、ついてこないかって言われたんですけど、邪魔しちゃいけないと思ったので、貸本屋ここに寄ってから先に帰ると言ってきちゃいました」

「そうかい」


 慣れた風で草履を脱いで板の間に上がった紅絹から貸出本を受け取りながら、惣八は納得したようにうなずいた。


「じゃあ今日も選ばせてもらいますね」

「わかったよ、好きなだけお選び」


 紅絹がうきうきと本棚のほうへ歩いていけば、帯に下げられた鈴が、ろんと鳴った。









 一刻ほどかけて今日も本を借りた紅絹は、草紙を包んだ風呂敷包みを大事に抱え、足早に大通りを歩く。


 はじめての外出以降も、紅絹は紅樹に連れられて何度か来ていたが、一人で街へ来るのは今日が初めてだった。


 別行動になった紅樹には散々心配されたが、紅絹は年端もいかぬ子供ではないのだ。 

 知らぬ場所でもなし、迷うこともない。

 ただ、あの屋敷へ帰るには、“妖術”という紅絹には未知の力が必要なので、帰るための鍵となる鈴を貰った。


 人気のないところへ行って、紅絹があの屋敷を想って鳴らせば門が現れる。

 一度試した時に、まるで陽炎の中から立ち上ってきた門を見た時には呆気にとられたが、これがあれば一人でもあの屋敷に帰ることが出来るのだ。

  


