第9話 風の音がしないところ

『ハオユー、珍しいじゃないか。そんな恰好をして。どこかで手伝いでもしてるのかい』

占いの看板を掲げ、通りに折り畳み式の椅子と机を出し、座っている男がそうして道行くイナサに声をかけた。おじさんと言っても差し支えない壮年の男は、机の上に虫眼鏡と分厚くファイリングされた本を置いている。

昼時でどこもかしこも飲食店に客を取られているせいか、彼は暇そうに目元をこすった。

『ちがうよ、おじさん。リャン先生のところに知り合いを連れて行っただけ。俺も服が汚れてさ』

ナライを中華街の外れの個人経営の病院に連れ込んだイナサの服は、血でひどく汚れてしまっていた。

その服をさっさと捨て、イナサは中華街の土産物屋で売っている変な中華服を着ている。

赤茶に染めた髪と、少々のっぺりとした素顔のイナサは、観光客というよりはこの中華街で働く呼び込みの人間に見えてしまうようだ。

リャン、という名前を出しだけで察したのか、男は詳しいことは尋ねず、それは大変だなあ、と言うにとどめた。

『天狼君はお元気か』

『元気だよ、元気すぎて俺と兄弟げんかだってしてる』

おいおい、と男は呆れたような顔をした。

『天狼君に歯向かうものじゃない、ハオユー』

『歯向かってないさ、いたって仲は良好だよ、おじさん。俺は天狼君に何もかも捧げてる。この街は安泰だよ』

イナサは昼食用にと買った袋から肉まんをひとつ取り出した。

食べるか、と尋ねてから、男に首を振られると、イナサは肩をすくめた。

『じゃ、子どもたちが待ってるから、俺は行くよ』

じゃあね、と手を振り、イナサは足取りも軽く、飲食店が並ぶ通りを歩いた。

横浜の中華街は、慣れてしまえばそう難しい道があるわけではない。だが、慣れない人間には似たような通りと、細い路地に立つ人間の存在に尻込みするかもしれない。

イナサは入り組んだ道に入り、いくつか路地と、人の敷地を横切った。

ほんとうは中華街から抜け、横浜の上、山手のほうへ行かねば泣く相手もいるのだが、いかんせん、この街にはまだナライがいた。

(……化野のヤロー……)

怪物じみて天才の男の予言を思い出し、イナサは笑顔のまま青筋を立てた。

余計な予言なんて不要だった。わざわざあの男が口にするから、それが現実となってイナサに降りかかってきてしまったではないか。

(思ってても口にするのはよくない)

望むと望まないと、それが叶ってしまうから。

昔から口にするときは気を付けなくてはいけないと決まっている。

イナサはビルにも見える一軒家の裏口から中へ入った。中はできたばかりの病院のように白いビニール地の床が張られている。

「せんせーただいまー肉まん買ってきたけど食べるー?」

そうして奥に声をかけると、返事は帰ってこない。

診察中かもしれないと、イナサはそのまま廊下を右に曲がり、曲がりくねった廊下を歩いた。

一番奥の部屋に静かに入ると、そこでは大きな男がベッドに横になっていた。ベッドの上に出た腕には点滴がつながれ、静かに寝ている。

いつもイナサを玻璃のような目で見ている高校生からの友人は、すこし青白い顔で眠っていた。

部屋自体は病室かリビングのようだった。入り口とは反対に大きな窓があり、中庭がある。中庭に出られるようにはなっているが、中庭は回廊の中心にあるようで、どこも部屋とつながっていた。

イナサは中に入って、そばの椅子に腰かける。

袋から白い紙包まれた肉まんを取り出して、ぱくりと口にくわえた。

(……俺はこんな目にあわせるつもりはなかったのにな)

もぐ、と白いパンの部分をかじり、イナサはため息をついた。

点滴に繋がれていない反対側の指先は、白い包帯をぐるぐると巻いて固めている。足先もぐちゃぐちゃにくぎが差し込まれたせいで、穴が開いていた。体中は殴られたせいで青あざがあるし、片目は腫れている。頭は片目を覆うように包帯がまかれていて、姿は大けが人のものだ。

イナサは使えるツテを使ってナライの会社に休暇届を出した。

だからしばらく休んでいることは問題ないだろう。

ナライは誰もが名を聞く大企業に勤めていた。しかしだからこそ、黒い部分もあり、交通事故にあったことにして、しばらく休んでも問題ないようにしている。

そんなイナサのあれやこれやなど、目の前で穏やかに寝ている男は一切知りもしないのだが。

(俺と関わると、こうなる)

