第8話 海の音はしない

その音楽は、滅茶苦茶だった。

だん、と力強くピアノの音が鳴る。

柔らかさの欠片もなく、腕の力で目一杯かき鳴らす。

黒いグランドピアノの前に座った男は、鬼気迫るような表情で腕を広げていた。

どこまでも自在に指を動かし、そして楽譜通りに、曲を奏でていた。

『音楽準備室を使いたいの?ああ、今日はもう借りられているわね』

鍵をかける壁に視線を向けた女教師は、その位置に鍵がないことを確認すると、交代してもらって、と言い放った。

直接そこへ行って、すでにいるひとと交代してほしいと。

だからその言葉に諾々と従って、4個目の音楽準備室に足を向けた。この学校では音楽をしている生徒も多く、部活動以外にも個人で使用することが認められていた。

(無茶苦茶だ)

楽譜通りというのは辛うじて保っている体裁にすぎない。それを楽譜通りというのは少々憚れるほどに、その演奏は滅茶苦茶だった。

強弱も指示も何もかも無視している。

ひどい演奏だ、と言うべきだった。

軽やかなピアノの音が、まるで悲鳴のように泣いている。助けてくれと命乞いをするような慟哭が滲む。

作曲者の意志も意図も、そんなものは知ったことかと言いたげに、何もかも無視をして、彼は自身の激情だけで指を動かしていた。

そうしなければ、息もできないと言うように。

絶叫しなければ、呼吸ができないのだと。

それぐらい滅茶苦茶に指を動かして、ピアノを奏でていた。

彼は何もかも見えていないようにただ音を鳴らす。

教室のドアを開けた音すら拾わない。彼の目の前に楽譜はないのに、そこに黒い音符があるのだと言わんばかりに、すこしも間違うことなく白い鍵盤を叩いた。

自分がピアノと同じ楽器のごとく指を走らせ、彼は絶叫していた。

(こんなのは、ショパンじゃない)

ここまでの演奏を、見たことはなかった。

正しさの欠片もない嗚咽。

感情を体の中からくり抜いたかのような、生々しさ。

(……泣いてるのか、)