 無くさないように、帯にしっかりと根付けを通して挟んだそれが揺れる様に顔を弛ませながら、帰り道を急いでいると。


 人気のない裏道に入った時。

 ふと、背後になにか・・・の気配を感じた。


 止まりかける足を努めて平静に動かしながら、その違和感の正体を探る。


 人一倍、生きるものの気配に敏感だった紅絹は、鬼となってから、一層その感覚が研ぎ澄まされているように感じていた。


 その感触から、悪意を読み取った紅絹は、顔を険しくする。


 何度も行き来すれば、あの屋敷が、こういった人の街とは“違うところ”にあるものだと理解していた。

 唯人では決してたどり着けないところであると知っていたが、妖がそうだとは限らない。

 そして紅絹の後ろにいるモノは、人ではないものに思えた。


 あの屋敷に、持ち帰ってはいけない。


 紅絹は、後ろの気配が追い付いて来ようとした瞬間、目に付いた大八車を足掛かりに、空中へ飛び上がった。

 夕暮れの空に舞い上がった紅絹は、近くの屋根にすとんと着地すると、一気に走り出した。

 板葺きの屋根は、幸いにも紅絹程度の重さを支えてくれている。

 慌てふためく声に視線をやれば、牛頭であったり、目が一つしかなかったりする男が、こちらを指さしながら、追いかけてきていた。


 なぜそこまでされるのかわからなかったが、構わない。逃げ切ってみせる。


 この街は、広すぎて、知らないところばかりだったが、何度か来たことである程度地理もつかんでいる。

 走る場所はあり、隠れる場所も、道もある。

 山よりずっと逃げやすい。


 それに、体が軽かった。

 ヒトだったころであれば、紅絹の背丈の倍は開いた屋根から屋根へ飛び移ることなんてできなかったし、これだけ走っているのに、息も切れないないなんてこともない。

 逃げるのを忘れて、どこまでも走っていきたいような、もっと別のこともしたいような、自分でも驚くほどの昂揚を感じていた。


 紅絹は、そのまま屋根伝いに逃げ、妖たちが登ってこようとすれば屋根から降りて道を走る。

 妖の男達が慌てふためき躍起になるのを背に感じながら、路地を曲がったところでまた屋根に上がったところで、今度はぴったりと張り付いた。


 追っ手が、曲がった先に紅絹の姿が見えず、怒りといら立ちの声を上げながら、やっきに走り去っていく。

 屋根の上でやり過ごした紅絹は、声が聞こえなくなったところで、ほうっと息をついた。


 何が何だかわからないが、ともかく撒けたようだ。


 早く、紅樹の許に帰らねば。


 そうして、はやる気持ちを抑えつつ今度こそ鈴を使うために、路地へ降りた、その時。


「よう、そこのクソガキ」


 振り返った瞬間、飛んできた拳に腹を殴られ、紅絹は地面に転がった。







 とっさに抱えていた風呂敷包みを盾にしたが、強烈な衝撃にむせこんだ。


「っお、親分!」

「馬鹿ども、なに小娘一匹にいいようにされてんだ、あ゛あ゛?」

「す、すいやせん!」


 ばたばたと複数の足音がして、追っ手が戻ってきたと知り、なんとか何とか立ち上がろうとしたら、その前に髪を握られ力ずくで顔を上げさせられる。


 全体的に荒く彫り込まれたような容貌の男だった。

 藍鼠あいねずの着物を着たその男は、紅絹の髪を握ってないほうの手は懐に突っ込んだまま、紅絹を見下ろすようにしゃがんでいる。

 人の姿をしていたが直感的に、紅絹はこの男も妖だと悟る。


 初対面のはずだった。

 だが、男が紅絹を見る忌々し気な瞳は、正しく男の憎悪を伝えてきた。


 男は、値踏みするように紅絹を眺めてから、吐き捨てた。


「くっそ、気に入らねえ。自分で妖術も使えねえ、女としての色気もねえただの餓鬼じゃねえか。なんで兄貴はこんな貧相なガキを拾ったんだか」

「あなたは、誰ですか」


 辛うじて紅絹が聞くと、髪を握る手にぐっと力を入れられた。


「お前に声を出すのを許した覚えはねえぜ。んなこたあ、どうでもいい。兄貴の許から離れろ」


 皮膚の痛みに顔をしかめていると、男は憎々しげに、紅絹に言った。


「答えはうんだけだ。兄貴はな、冷酷で、恐ろしい、すげえ妖なんだ。いつまでも兄貴の気まぐれに甘えてんじゃねえ。どこでどうやって取り入ったか知らねえがな、血も暴力も闇の気配も知らねえ貧相な小娘がそばにいていいヒトじゃねえんだよ」


 毒のしたたり落ちる言葉に、紅絹は唇をかみしめた。

 引きつれる皮膚だけが熱を持つ。


 そんなの、とうに知っている。

 紅絹が紅樹の気まぐれで生かされていることも事実だ。


 でも。

 紅樹は、兄だと言ってくれたあのヒトはその細い縁につけた名を本当にしようとしてくれているのだ。

 だから紅樹が、紅絹を“妹”と言ってくれる限り、紅樹の、“兄”のそばにいる。

 あの日、あの夜、そう決めた。

 紅絹がぐっと睨み返すと、男は眉間の皺を深くし、舌打ちをする。


「……気に入らねえな、その目。道理がわかんねえっていうんなら、仕方ねえ」


 乱暴に紅絹の髪をつかんでいた手をはなし、背後にいた手下の妖を振り返って言う。


「おい、適当に痛めつけろ。答えを聞かなきゃなんねえから、しゃべる気力くらいは残しておけ」

「「へい」」


 こちらを振り返りもせずに、男が懐手をして去っていくのと入れ違いに、牛頭と一つ目が近づいてくる。

 すでに辺りは夕日が落ち夜の気配が忍び寄ってきている。


 奴らの下駄ばきの足が近づいてくるのも意識の外で、紅絹はどくどくと、己の心の臓が先ほどよりも高く強く鼓動を打つのを聞いていた。


 日が落ちるまでには帰る、と紅樹に約束していた。

 帰らなきゃ、早く、あの屋敷に、紅樹の許に。

 でも帰るためにはあいつらが邪魔だ。


 

 どうする? 



