第7話 覚えるものを間違った
「~~♪」
ポロン、とわずかに音を鳴らしながら、イナサは小さく歌を口ずさんだ。
中国語の恋慕の歌は、妙にピアノが合う。あまりロック系の歌は流行らないのが不思議だとイナサは白い鍵盤の上に指先を滑らせた。
(そういえば、クライスラーも好きだったな)
しんみりとした曲調のせいか、物悲しい雰囲気のクラシックを好む男を思い出して、イナサは小さく笑う。
ナライはショパンの曲が良く似合う。
軽快な音の中に、どこか病魔に侵されたような孤独がある。ひとり窓辺から外を眺めるような、体のままならさを嘆くような苦しみが混じっている。
ピアノの曲が多く、ヴァイオリンには向かないショパンを、ナライはよく聞いていた。
(……俺がいなくなったあとも、ナライはショパンを聞いたのか)
ピアノの詩人と言われるくらいの情緒的な音楽の中に、さみしい冬の中で立ち尽くすような厳しさがある。イナサはショパンを弾くとき、いつも冬のように凍えた寒さを感じる。夜にひとりで風に吹かれるような、甘やかで軽やかな音の中に、ひとりぼっちの孤独が孕んでいる。
宮廷音楽の前身、サロンの華やかさと孤独にまみれた情緒の重厚感。栄華を極めた王族たちが好んだ音楽になるワルツは栄枯盛衰だ。失われた栄光は、今もなお、こうして音だけ人々に伝えられている。
音楽は不思議だ。
独自の言語で、それに触れる人間にしかわからないようになっている。五本の線と、不思議な黒い球体の塊が、知る人間には雄弁な言葉だ。音楽に触れている人間は、世界のどこでも独自の言語で会話をすることができる。
指先で白い木の先を跳ねながら、もったいないと改めて思った。
イナサがピアノを覚えるべきではなかった。あの軽いヴァイオリンこそ、イナサが覚えるべきだった。イナサが手にすることができていたなら、持ち運んであちこちで演奏できていただろう。
そしてナライこそ、ピアノを弾くべきだった。
あの男がピアノを弾くのはきっと様になっただろう。きちんと座って、姿勢を正して、規則正しく指先を滑らせていく姿は、きっと美しい。
そうしたらイナサは、ナライがどんなふうにショパンを弾くのか、知ることができた。
イナサはピアノではなく、ヴァイオリンを覚えるべきだった。いつでも歩いて行けて、どこでも行けて、どこでも弾ける。そんな楽器がイナサには合っている。
ピアノなんてものを覚えてしまったから、イナサはいつも逃げ足が一歩遅い。こうして大きくて黒い楽器を前にして、座り込んで音楽を奏でているから、必要なときに逃げられない。
(クライスラー、ラフマニノフ、愛の悲しみ)
クライスラーは愛の喜びもあるのに、ナライはなぜか愛の悲しみを好んでいた。
(くらいやつ)
ふ、とイナサは笑う。
同じようなもの哀しさでも、ジョージ・ガーシュウィンはあまり好みではないらしい。
代表的なラプソディー・イン・ブルーは特にさみしい雰囲気の曲だ。ビルが立ち並ぶ状態を作り上げていくニューヨークの隆盛の時期に作られた。
ラプソディー・イン・ブルーは、アメリカの湿度のない寒さを思い起こす。
そこにナライはいない。
湿度の多くて寒さで身を縮めるような空気はなかった。そこでは聞き慣れない言葉が飛び交っていた。
そして、どこを見渡しても、『イナサ』と呼んでくれる仏頂面の男はいなかった。
高校を卒業してすぐの海外での生活を思い起こし、イナサは曲を弾き終えた。
弾き終えたとたん、ぱちぱちと拍手が沸き起こった。
(え、あれ)
拍手に我に返り、慌てて周りを見渡す。
すると店内にいた客たちは、一様にイナサを見つめていた。心なしか、客が増えている気がする。
(あー……)
カウンター越しで冷ややかな目を向ける男が、客の多さにイナサの許しているような顔をしている。
うっかり考え事をしながら弾いていたせいで、思うより演奏に熱が入ったようだ。
イナサはにこやかに笑うと、立ち上がって礼をした。
顔を上げてカウンターを見やると、カウンターを挟んで立っている店主の男のそばに金色の髪をした男が座っていた。
彼は店主とは正反対に、満足そうに目を細めて拍手をしている。穏やかに笑う顔に、イナサはぱっと顔を輝かせ、彼の元へかけていく。
「化野!どうだった?俺のピアノ」