あるいは泣きたいのか。

情緒あふれる曲は、もっと違う形の感情を滲ませるものなのだ。

こんな風に、泣き叫ぶようには、作られていない。

と、と男がようやく白い鍵盤から指を離した。

とたんにやってきた静寂で、ようやく彼が楽器ではないのだと知る。彼はピアノの奏者で、彼が指を動かなさなければ、ピアノは鳴らない。

入り口に立ち尽くしたまま、このあとどうするべきなのだろう、と初めて困惑した。

男はぼんやりとした表情になり、疲れたように天井を仰いだ。

先ほどの気迫も凄みもすとんと抜け落ちている。

音楽と一緒に指先から吐き出したように、彼はふー、と息を吐いた。

そしてポケットを探ると、何か箱を取り出した。

それは煙草で、迷うことなく白く細い棒を一本、慣れた動作で口にくわえる。そのままプラスチックのライターで先端に火をつけた。

白いワイシャツに腕まくりをしている姿は、同級生か違うのか判別がつかなかった。それでもこんな演奏を教師がするとは思えなくて、思わず、煙草を吸うな、と口を開いた。

『あー……えーっと……お前は、……そう、腕木だよな。ハハ、なんだよ見てたのか?すけべだな、お前』

そう言って口から煙を吐き出し、彼は立ち上がった。

窓辺に近づいていくと、がらりと窓を開き、窓枠に寄りかかる。

『悪かったな、使う予定だったのか。これを吸ったら出ていくよ』

どうぞ、と手を差し出して位置を譲った男は、煙草を吸い慣れているようだった。

口の端に煙草をくわえる様子は妙に様になっていて、少なくとも、これが初めてでは無さそうだ。

『……煙草は禁止されているだろう』

その言葉に、彼はおかしそうに目を細めて笑った。

『ダメって言われると、どうしてこうも吸いたくなるのかな』

あまり会話をする気はないようで、彼は言うなり、煙草をつまんだ。

ふう、と外に向かって吐き出す男との時間は、その短い煙草が燃え尽きるまでだ。

普段ならば興味を持つこともなかった。

高校生として学校から課された規則と、未成年に強いられるルールを破るような人間だ。そんなのと関わり合いになりたくないと、思うはずだった。

『……ひどいショパンだ』

けれどこのとき、どうしてか、その時間が惜しかった。

燃え尽きるわずかな時間が惜しくて、ついそんな感想をこぼしていた。

『……へぇ?』

どんな風に、と興味もなさそうに問われた言葉に、胸をかきむしられたのは、なぜだったのか。

『……よるの、嵐みたいだ』

閉じた雨戸を殴る風と雨のような絶叫だ。

どう考えても、ショパンを演奏すべきではなかった。魔笛でも弾いていたほうが合っている。

ハハ、と笑った声は、すこしも楽しそうではなかった。

『いかにも、正しい道を歩いてきたやつが言いそうな言葉だよ。どうせ楽譜の指示通り、くそつまらない演奏でもするんだろう?』

自嘲的に口元を歪めた男は、つまらなそうに肩をすくめた。

『自由でいい。音楽くらい。賞だのなんだのと、めんどうくさいことなんてどうでもいいさ。音楽だって好きに弾いたらいい。先人の真似をするだけのコンクールに、一体どれだけの価値がある?』

『……別に価値はないな』

音楽で生きていく予定でもなければ、コンクールで賞をとることに意味などない。

あいにく音楽にそこまで情熱を傾けることなどできず、周りもそれを望んではいない。

だからこそ彼の言う通り、そんなものに価値もなくて、意味も別になかった。

自分の演奏には、きっと価値がない。

その回答に、ハハ、とおかしそうに笑っていた。

(ああ、ほんとうに、おまえは、)