この状況は、イナサにとってはやっぱり来たかという苦々しい思いをするだけのものだった。

自分の兄がいずれ気分でナライに手を出すことはわかっていたし、だからこそ、イナサは早く死んで、ナライと関わらないようにしたかった。

こんな自分とは関係のないところで生きて、ナライは別の誰かと幸福になっていてほしかった。

「……ナライ、いやなんだよ。俺は、お前のそばにいるの」

ぽつりとつぶやいた声は、ナライが拾うことはない。

(お前がそばにいなければ、お前のことを考えなくていい。手が届く距離にいなければ、ああ、さみしいな、だけで終われる)

けれどイナサはナライがいると、彼の幸福とか、彼のことを考えずにはいられない。

だからそばにいたくないし、ナライのことを考えたくない。

イナサはあきらめることに慣れている。いないならいないで、さみしいなと思うだけで終われるほどには、他人に執着を持つこともない。

それにナライは、イナサといるとだめになるのだ。

真っ当に生きてきたナライが、ただイナサといるだけでおかしくなる。

『俺が誰と付き合おうが関係ない』

そう言って、イナサの前で、イナサを嘲った母親をナライは殴り飛ばした。

ナライは暴力を知らない人間だった。だから、彼の初めての暴力は母親に向けてで、手加減のないその暴力を止めたのはイナサだった。

『やめろって!やりすぎだ!死んじまうよ!』

『……そうか』

そうか、これは死ぬのか。

そんなことを淡々と言うナライに、イナサがしてしまう。

ナライはわかりやすいくらいに、イナサを自分の中の最上位にする。

そしてそのせいで、ナライはおかしくなる。

そんなものを、イナサは見ていたくなかった。

真っ当に生きてきたナライが、ただイナサのせいで狂う。

はあ、とため息をついて、イナサは肉まんをかじった。中の餡にたどり着くと、がぶりと大口を開けてかじりつく。

ナライがこんな目にあう前に、イナサは死んでいたかった。

兄が殺してくれなければ、死ぬことさえ許されない身であるから、兄に殺してほしかったのだ。

『ちょっ、お待ちを。ズールイ様、継狼君はまだお帰りでは……』

「パパの声がしたもん!」

そんな声が聞こえたかと思うと、ばん、とドアが開いた。

慌ててかけてきたのか、すこし息を切らせた子供と、うしろで頭を抱える白衣を着た男と白いワイシャツを来た少年がいた。

子どもはイナサを見て顔を輝かせ、けれど中に入るのをためらうようにうつむいた。

「阿梓、どうしたんだ?」

イナサは肉まんを近くのテーブルに置いてにこやかに子どもに声をかける。

「パパ!」

名前を呼ばれたズールイは、ぱたぱたと駆けてくる。

そばまで来た子どもを、イナサは両手を広げて迎え、膝の上に抱き上げた。

まだ3、4歳の子どもは、そうされるとうれしそうに笑い、イナサに抱き着く。

『申し訳ありません、継狼君……』

白いシャツを着たお目付け役の少年は、申し訳なさそうに中国語で謝罪した。

『天狼君は、その、ジア様によるとしばらくはお近づきにならないほうがよいとのことで、ズールイ様がその……』

ズールイはまだ親を恋しがる年齢だ。その時に家族の誰も近くにいないことが長く続き、とうとう限界を迎えたのだろう。駄々をこねた子どもが大変だったのは想像に難くない。

イナサはズールイを抱きしめ返すと、苦笑した。

『小若、その通りだ。天狼君は非常にご機嫌斜めだからな。近づかないほうがいい。今日は屋敷に戻る。阿梓に言うから、一緒に先に帰れ』

はい、とうなずいた少年は、まだ15、6歳だ。目鼻立ちのはっきりとした顔をしていて、清潔感のある様子は、中華街の人間ではないようだった。

「阿梓、しばらく天狼君は帰らないから、パパは今夜、屋敷に帰る。いい子だから、ルォランと一緒に先に帰っててくれ」

でも、とズールイは少年を見上げ、やがていや、と首を振った。

「パパと一緒がいい!」

「阿梓、」

わがままを言わないで、と困りながら揺すると、ズールイはじわりと涙をにじませた。

その涙にぎょっとしたのはズールイの従者のルォランだった。顔色を悪くして、どうしようと慌てる。

「……ズールイ?」

「だってみんな、わかんないもん!ぼくずーるいじゃないもん!」

その言葉に、イナサは確かにそうだ、と笑った。

「そりゃ、パパが悪かったよ、梓」

「みんなきらい!みんな、なに言ってるかわかんないもん!」

イナサが横浜に来たのはこの子どもを引き取るためでもあった。

生まれてこの方日本でずっと生活し、中華街でも遠い場所で生きていた子どもには、この街の言葉がわからない。

それでストレスが溜まっていたのもあったのだろう。

イナサはしがみついて離れない子どもの背中を撫でる。

「そりゃそうだ、みんな中国語だもんな。梓は悪くない。悪いのは日本語の勉強がへたくそなルォラン。気に入らないのなら変えようか?それとも、お仕置きする?泣いてごめんなさいと言わせようか?」

にこやかに言ってから、日本語がうまく分からずにじっとしているルォランに視線を向ける。

『そうだな、小若の爪をはがすところから始めよう。それで、そうだな、お前を抱きたい人間はたくさんいるだろうから、また犯されてくるか?それで、指を切り落とそう。な、小若?そうしたら、もっと阿梓に尽くしたいと思うかもしれない』