久しぶりだとカウンターバーに座る男の肩を叩くと、化野はそのしぐさに小さく笑う。
「どうって、えーっと」
いい年だというのに彼は高校の頃からの子どもっぽさを隠さない。イナサは幼い子どものように言葉を探す友人の髪を撫でた。
素直に感想を口にすべきかどうか迷っている姿は、すこし大人になっているかと思う。
(別に気にしなくていいのにな)
どうせ、よくわからないと素直に口にしようとしているのだろう。
そしてそれは普通の人間の感想ではないとわかっているから、どういうべきか迷っている。
イナサが撫でた髪はわずかにべたついており、イナサは化野の首元に顔を寄せた。すん、と鼻を近づけてにおいを嗅いで、ようやくイナサは体臭がわかる。
あまったるいような体臭に、イナサが顔を上げてにやりと笑う。
そうすると、化野の瞳の青さが増した。
「なんだよ、三日ぐらい風呂に入ってないのか?照れるくらいならきちんと風呂に入って身だしなみを気にしろ。お前は本当に顔がいい癖に、ものぐさだな~。そういうところもかわいいけど」
よしよしとこめかみにキスをすると、化野は恥ずかしそうに目を細めたものの、イナサを退けはしなかった。
「……うっさいよ」
化野は髪を抑え、口の先をとがらせてそうつぶやく。
嫌そうな顔をする友人に、イナサはくすくすと笑って、後ろから抱き着いた。
「化野~俺はちゃんとお前が好きだし愛してるぜ?まったくかわいいやつだよ、お前は。俺に言われたくてしてるんだもんな。記憶力のいいお前が、俺と会ったらどうなるかわからないわけないもんなあ~よしよし、兄ちゃんにあまえていいぞ~」
ぐりぐりと頬を擦り付けると、化野は困ったようにイナサを見上げた。
その言葉に素直にうんと言えない男は、言い訳を言うために口を開いた。
「……ほんとうっさい。忙しかったんだよ」
「忙しいわけないだろう?お前は忙しくしているだけだ。世界は簡単なんだから、難しく考える必要もない。手加減してでも人間と関わり合いたいなんて、お前はやさしくて正しくてかわいいな。その慈悲深さ、俺にはないものだ。聖職者向きだな。汝、隣人を愛せよ、と」
だが神は、人に罪があるとし、どうしようもない生き物だと烙印を押した、とイナサは笑う。
「まったく神とやらも相いれない生き物だよ。そう思うだろう?父親の横暴さに似ているよ。その決めつけ。ああ、神を生き物と言うと怒られるかもしれない」
「相変わらずだな、イナサ」
カウンター越しに佇んで洗い物をしていた店主は、すこし冷ややかにイナサに声をかけた。
イナサはその冷ややかさにも笑みを浮かべ、ああ、とうなずく。
「お前も相変わらずだよ、城ノ戸」
城ノ戸は無表情にイナサを見やると、洗い終わった食器を片付けに立ち去った。
イナサは笑い声をあげて、嫌われてるなあ、と化野の隣のカウンターチェアに腰かけた。
「……僕にはわからないな。なんで城ノ戸はイナサが嫌いなのか」
化野はイナサに自分の分の水の入ったグラスを差しだした。彼はすでにアイスコーヒーを頼んでいたようで、自分の前に氷の入った黒い液体が置かれている。
「なんだ、そんなこともわからないのか?嫌う理由ならわかるだろ?俺はわかるぞ。相変わらずお前ってやつはおこちゃまだな。お前が俺を好きだからって、みんなおんなじだと思うなよ」
「はあ?」
信じられない、と言いたげに、化野は顔をしかめた。
いつもイナサのように笑うようにしている化野の頬を、イナサは指先でつついた。
演奏をしていた指先はわずかに熱を持っている。そのことにようやく気づいたイナサは、化野から差し出された水を口にした。
「……嫌われてる理由がわかってるのに、直さないの?」
「なぜ直したり隠す必要がある?俺はそんなめんどうなことはごめんだよ。やりたくないことはしたくない。俺の世界は別に簡単じゃないからな。やりたくないことまでしていたら、息が詰まって年老いてすぐに死んでしまう」
くすくすと笑うと、とん、とイナサの前に水の入ったグラスが置かれた。
イナサが顔を上げると、城ノ戸は厳しい顔をしながらも、店員としてのもてなしをしていた。彼の律儀な態度に、イナサは目を丸くしたあとに笑った。
「わかってるなら、直したらどうだ?」
城ノ戸のその言葉は忠告のようで、イナサは頬杖をついて肩をすくめた。