ばしゃり、と冷たいものが降りかかってきた。

ナライは皮膚から温度がなくなったことに気づいて、意識を取り戻した。

寒さに身震いをして、ぱちりと目を開く。

ぽた、と顔を水が滴る感触で、冷たい水を頭からかぶせられたのだと知る。どうやらすこしの間、意識が飛んでいた。

指先と片足がじくじくと痛んできた。体中の殴打は寒さのせいか、あまり痛みを感じない。

ちらりと、うつむいたまま、ひじ掛けに拘束された指先を見やる。

変色した左の指先は、それぞれが針金のように違う方向へねじ曲がっていた。自分の指ながら、人間の指はこうも自在に曲がるのだな、と妙に冷静に観察してしまう。

手から発生した作りかけのオブジェのようだ。

手の甲にはくぎが差し込まれ、だらりと血を流していた。

「……」

『グッドモーニング』

きれいな発音で言われた言葉に顔を上げると、ナライの前には、ひとりの男が座っていた。

廃棄されたような倉庫の中には不自然な、アンティーク調の椅子だ。

彼はひじ掛けのあるその椅子にスーツを着たまま座り、片方のひじ掛けに腕を置き、頬を預けていた。

にこりと、起きたことを喜ぶように、人好きのするような笑顔をして、彼は脱いでいた黒い皮の手袋をゆっくりと嵌め直す。

「気分はいかがですか?」

男は、黒い髪を後ろに撫でつけているものの、動いたせいか少々髪が乱れていた。額にかかる髪を気にした様子もなく、椅子の上で指を組む。

「まあ、いいはずもないですよね。体は痛いですか?」

ナライの様子を見ながらにこやかに問いかけてくる男は、そのちぐはぐさが似合っていた。

倉庫だと言うのに、きれいな椅子に座っている。

それでいて、傷だらけのナライに具合を確かめてくる。

帰宅途中のサラリーマンだと言われてしまえば納得できそうな姿ながら、彼はにこやかにナライの指を折る。

「……具合は、おまえが一番わかってるんじゃないか」

そう言ってつぶやくと、男はおかしそうに笑った。

そうすると、ナライが必要とする男によく似ている。

けれど、ナライがよく知る男はそんな風に退廃的な雰囲気を漂わせていない。甘ったるく笑いかけもしない。

なによりイナサは、こんなことをナライにしない。

ふふ、と男はあまやかに笑った。

「そうですね、指を折られるって泣いて絶叫したくなるくらいには痛いんですよ。そのうち、ああ、これは折れたなっていうのがわかります」

君はよく耐えていますよ、とできのいい生徒を褒めるように、男はそんなことを口にした。

「まだ5本ですから、あと5本も折れれば、骨折したかどうか、痛みで判別がつくようになるんじゃないんでしょうか?」

つぎはこうしましょう、と指導法を口にするのと同じ口調で言って、男は指先をすり合わせた。

「……さすがにいい気分はしない」

目の前の男がまだまだ満足していないのだと思い、ナライは素直に言った。

指先は痛みを通り越して、熱っぽいような感覚しかない。

「君は何も聞きませんね。こんな目にあう心当たりでも?」

ずいぶんと品行方正な人生を送っていますのに、と男は残念がるように首をかしげた。

「聞いたら答えてくれるのか?」

痛みで冷や汗が滴りおち、ナライはその気持ち悪さに顔を歪めた。

ぱち、と目を丸くした男は、柔らかく微笑む。

「もちろん、君は弟の大事な友人ですし」

「心当たりはない。どうして俺にこんなことをする?」

「ここまできてようやくですか?あと折れる指は5本しかないという状態で?」

遅すぎませんかね、と男は肩をすくめた。

「聞いたらやめたのか?」

「君がもう、私の弟に近づかないと約束してくれるならね」

まあ、指一本くらいは折ったかもしれませんが、と平然と言い切った。

弟の友人、という言葉に、ナライは見当がつかなかった。というより、それだけでは見当がつきすぎで絞り込めない。

男はゆっくりと立ちあがり、椅子に拘束されたままのナライの耳元に口を近づける。


「イナサ、と、君は呼びますね」


睦言を紡ぐように軽やかに、そしてどろりと情欲を滲ませるような声に、ナライは目を丸くして顔を上げた。

玻璃のような目は、その情欲に惑うことなくまっすぐに男を見つめた。

「……つまり、あなたがクォイラン、というわけだな」

「……私のウェィツァイはそんなことまであなたに言ったんですか?」

妬けますね、と微笑んだ瞬間、ナライはうぐ、と呻いた。

クォイランが、手の甲に、さらに大きなくぎを差し込んだせいだ。ぎちゅ、と肉を割り開かれる感覚に、背筋にぞわりとした震えが走った。

「やっぱりあなたはとても目障りかもしれません。あ、そういえば指はあと15本でしたね」

まだ足があります、と軽やかに言った男に、ナライはようやくイナサが自分から逃げていた理由が分かった気がした。

ひとを痛めつけようと、この男は顔色ひとつ変えない。

どう考えてもまともに見えない男が兄なのだ。こんな狂った人間がいれば、イナサが自由に生きられないのは当然だ。

(ああ、すごく)

理由がわかって気分がいい。

イナサはやはり、自分がいらないわけでも、嫌いなわけでもなかったのだ。やはりイナサには、ナライでいいと思える。

だから体の異常信号はすべて無視して、笑えそうなくらいナライは気分が良かった。

「イナサが、俺をこうしろと言ったのか?」

念のために尋ねると、クォイランは顔を離して微笑んだ。

「まさか。私の弟は、とてもやさしいのでそんなことは言いませんよ。別に私も気が向いたからこうしているだけですし。そう、今日、じつは忙しくて、観覧車に乗れなかったんですよね」