それとも交代がいいかな、とにこやかに中国語で言うと、ルォランは顔を青くした。

がたがたと震えながら、その場で膝をつき、手を合わせる。

『お、お許しを。お許しください、継狼君。私が至らなかったせいです。直します。努力いたします。お許しください……』

『いつまで中国語で話すつもりかな?お前は本当に阿梓の従者の自覚があるのか?それとも聞こえていないのかな?そんな耳は切り落とすか』

にこやかにイナサが言うと、その言葉に反抗する言葉を持たないルォランは青白い顔のまま、うつむいた。

とはいえ、ルォランはイナサが横浜に戻る時につれてきたばかりで、いきなり日本語を話せと言っているに等しい。

無理強いをしているのはイナサのほうだった。

しかしそれでもイナサに反抗するものはこの場にはいない。

それがイナサの兄の天狼君の力だった。

だから彼は自嘲的に『鬼狼』などと名乗る。

鬼は中国語で人でなしよりもひどい意味の言葉だ。

「父さん、あまり小若をいじめないで」

別の声がしてイナサが顔を上げると、入り口から小学生の子どもが部屋に入ってきた。

彼はイナサの元まで近づいてくると、ズールイの顔を覗きこんだ。

ズールイは彼に覗き込まれると、困ったようにイナサの服を掴んだ。

「どうしたの、ズールイ。そんな顔をして。……小若に、いじめられた?」

「……ぼく、ずーるいじゃないもん……」

その言葉に、6、7歳くらいの子どもは目を丸くして、イナサを見上げた。

「小若やみんなが日本語を話せないからな。それで梓は限界らしいぞ、阿博」

「……そっかぁ」

よしよし、とズールイの頭をなでた少年は、ぼくと帰ろう、とにこやかに笑いかけた。

「梓、お兄ちゃんと帰ろうよ」

「……ぱぱ……」

ズールイは困ったようにイナサを見上げるので、イナサは苦笑した。

しかしズールイの兄は不満そうに顔をしかめて、イナサを睨む。

『父さん、どうして阿梓は父さんがそんなに好きなの?阿梓は僕の弟なのに。僕のほうが父さんより阿梓を好きだよ』

『父さん相手に張り合わないでほしいんだけど……まずは小若に日本語を覚えさせたらどう?阿梓はいやで俺のところに来たからさ』

その言葉に、膝をついていたルォランは顔を上げた。

「梓、小若には日本語を覚えさせるよ。ね、兄さんとおやつ食べに帰ろうよ」

あらゆる手で弟を懐柔しようとするブォウェンに、イナサは苦笑した。

新しくできた弟を歓迎しているブォウェンは、母親違いの弟と仲良くなりたくて仕方ない。学校から帰ってきてすぐに弟に会いに来ては、仲良くなろうと構いに来る。

しかし親にあまえたい盛りのズールイは、抱っこされるのが好きで、こうして抱き着いたらなかなか離れない。

そのことをわかっているブォウェンは苛立たし気にイナサを見上げた。

『僕は父さん嫌い』

『ひどいな。泣きそうだよ、父さんは』

『僕も阿梓をだっこできる体がほしい。なんでもっと早く僕を生んでくれなかったの?』

無茶を言い出すブォウェンに、イナサは笑った。

中国語のわからないズールイは不思議そうに首をかしげている。そのことに気づいたイナサは、ズールイのこめかみにやさしくキスをした。

「梓、博文兄さんが悲しんでるよ。いい子だから兄さんを大事にしてあげなさい。ね?パパも今日は屋敷に帰るから、兄さんと先に屋敷に帰ってなさい」

うーと声を上げたズールイは、あと少しで大人しく帰りそうだ。

ブォウェンを応援する言葉を聞いたためか、彼は機嫌よくズールイの反応を待った。

子どもたちの反応をおかしく笑いながら眺めていたイナサは、う、とうめき声が聞こえて表情を変えた。

「い、な、いなさ……」