「分かり合えなくても友達でいいだろう?俺はお前が結構好きなんだよ、城ノ戸。俺の演奏を寂しげだと言ったときから。俺はやりたくないことはしたくないし、しない。時間はそんなにたくさんないからな。したいことしかしないよ」
ふん、と城ノ戸は鼻を鳴らすと、億劫そうに注文は、と尋ねた。イナサがにこにこと笑っていると、城ノ戸はあきらめたように息を吐き、また立ち去っていく。
「ジョーさんをあんな態度にさせるのは、イナサくらいだよねえ」
化野がしみじみと言うので、イナサは小さく口元を曲げた。
「特別ってことか?」
「イナサがね」
その言葉に笑って、イナサは化野からもらった水を飲み干した。
「それと、花ヶ島の件はありがとう。すぐに一軒家見つけてもらって助かったよ」
イナサは化野に言われ、高校の友人の休職のために急遽、鎌倉近くに一軒家を用意した。そこで精神を病んだ友人がすこしの間療養していたのだ。
「ああ、まあ、仕事のものを使っただけだからな。あんまり気にしなくていい。俺とお前の仲じゃないか。俺もいつも助かってるよ、化野。それに花ヶ島は、俺にとっても友達で、いい取引相手だった」
ま、今回もだめだったけどな、と肩をすくめると、化野は驚いたように目を瞬かせた。
「え、ナライに見つかったの?」
「まあな。でも最近は俺も悪かった。お前にも連絡してなかったし、あんまり本気で隠れる気がなかった。兄さんの仕事で横浜に戻ってきていたのもあったし、時間もたってて、油断があった」
イナサが隠れるのに協力してくれる化野は、驚いたように目を丸くした。言葉の通り、あまり協力も仰がなければ、もう大丈夫だろうと、イナサはなぜかそんな風に思っていた。
イナサは差し出された自分用の水の入ったグラスに口をつけ、違和感に眉根を寄せた。
舌先がしびれるような、びり、とした感覚がある。
何かが入っているとわかるものの、グラスの中身は透明で、イナサには判別がつかなかった。
これだからナライと過ごすべきじゃないんだ、とイナサは肩を落とした。
「どうしたの?」
イナサのしかめっ面に、化野は不思議そうな顔をした。
「ああ、やっぱりナライに俺は必要ないなと実感しているところだ。どうしてかな。あいつ、結婚までしてたんだよ。それなのに、どうしようもない理由で離婚しちまっててさ。家族が作れないんだ、体の問題で」
言葉にしてから、ナライに降りかかる不幸に、イナサはどうしようもなくやるせなさを覚えた。
「それはまあ……ますます、イナサと一緒になってもおかしくないね」
ふざけんな、とイナサは吐き捨てた。
化野の前に出ている煙草の箱を手にしてから、中身を取り出そうとして、ここは禁煙だよ、とたしなめられる。
「だめって言われると余計に吸いたくなるよな、煙草って」
「君は高校の頃からそう言ってる。大体、普段吸っているものは、僕と銘柄違うだろう?」
「俺はなんでもいいんだよ。煙のうまさを知らないからな。葉巻なんて吸ったら頭がくらくらする。ああ、お前はいま、恋の余熱でくらくらしてるところかな?」
そうして煙草を箱に戻して指先で弾いた。
煙草の箱を化野の前に戻し、イナサはにやりと笑う。
「二染旋くんだっけ?ずいぶん若い子を捕まえたな。かわいい子だった。俺にも会わせてくれよ、化野。お前から紹介して、友人か知人にさせてくれ。お前が好きになって、とても手加減をしている相手なんだろう?ぜひ会わせてくれ」
化野は嫌そうな顔をして、そして案の定、いやだよ、と口にした。
イナサは理由が分からず、なんでだ、と目を丸くして化野の後ろ頭をなでる。
「というか化野、好きな子がいるならなおさら、きちんと身だしなみには気を遣わないとだめだぞ。顔がよくても、くさいにおいをさせていたら百年の恋も一瞬で覚める。ユーミンも歌ってるだろ?どうでもいい格好のときに、元カレに会うんだよ。気を抜いているときこそ、因縁の相手に会うものだ」
「……いいんだよ、僕いま、ひと月以上、家に寄り付かないようにして、めぐるくんに会ってないんだ。だから、君が直接会うのも禁止だし、めぐるくんに関わるな。関わったら、いくらイナサでも、ひどいことするからな」
ぎろりと、彼にしては威圧的にイナサを青い眼でにらんだ。
イナサは目を丸くして、化野の言葉を飲み込んだ。