 ふと視線を落とすと、地面についた手の爪がすらりと伸びていた。

 鋭く刃物のようにとがった爪は、なるほどいい武器になりそうだ。


 頭の芯がぼうっとする。

 だけど、心の臓がうるさいくらい鳴るたびに、紅絹の手足に力をくれるみたいだった。


 男達は、もうすぐそこだ。


 武器はできた。体も動く。ならばこいつらを、




 殺して、しまえばいい。




「恨みはないが、おめえさんは親分の逆鱗に触れちまったんだ、あきらめて殴られな」


 一つ目の男の言葉をききながら、紅絹は乾いた土を握りしめ、にんやりと唇を吊り上げた。







  **********







「ぎゃあ!!」


 藍鼠の男は直後にあがった野太い悲鳴に振り返り、目を疑った。


 一つ目が顔を抑えながら、地面に叩き付けられていた。


 呆気にとられてそれを見ていた牛等も、即座にその太い腕を本気で振りかぶったが、娘は臆しもせずにその懐に飛び込むと、手刀を牛頭の腹に伸ばした。


 ずぶり。


「ぐっ!?」


 小娘に覆いかぶさったまま一瞬止まった牛頭は、そのままずるずると地面へ崩れ落ちていく。

 無傷で立つ小娘が、右手の長く伸びた爪についた血を振り払う様に、藍鼠の男は我知らずつばを飲み込み、次いで、唇の端を吊り上げた。


「へえ、ただの小娘じゃねえってか」

「お、親分!」


 暗がり控えていた手下たちがあちらこちらから現れ、男を守るために周りを固めた。

 化け顔や異形には一様に驚愕と焦り表情が張り付ついている。


「何なんですかいあの小娘!?」

「がたがた抜かすんじゃねえよ、こいつぁ元人間だ。堕ちたての妖に恐がる必要はねえ」


 泰然と構える藍鼠の男が部下に言い放つと、ふらふらと立ち尽くしていた娘が、茫洋と呟いた。


「……増えてる。じゃあ、全部倒さなきゃ」


 瞬間、娘の華奢な体が深く沈み、一気に加速した。


 一番先頭にいた手下の犬化けの一人が、爪のひと薙ぎに血しぶきを上げて倒れる。

 その隣にいた三つ目の男は、仲間を助けようと娘に伸ばした手をつかまれ、いともたやすく投げ飛ばされた。

 三つ目の男が長屋に突っ込んでいくのに、それぞれの獲物を抜いて本腰を入れた手下たちだったが、ゆらりと顔を上げた娘の、その愉悦に染まった笑みの艶やかさに目を奪われる。

 いつの間にか、その頭頂部には、禍々しくも美しい角が二本、露わになっていた。


 そうしてまた別の手下に襲い掛かる娘の熱に浮かされたような姿に、藍鼠の男は顔をしかめて吐き捨てた。


「ちっ、魔に呑まれてやがる。おいてめえら、どけ」

「親分、危険です!」

「このまま、下がりやしょう!」

「こんなあぶねえもん兄貴のそばにおいておけるか!」


本性である獣面じゅうめんをあらわに一歩踏み出した藍鼠の男に、手下どもは頭の本気を悟るが、子分の矜持として、頭を表に立たせるわけにはいかない。

手下どもが、慌てておしとどめようとする攻防の最中。


「なにしてんだ、忠治」


 かけられた低い声に、藍鼠の男はぎくりとして振り返った。


「兄貴っ!いや、これは」


 喜びと罰の悪さに複雑な表情で固まっていると、容赦のない拳が頭頂部に落とされた。


「って!」

「お前だろ、紅絹に“呪”を送り込んだのは。堅気の御狐屋の女を脅して、紅絹の名を聞きだしてまで何してやがる」

「だがよ、あれは兄貴にふさわしくねえだろ、あの程度で魔に呑まれやがって!」

「うるせえ。忠治。あれは俺の妹だ。俺がそう決めた。お前に口出しされるいわれはねえよ」


 殴られた頭を抱えながらも言いつのろうとした忠治だが、紅樹の予想以上の険しい顔に言葉を詰まらせた。

 忠治が絶句している間に、紅樹は苦々しげに自身の髪を乱暴にかきまぜた。


「……ったく、一年たってやっと血が収まって、外に連れ出せるようになったものを。またしばらく家から出してやれねえじゃねえか。まあ、どこにもいかねえんだから俺にとっちゃ好都合だがよ。閉じ込めておいちゃ、紅絹は息がつまっちまうだろうしなあ、ッたく、余計なことを」


 ため息をつかんばかりの紅樹に、忠治は呆然とした。

 その言葉ではまるで、紅樹が望んで迎え入れたようではないか。

 忠治がいくら組に誘ってもうんと言わず、どんな女にもなびかなかったあの鬼が!