その言葉にズールイを抱きしめたまま、反射的に立ち上がり、ナライの顔を覗き込む。

ナライはぱちぱちとまぶしそうに瞬き、イナサを見つけてぼんやりと視線を動かす。

「ナライ、気分は?大丈夫か、なにか飲みたいとかあるか?起き上がるなよ。お前は今、重傷者だからな。安静にするのが仕事だぞ、リャン先生、ちょっと」

困ったように立ち尽くしていた白衣の男を呼びつけて様子を見させると、イナサはいつの間にか部屋に増えていた体格のいい青年を呼びつける。

「ユー、梓と博文と帰れ」

こくりとうなずいた男にズールイを渡そうとすると、彼は困ったようにイナサを見た。

「ぱぱぁ……」

「パパはちゃんと夜には帰るから、今は兄さんと帰りなさい、梓」

幾分きつく言うと、ズールイはうなだれて男に抱っこされた。

しかしブォウェンは満足そうに笑う。

「継狼君、小若は、お許しいただけますか」

ユーランは無表情でそう聞いてきた。

膝をついたままの少年を見やり、イナサは好きにしろ、と言い放った。

『天狼君は機嫌がよくない。梓がまた泣くようなら、小若は天狼君に渡す』

ユーランは承知しました、と静かに答えた。

ユーランとルォランはイナサが拾ってきた人間だ。だからこそ、彼らは中国社会の底辺を知っているし、天狼君の恐ろしさもよく知っている。

天狼君と呼ばれる兄が、ナライのように人を壊すことをなんとも思わないことを、彼らはよく知っていた。

ユーランはルォランを立たせると、背中を押して退室を促した。ルォランは一礼すると、すぐに部屋から出ていく。

「梓、なにが食べたい?もっと僕に、梓の好きなことを教えて?」

「すきなこと……」

「僕、梓のことをもっと知りたいよ。仲良くなりたい。僕と一緒に遊ぼう?」

ブォウェンがにこにこと機嫌よく笑いながら言うそれは、まるで好きな子に対するものだ。

血は半分しかつながっていないのに、とイナサは苦笑した。

『阿博、まるで将来お嫁さんにすると言い出しかねない勢いだ』

イナサはからかいのつもりでそう口にした。

しかし目を丸くしたブォウェンは、いいことを聞いた、と言わんばかりににこやかに笑った。

「そうだ、梓を僕のお嫁さんにしよう!」

こんなにかわいいんだから、とにこにこと笑うブォウェンに、どうしてこうもブラコンの血が出てしまうんだろう、とイナサは遠い眼をした。

イナサも殺されてもいいくらい兄が好きだし、兄は憎くて殺したいくらいイナサを愛している。ブラコンと言うにはねじれきったその関係にはなってほしくなくて、イナサは一応、兄弟は無理だぞ、と言っておいた。

それでもブォウェンは楽しそうに退出していったので、聞いているかどうかわからない。

(心配だ……梓を次の継狼君にするつもりなのに、そんなことすらさせなさそうだ)

ブォウェンは中国と日本を行ったり来たりしているせいか、イナサの子とは思えないほど兄に似ている。とはいえ、ブォウェンは天狼君に長いこと養育されているので、育ての親の影響が大きいのかもしれない。

「継狼君、問題ありません」

そうしてタイミングよく声をかけてきた白衣の男に、ありがとうと言うと、白衣の男は頭を下げて部屋を出ていった。

ぼんやりとしていたナライは徐々に意識をはっきりさせたのか、不思議そうな顔をしている。

「……あの子、たちは……パパ?」

呼ばれていたことを聞いていたのか、とイナサはうなずいた。

「ああ、俺の子ども」

「こども……?」

不可解な言葉を聞いたように繰り返したナライに、イナサは笑った。

「兄さんが女を抱けなくなってたから、俺が代わりに子供を作ったんだよ。俺の子どもだけど、兄さんに養育されてる。俺はただの生物学上の父親ってだけで、あんまり会わないしな」