グラスの水に口をつけ、付き合ってと申し込みはしたものの、好きとも言わずに放っておいている普通の青年のことを考える。
というよりは、化野の思考のほうがわかりやすく、イナサはとんとんと指先を机の上で叩いた。
「ああ、なんだ、彼に好きになってもらいたいのか?自分と同じくらい?」
その言葉を口にしたのと同時に、かたりとアイスティーがイナサの前に置かれた。
城ノ戸はむっつりとした表情で、演奏代だ、とつぶやく。
また食器を洗い始めた城ノ戸に、イナサはありがとう、と笑って、氷の入ったグラスをストローでかき混ぜた。
「ハハハッ!おいおい化野クン、そんなかわいそうなことはやめてやれよ。それは愛想尽かされるのと紙一重だぞ。わかってるのか?お前の愛は基本的に、他人には耐えられるものじゃない。自分ことを考えてほしいからとお前のことをちらつかせながら自分の家に閉じ込めておくなんて、そんなのは狂人のすることだよ」
お前と同じなんて、普通の人間は無理だよ、とイナサはからりとストローでアイスティーをかき回してから啜った。
「……わかってるよ」
子どものようにそっぽを向いた化野に、イナサは首を振った。
「いいや、わかってない。化野、そんなことじゃ殺されないぞ?やるならもっと壊すまでやるか、すべてを肯定して自由にしてやらないとな。それができるだろう?お前が真に愛して愛されるために、同じだけの熱量をぶつけてもらうためには、もっと壊さないとだめだ」
「……同じでなくてもいいんだよ、僕は」
化野はそっぽを向いたまま、そう零した。
「僕は長いことこんなことをする気はないよ。適度なところでやめないと、イナサの言う通りフラれて嫌われて出て行かれちゃうもの。僕がすごく好きだってことだけ伝わって、僕をそれなりに好きだって自覚してくれればいい。そばにいてくれればそれでいいよ」
イナサは目を丸くして、意外だ、とつぶやいた。
「欲がないな。いつもの強欲な怪物はどこにいった?お前の好奇心は、いつだって怪物じみていただろう?」
イナサ、と呼びかけた化野は青い眼で、じっとコーヒーの黒さを見つめた。
「僕は、ナライの気持ちがわかるようになったよ。好きな子には、そばにいてほしいもの」
ねえ、と化野は、イナサのほうを向き、首をかしげた。
「どうしてイナサは、ナライから逃げるの?イナサは、ナライがきらいなの?」
子どものように疑問を口にした化野に、イナサはおかしくなって笑う。
「おいおい、おこちゃま。どうしていまさらそんなことを聞くんだ?そんなことは、ずっと前に教えてやっただろう?俺はナライを愛してるよ。世界で一番な。あいつが幸福であってほしいし、あいつには苦しんでほしくない。すこしもな」
「じゃあどうして逃げるの?」
「愛してるからだろう?」
わからないよ、と化野は久しぶりにその言葉を口にした。
「僕はめぐるくんを逃がしたくない。逃げるなら、周りの人間ぜんぶ殺してもいい」
ハハハ、とイナサは声をあげて笑い、化野の頭をなでた。
「だめだよ、化野。お前はやさしくしたいんだろう?それだけ慈悲深いんだ。聖職者のようであれ。聖職者はそんなことは言わないしやらないよ。そのまま熱量を求めないなら、お前はただ好きになってもらって、手加減しながら愛することを許してもらえ。壊すことを選ばないならな」
「ナライだって、同じだろう?」
化野と同じように執着を見せるだろうという言葉に、イナサは苦笑して、からからと音をたて、アイスティーをかき回す。
「同じじゃないだろ。あいつはちっともかわいくない。俺の言うことなんざ聞きもしない。お前のほうがかわいいよ。ナライはでかいしうるさいし、すぐに俺を引っ張る。あいつとは何もかも、俺は違うんだ。生まれも育ちもな。俺はあいつのそばにいないほうがいい」
「でも、好きなひとと一緒にいたいでしょう?」
いいや、とイナサは首を振った。
「いたくなんかないな。ナライは、俺の知らないところで、別の誰かと結婚して家族を増やして、それで死んでほしかった。ま、家族は増やせそうにないし、結婚もパアにしたけどな、あいつ。どこまでも俺の言うこと聞かねえよ」
おまけにイナサを探し出して見つけるし、イナサがいなければ生きていけないと言う。
(本当に、なんの間違いなんだ?)
