金色の木馬

矢庭竜

 

 夏の終わりの蒸し暑い夜、人々はクーラーの効いた部屋でぐっすり眠っていた。だから、住宅街の道の脇にポツンと捨てられた地球儀がブツブツ言っているのを聞く者は誰もいなかった。

「押し入れに何年もつっ込んだあげく、こんなふうに乱暴に捨てるなんて。せめて脚を下にしてくれよ。地軸が地面と平行になってて、気持ち悪いったら」

 街灯の光の中で身を寄せ合うゴミ袋たちも地球儀の独り言には応えない。冷たい無視がさらに地球儀をいらつかせた。文句を言ってやろうとした、そのときだ。

 遠くから返事をするように、キイッときしむ音があった。

 音はすぐにまた、キイッと鳴る。一拍置いて、また、キイッ。だんだん近づいてくるようだ。地球儀は独り言をやめて、音に注意した。

 街灯は道路の片側に並んでいる。片面を照らし出されながらゆっくり進んでくるのは、馬だった。生きた馬ではない。木馬だ。

 木で出来た体は金色に塗られ、目玉の代わりに藍色のガラスがはめられている。キィキィうるさいのは、動かないはずの木の足を無理やり動かしている音だった。馬は黙って通り過ぎようとしていたが、ちょうど虫の居所の悪かった地球儀は、馬に向かって怒鳴りつけた。

「おいあんた、困ってる人が目の前にいるってのに、素通りか?」

 馬はギギィッと木の首を回した。

「これは失礼。何をお困りですか」

 きらきらしい見た目の通り、星くずを散らしたような声だった。自分よりきれいなモノが、自分よりきれいな声を持っているのは、地球儀の気に触った。

「見ればわかるだろ。おれにはせっかく脚があるのに、倒されて転がされてるんだ。立ててくれ」

「わかりました」

 木馬はゆっくり近づいてきた。同じ街灯の下に入ると、その姿の立派なことがよくわかった。金色のペンキはくり返し塗り直された痕がある。体のあちこちを飾る大小のガラス玉は、どれもピカピカに磨き込まれている。とても大事に使われてきたらしい。

 木馬は前足の一方を上げ、六回ほど挑戦してようやく地球儀を縦にした。地球儀はその六回の間、蹴飛ばされたり踏まれたり街灯の柱に頭をぶつけたりしていたので、ますます不機嫌になっていた。なので礼を言う気にもなれず、代わりに木馬をバカにして笑った。

「馬が何かを持ち上げるときは、人間みたいに前足を使うんじゃない。首を下げて口を使うんだぜ。そんなことも知らないなんてな」

 木馬は恥入って頭を下げた。

「そうなのです。僕は本物の馬について何も知らない。本物の馬を目指しているのに、恥ずかしいことです」

 地球儀は驚いて声をひっくり返した。

「本物を目指してるだって。どうしてそんな考えになったんだ?」

 そう言ったのは「あんたバカじゃないか」くらいの意味だ。だけど木馬は質問されたのだと考え、悲しそうに話し始めた。

「僕は遊園地のメリーゴーラウンドの一頭でした。僕のいた遊園地は、子供たちにたくさん遊んでもらっていました。夏休みともなれば、大勢が押し掛けてきて……でもそれは昔の話です。でも年々お客が少なくなっていって、これ以上は運営できないと園長さんが言って。だから、今年は最後の夏休みだったんです」

「じゃ、あんたたち、取り壊されるんだ」

 へん、と地球儀は笑った。遊園地がひとつ取り壊されるとなれば、廃棄されるモノは百個くらい出たはずだ。そりゃあいい。かわいそうなモノは多ければ多いほどいい。自分だけかわいそうだなんて不公平だもの。

「そうです。でも僕はそんなの嫌でした。人を乗せて走るのはとっても楽しいから。それで、僕に乗り続けてくれる人を探すことにしたんです」

「そうやって、本物の馬になるっていうのか? 考え直せよ」

「どうしてですか?」

「ほら、おれは地球儀だろ。それが本物の地球になったらどうなる? 地球が二つになって、みんな困っちまう。モノに生まれたからにはそのモノとして生きなきゃ。あんたは馬じゃなくて、馬の模型なんだよ」

「乗ってくれる人がいれば、本物になれますよ」

 木馬は怒ったように首を反らせた。

「そうかよ、そんなに言うならやってみるがいいさ。この二軒先に、乗馬に憧れてる坊やがいる。あんたが声をかければ、窓から抜け出してくるかもな」

「それはいい」

 木馬は嬉しそうにうなずいて、キィキィ足をきしませながら、街灯の下を出て行った。

 バカなやつ。本物になれると思っているなんて。

 遊園地なんて夢みたいな場所にいたから、自分まで夢見がちになったんだろうな。その点自分は違う、と地球儀は考えた。真面目な勉強に使われる自分は、現実的な考えを身につける機会があったからな。と言っても、押し入れの外で勉強に使われたのなんて少しの間だけだったけど。

 そう考えると、子供たちにたくさん遊ばれたという木馬がうらやましかった。何度もペンキがはがれるくらい使われて、そのたび塗り直された体が妬ましく思えた。地球儀は埃をかぶるばっかりで、傷のほとんどはこの道路の端に放置されてからついたものだ。

 あの木馬、不幸になればいい。窓の下を見下ろした坊やは、動く木馬に悲鳴を上げて逃げ出すんだ。きっとそうなるぜ。

 考え事にふけっていると、突然、不思議な音が聞こえてきた。木馬が消えた方角からだ。地球儀は驚いて音の方角をじっと見つめた。キィキィきしむ音でも、引きずるような音でもない。

 パカラ、パカラ、パカラ。ひづめの音だ。

 街灯の下に現れた木馬は、もう木馬とは言えなかった。自由に動く四本の足と、筋肉と、風になびくたてがみをそなえている。金色の柔らかい毛並みが街灯の光の中で一本一本輝いた。赤い革で出来た鞍の上には、黄色と緑のパジャマを着た坊やがにこにこ笑ってまたがっていた。

「ありがとう、地球儀さん。この通り、本物の馬になれましたよ」

 地球儀は驚くやらあきれるやら、嫌味を言う余裕もなかった。馬と坊やは地球儀の返事を待たず、星の夜の冒険に出かけていった。ひづめの音が空に吸い込まれて消えたあとには、街灯と地球儀とゴミ袋が残っていた。地球儀は空を見上げてつぶやいた。

「おれも地球になろうかなあ」


―――――


三題噺「地球儀・馬・最後の夏休み」

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