小さいほうは、最近知って引き取りに来たんだ、とイナサは素直に答えた。

イナサが死んだら、彼らは泣くのだろうか。

そんなことを考えると死ぬに死にきれないと思うときもある。イナサは自分の子どもに対する愛もきちんと存在していた。

それでもときに、彼らの存在すら煩わしく思ってしまう。まるで重石のように、彼らがイナサを現実に縫い付けている。

彼らがいなければ、イナサはもっと簡単に死ぬことができていた。

(いや、無理だな。だってナライがいるのに)

ナライがいるから、彼を苦しませておかしくするとわかっているから、イナサは死んでしまいたかった。

それでもナライがそれを知ったときのことを考えると、死ねない。

「兄さんは、お前をこんな風にしても許される。誰も咎めない。そういう場所で生きてる。貴き天の狼は、その血筋を残していかねばならないから。俺は兄さんの代わりとしては重宝されてるんだよ」

そうか、とナライは静かにうなずいた。

「だから、俺のそばには、来ないのか」

あの子たちがいるからか、と問うてきたような言葉に、イナサは笑った。

「バカ言え。俺の子じゃねえよ。あの子たちはクォイランの子だ。将来は兄さんのあとを継ぐんだよ」

俺は父親なだけ、と言うと、ナライは首をかしげた。

「……お前こそ、結婚して、子どもを作れるはずだ」

「今更不安になるなよ、ナライ兄ちゃん。俺が一人目の子どもの父親になったのは、18歳のときだぜ。博文はもう9歳だよ。そんなときから父親なんだぞ、俺は」

イナサは指先をピアノを叩くようにとんとんと叩いた。

「俺は結婚なんかしねえよ。家族は作れば作るだけ、重石になるだけだ。そうだろう?俺の兄さんがどういうひとかわかっていれば、家族なんて作りたくなるもんかよ。なくしてつらくなるだけだ」

イナサは隠すこともなくあけすけに言い、ハハハ、と笑った。

「だから嫌だったんだよ、お前にこんなことを知られるのも、兄さんに会わせるのも。真っ当なお前と何もかも違いすぎる。俺がみじめになるだけだ。どういう生き方をして、どういう人間か思い知るだけだろうが」

でももういいからさ、とイナサはすこし痛ましげに笑った。

「お前は、俺と心中するんだろう?」

確認するように言うと、ナライはうなずいた。

「……すこしはためらってくれよ」

ナライの態度に呆れて、イナサは笑いながらそう言った。

「なぜ?」

「俺がつらくなる」

イナサが死んでしまいたいと思っていることを、ナライが心の底から理解しているとわかるから、苦しい。

ナライにそんなことを言わせたくはなかったし、イナサにはそんなことを言わせるつもりはなかった。

「俺はお前といると苦しいんだよ、ナライ。そんなことは、俺が一番よくわかってる。お前とは何もかも違いすぎるし」

でも、とイナサはナライの手を握った。

握った手は、節くれだっていて、イナサよりも大きい。手のひらを握り、イナサは労わるように撫でた。


「それでも、お前がいい」

「イナサ」


そう呼ばれることは、やはり苦手だとイナサは笑う。

イナサ、と呼ばれることが苦手だった。

そう呼ばれると、イナサはつかの間、自分のどうしようもない渇望を忘れる。

イナサはずいぶんと長い間、自分の中に湧き上がる欲望と戦いながら生きていた。小学生の時に知り、そして発生した。それは病のように長いことイナサを蝕み、正気を徐々に削っていった。

それをつかの間、忘れてしまう。

自分が水に浸かって、死体になってしまいたいことを。

何十年も消えずにいる想いを、イナサはつかの間、忘れてしまうのだ。

イナサは死体になりたかった。

水の中で息ができなくなりたい。水の底で静かに横たわって、何もできなくなりたい。

この声が、この風のなまえを呼ぶ声がしないところは、水の中で死体になるしかない。

(でも、この音がしないところは、行けそうにない)


「ナライ」


イナサもそうして、自分が選んだひとの名前を呼んだ。

混ざりあうことはできないけれど、離れがたいから、イナサはそっと指先を絡めて手をつなぐ。

それだけでナライは満足そうに微笑み、眠たそうに瞬いた。

「眠いんだろ、もっと寝ろよ。ナライ兄ちゃん。はやく元気になってくれ。俺といいことしようぜ」

ナライが満足そうなだけでイナサはもうどうでもいいか、と小さく笑った。

これからは、きっと名前を呼ばれるだけで満足していればいのだと、イナサは握りしめた指先にわずかに力を込めた。



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