みなとみらいの、と付け足して、クォイランはナライの手の甲から、くぎを引き抜いた。

ずるり、と金属がすべる感触が直に伝わってきて、体がぶるりと震える。

「私、こう見えても忙しくて。だからちょっと気分が良くないので、ごみ箱を蹴りつけているわけです」

どうせなら有意義なごみ箱がいいでしょう、と口元を弧に描いた男は、同意を求めるようにナライに笑いかけた。

まだまだ夜は長そうで、ナライはうんざりした。

意識を失うのが先か、殺されるのが先か判別がつかない。意識を失っても先ほどのように起こされて責め苦が続くのかもしれない。ナライが死ぬまで。

それでも死ぬという実感はあまりなく、ナライはうつむいてため息をついた。


「兄さん」


暗がりから声がして、ナライはすぐに顔を上げる。

クォイランは顔を輝かせ、そして困ったようにナライを見やった。

かつ、と音を立てて暗がりから姿を見せたイナサは、珍しく泣きそうに眉根を下げていた。

「ウェィツァイ……どうして来たんですか?怒らないでください。これは、その……」

いたずらが見つかったように弁明を始めたクォイランに、イナサは泣き笑いのように笑う。

イナサは、相変わらず笑っていた。泣きそうでも、涙をこぼすことはない。

「イナサ……」

泣き方は、永遠にピアノしか知らない。

イナサは黒い大きな楽器がなければ、叫ぶことも嗚咽をこぼすことしかできなかった。

「怒ってないよ、兄さん。でも、これはちょっとよくないなと思ってさ。そうだろう?俺も仕方ないから、決めることにしたよ。……本当に、兄さん、俺は心の底から兄さんを愛してる。だから兄さんに殺されてしまいたいんだ」

兄さんはいくらでも俺を好きにしていい、とイナサは笑った。

「イナサ!!」

その言葉に、沸き上がったのは怒りだった。

指を折られたことよりも、ナライはその言葉の羅列にはらわたが煮えくり返る。

「本当に」

名前を呼ばれたイナサは、すこし憎々しげにナライを見やった。

「お前はどうしていっつも俺の言うことを聞かないんだ?」

だから俺がこんなことをする羽目になるんだろうが、とイナサは嫌そうに顔を歪め。

「……あ……?」

ぶすり、とクォイランの腹に、ナイフを差し込んだ。

刺されたクォイランは、信じられないものを見るかのように、イナサの顔を見た。

しかしイナサのすこし嫌そうな顔はいつも通りで、ナライにさえ、そこに違和感を見つけることはできない。

その行動には、さすがのナライも目を見張った。

「どうして……?」

「いつかこうなる。そのいつかが、いまなんだよ」

わかってたでしょ、とすこし呆れたような口調で言ったイナサは、ナイフから手を離した。

そしてナライの元へやってくると、足と手に差し込まれたくぎを引き抜く。ずるりと金属が肉から抜けていく感触は、背筋にぞわりとしたものを走らせた。

しかしイナサはそれに構うことなく、ナライに刺さったくぎをすべて抜き取る。

イナサはポケットからバタフライナイフを取り出して、刃をだすと、慣れた手つきで体に巻き付いた紐を切っていった。

「……ウェィツァイ、ウェィツァイ」

だめですよ、と男はイナサの背後で微笑んだ。

腹に刺さったナイフを自分で引き抜き、青白い顔で、にたりと笑う。腹からどぷ、と赤い血が滴ったが、男は気にした様子もなく、手の中でナイフをくるりと回した。そして柄をきちんと握る。