「仕方なく面倒見てるんじゃなかったのかよ」

「はあ? 何言ってんだお前。そりゃあまあ、最初はただの人の娘っ子が狒々をぶっ殺す器量に惚れた気まぐれだったがよ。今となっちゃ紅絹に嫌がられても手放したくねえかあいい妹だよ」

「は……?」


 人の身で、狒々を殺す?

 呆れた風で言う紅樹を忠治は信じられない思いで兄分と慕う鬼を見上げた。


「親分!こいつはだめだ、逃げて下せえ!」


 そのあいだにも、手下どもからは悲鳴と怒号は続き、すでにほぼ半数の手下がたった一人の小娘相手に手も足も出ていない状況だった。

 恐れと焦燥に染まった顔で振り返る手下の声に、焦りといら立ちにぎりと拳を握った忠治の横に、紅樹が並んだ。


「まあ勉強代だ、忠治、二度はねえぞ。次、紅絹にてぇ出したらつぶすぜ」


 かけられた言葉と載せられた手の重みに、忠治は渋々ながらうなずいた。






 **********






 熱かった。

 どこが熱いのだろうと、ぼんやりとする頭の中で、紅絹は考える。


 ああそうだ、血が熱いのだ。

 熱くて、熱くて、堪らない。


 拳をふるい、投げ飛ばし、赤い色が飛び散るたびに、紅絹の中の血が騒ぐのだ。

 もっと、もっと、もっと、と。


 たりないのだ。

 

 悲鳴が、喧騒が、嘆きが、怯えが、足りないのだ。

 

 もっと振おう。ああそうだ。恐れられなければ。


 だが、紅絹はふと思う。

 何のために?


 何か、大事なことを忘れている気がした。


 私は何をしたかったのだっけ?


「紅絹」


 誰かに名前を呼ばれた気がした。

 おかしいな、今この場には私の名前を知る人はいないはずなのに。


 そう言えば、今、爪をふるっているのは誰だろう?

 疑問が脳裏をよぎった時。

 手首が掴まれた。


「紅絹、遊びは終わりだ。そろそろ帰るぞ」


 “帰る”


 その声に、思考にかかっていた靄が急速に晴れていき、紅絹は、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 目の前には紅樹がいて、いつの間にか、振りかぶられていた右手首は抑えられ、腰を抱き込まれている。


「紅樹?」

「おう、紅絹、“戻って”きたな」


 少し安堵したような紅樹に、紅絹はぼんやりと首をかしげた。


「なんで、いるの?」

「どうだっていいんだよ、そんなことは。それよりも、日が暮れる前には帰るって約束だったろう」


 その少し咎めるような声音に、周囲を見回すと、すでに辺りは真っ暗で、約束を守れなかったことに気付いた。


「ごめんなさい」


 素直に謝ると、ぽんと、頭に手を置かれた。


 なんだか、手足が妙に重だるかった。

 頭がぼんやりして、うまく考え事が出来まい。

 急に眠気まで襲ってきて、こんなところで寝ちゃダメだ、と思いつつもあらがえない。

 そう言えば、なんで約束通り帰れなかったんだっけ?


 ふと、両手が妙に濡れている気がして、視線をやると、黒々としたなにかがついていた。


 そう言えば鉄さびのような匂いも立ち込めている。


 何が、あったんだっけ?


 と周囲を見渡そうとした矢先、大きな手に両目を覆われた。


「紅絹、疲れたんだから、寝ちまえ。起きたら屋敷についてっからよ」

「紅樹?」

「おやすみ、紅絹」


 瞼が覆われた途端、睡魔はより一層強烈になり、紅絹はあっけなく眠りに落ちた。









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