「イナサ!!」

クォイランは、腹から引き抜いたナイフを振り上げ、イナサの背後から襲い掛かろうとした。

イナサは振り向きもせず、黙々と紐を切っていく。

「こんなものじゃ、僕は死にませんよ」

そう言って振り下ろしたクォイランは、がばりと誰かに羽交い絞めにされた。その行動を止められ、クォイランは驚いたように目を丸くする。

しばらく体をばたつかせてから、クォイランは、くすくすと笑い、こてりと首をかしげた。

「ウェィツァイ、どうして……?」

兄さん、とイナサはナライの拘束をすべて切り終わると、ゆっくりと立ちあがった。

イナサの手は赤く濡れていた。べとりとついているそれがナライのものなのか、先ほど刺した男のものかは判別がつかない。

「殺すつもりはないよ。兄さんに殺されてもいい。俺は兄さんを愛してる。本当だよ。兄さんがいなかったら、ナライと会うこともなかったし、高校にも行けてなかったかも。兄さんは、約束通り、俺を迎えに来てくれた」

でもさ、とイナサはうつむきながら、それでも微笑んだ。

「兄さんは、俺がいると穏やかでいられない。俺を殺すこともできない。けれどやさしくすることも、できないんだろ」

だから俺は、こいつを引きずってくよ、とイナサは、ナライに視線を向けた。

「行くぞ、ナライ」

イナサはナライの腕を肩に回すと、ナライを立ち上がらせた。

そのとたんにくらりとめまいがして、ナライはイナサにもたれかかる。

イナサは自分よりも重たいナライを引きずりながら、クォイランを置き去りにした。

彼はくすくすと笑い、子どものように、じあ、とつぶやく。

「私はおそばにおります、坊ちゃん」

『……』

背後から聞こえる声は、ひそやかになり、なにを言っているのかも分からなくなる。

ナライはイナサの肉付きの悪い薄い肩に腕を回してそばを歩いていた。

そうしなければ脚が止まってしまいそうなくらい体が重い。

動くのは少々億劫ではあるものの、あの男の責め苦が続いていくことよりは気が楽だった。

あと指15本分もあの男と過ごしているほうが面倒だ。

「イナサ、たすかった」

「……ちょっと黙ってろ」

体は冷え切っていて、どこをどう歩いているのか、ナライには判別がつかなかった。

室内は真っ暗で、外だということはわかる。廃棄された倉庫か何かかもしれない。少なくとも生活感のある屋内ではなさそうだった。

コンクリートのかたい地面を歩いているものの、ナライの意識はどこかふわりとしていた。歩いているのに歩いていないような、視界が逆転しているような気がする。

ぶおー、と大きな音がして、ナライはようやく顔を上げた。

遠くに、街の明かりが見える。

聞き慣れない巨大な音がなんなのか、ナライにはわからない。

暗い闇夜の中に、街の明かりが輝いている。夜だけが世界に落ちてきて、人工的な明かりが星の代わりに輝いていた。

顔に吹き付けてくる風はぬるく、わずかに潮のにおいが滲む。

「クソッ」

そこでようやく、イナサは悪態をついた。

顔を歪め、心底後悔したように、うつむいている。

ナライが見るイナサの横顔は、ぼやけていた。片目が殴られて腫れているのかもしれない。

イナサは一台の軽自動車に近づくと、助手席のドアを開き、腰からゆっくりとナライを座らせた。

柔らかいシートに座って目の前で立ったままのイナサを見上げると、彼はくしゃりと顔をしかめた。

「ッ、なんでお前はいっつもわからないんだ!!どうして俺の言うことが聞けない!?だからこんな目にあうんだろ!?」

大声を上げたイナサに、ナライは思わず目を丸くした。

「なあ、見ただろ、あれが兄さんなんだ。俺を助けてくれた、俺のたった一人の家族なんだよ」

お前は最低だ、とイナサは歯を食いしばってうつむいた。

「俺に関わるべきじゃない。俺なんか、なんかなあ、慣れてるんだよ、こんなことは。お前と俺は生まれも育ちも違うんだよ!わかるだろそんなこと!どうしてお前はいっつも、俺にこうまで言われないとわからないんだ!」

いつも疑われるのは、俺みたいな人種なんだよ、とイナサはひび割れた声で、笑い交じりにつぶやいた。

「俺と関わるなと言った、お前の母親は正しいんだよ。両親がいないから。施設育ちだから。理由なんてそんなもんだ。ちゃんと養育してくれる親ってものがいないだけで、俺たちは疑われる。教室で真っ先にものがなくなれば、疑われるのは俺だ。いくらまじめに生きようが関係ない。この国で、家族ってもんがいない俺は、一番どうしようもなくて、みじめな生き物なんだよ」

なのにどうして、と悲鳴のように、か細く叫び、イナサは膝をついた。

「どうしてお前はきちんと家族を作って、まともに生きようとしない?俺といたって、どうにもならないだろ。俺はなあ、おまえと一緒の時間生きて、そんで死んでくんだぞ」

それは意味がない、とイナサは言い切った。

「年老いたお前を助けてくれる子どもも孫も、俺といたってできない。お前は普通に結婚して、子どもを抱える幸せがあっただろ。それがお前の正解だったはずだろ。俺は正しくなくても、お前は正しかっただろ」

ああ、とイナサは暗い眼をしながら、片手に頬を当て、困ったように首をかしげた。


「生きることは、地獄だ」


すべてを拒絶するような、それでいて飲み込んでしまうような夜の海に似た黒さで、イナサは可憐な少女のように困った顔をする。

そのちぐはぐさは、彼の兄とよく似ていた。

「……俺はあと何日生きればいいんだ。毎日毎日、もう、うんざりするくらい、俺は数えてる。いつ終わっていいか、いつ兄さんが殺してくれるのか」

「……イナサ、」

ナライは無事なほうの右手を差し出した。

片目がぼやけているせいで、うまく距離感が図れない。頬に触れようとした指先は空を切り、ナライは手を彷徨わせた。

「ナライ」

こっちだと言いたげに、イナサが指先を掴んだ。

指先を握られたままで、ナライは苦笑する。

「イナサ、とりあえず病院に連れて行ってくれ。不便だ」

はあ、とイナサは呆れた顔をして笑った。

「はいはい。そういうやつだよ、お前は」

「俺にはお前の言っていることはわからない。いくら言われても、俺はお前を理解できないと思う」

それはただの事実だった。

ナライはわけも分からず犯人にされる人間の気持ちはわからないし、死にたいと願うイナサの気持ちはわからない。

「でも、ちがうからこそ、俺とお前はそばにいるべきだ」

「お前のその自信はどっから来るんだ?」

自信じゃない、とナライは否定した。

これもただの事実だとナライは思う。そこのところはイナサと一致していないが、それでもイナサはナライといるべきだった。

イナサはナライから離れると、助手席に座らせ、自分は運転席に乗り込む。エンジンをかけたイナサに、ナライはダメになっている現代アートのような手を持ち上げた。

「とにかく不便だ。お前に触れられない」

「はいはい、とりあえず知り合いの医者のところに連れて行ってやる。中華街ならどっか空いてるだろ。普通の病院には行けないしな、それ」

そうだな、とナライはうなずき、シートに背中を預けた。

ナライはイナサがわからない。それでも彼が必要なことだけは確かで、そのことだけはイナサも理解しているはずだった。

「イナサ、愛してるより、必要な言葉がわかった」

「なんだよ」

エンジンをかけたイナサが、ゆるりと車を動かす。ライトをつけ、道を進みながら、観光地や見覚えのある建物が車窓に映る。


「俺は、お前を殺さないが、心中してやる」


信号が赤になり、イナサはゆるくブレーキをかけた。

「……」

大きく目を見開いたイナサは、言葉を探して、そしてポケットから煙草を取り出す。

「……お前はほんと、かわいくねえよ。どうしてそういうことばかり言うんだ?」

口にくわえてライターで火をつけると、煙とため息をこぼした。

「だから俺も、お前を選ぶしかなくなるんだろうが」

イナサはナライの口に煙草をくわえさせると、適当に吸っとけ、と言った。

「それで痛みもすこしはマシだろ」

ナライは久しぶりにくく、と喉を鳴らして顔が痛くなるほどに笑い、煙草をくわえた。


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