ナライはイナサがいなくなったあと、体調を崩して倒れたという。
そんなはずじゃなかったというのは言い訳だ。
そうなることぐらい、すこし考えればイナサはわかったはずだった。
イナサがニューヨークで、ナライの姿を探すように。
ナライが探して、それに耐えきれないことくらい、わかるべきだった。
「……化野、俺はうれしいよ。お前がきちんと愛をわかってな。きっとそのうち、フリッツ・クライスラーの感想を口にできるようになるさ。俺のおすすめは愛の悲しみだけど、愛の喜びのほうが有名だから、聞いたことはあるかもな」
化野は困惑したように青い眼をイナサに向けた。困り果てた子供がすがるような目に、イナサは穏やかに微笑む。
「化野、お前ならわかるだろう?俺は、本当にナライとは育ちが違うんだ。そのことを誰よりもよくわかっているのは俺なんだよ。俺は両親がいないし、高校生まで施設で育った。兄が迎えに来てくれなければ、化野と出会うことすらなかったよ。そういう人間なんだ、俺は」
イナサが席を立つと、化野は腕を伸ばして肩を抱いた。
「……またどこかに行くの」
化野はイナサの肉のついていない薄い肩に頬をすり寄せた。
さみしがりで好奇心が旺盛で、好奇心の赴くままに動く子供は、いつも素直にイナサに縋りつく。その姿はかわいらしいし、やっぱりナライにそんなものはないとイナサは思う。
「しばらくは日本にいる。大丈夫だよ、お前はきちんと人を愛せる。怖がらなくていい。段階を踏めば大丈夫さ。お前だって、長く放っておいたらだめだとわかっているじゃないか。俺はいつでもお前の味方だよ、化野」
たとえ壊れても大丈夫だ、とイナサは化野の肩を叩いた。
「お前は、それでもかわいそうになった生き物を大事にできる。それだけお前はやさしい人間だ。でもそうならないように頑張ってるだろう?俺はよくわかってるよ」
言い聞かせるように肩をなでると、化野はようやく手を離した。
「……ありがとう、イナサ」
「いいんだよ、気にするな、化野」
「イナサ、じゃあお礼に言っておいてあげるよ」
店から出ようとしたイナサに、化野は青い純粋な目で、告げた。
彼の眼は基本的には藍色だ。日本しか出せない美しい濃紺の古代色。植物からとれる美しい瞳は、西洋人のように感情で色味を増す。
「君はナライを選ぶことになる」
その予言じみた言葉に、イナサは苦々しく笑った。
「余計なことは口にするもんじゃないぜ、おこちゃま」
「僕のこれは、未来視に近いよ」
わかっているというのにわざわざ口にした化野に、イナサは笑った。
「だからだよ。口にすることは、気をつけないとな。望むと望まないと、それがどんなことであれ、現実になるかもしれない」
じゃあな、と手を振って、イナサは友人たちのいる店をでた。
会計は化野に任せ、イナサは店外に出てから、ぐ、と体を伸ばした。
(さて、ナライは仕事だし、俺は逃げる算段でもするかな)
ナライの家から服を拝借してきたイナサは、服のサイズがあっていない。
仕事に行くナライを見送ってから、イナサはナライの家から逃げてきた。ナライはイナサの服をすべて水につけてサイズの合わない服ばかりよこして、逃げられないようにしていた。
だが、そんなことでぴいぴい泣いて、そのまま閉じ込められているイナサではない。
勝手に服を拝借して、ズボンだけは外で買った。しかもナライから拝借したお金で。
とりあえず家に帰ろうかと考えたあたりで、店の向かいにいる男に気づき、にっこりと笑った。
『やあ、ジア。一人か?』
「……日本で、外国語は目立ちます」
油っ気のない髪を後ろで一つに束ねた美麗な男は、そうして非難じみた声を上げた。
イナサはへらりと笑い、煙草をくれ、と手を差し出す。
「路上喫煙は禁止です、このあたりは」
「昨今はどこもかしも禁煙で、喫煙者の肩身が狭い。兄さんも苦労するだろうな」
そう言って肩をすくめると、ジアはぼんやりとしたまま、声もなく息を吐いた。
「……一人は珍しいな、ジア?」
いつも兄の付き人をしている男に、ジアはあなたを迎えに、と返した。
「クォイランは、年下の少年と遊んでいるところなので」
「また愛想尽かされたのか?」
いいえ、とジアは首を振った。
「……あなたに手を出す友人の、弟と仲良しでして」
ジアはそう言って、ちらりとイナサに視線を向けた。
「ご友人、きちんと体が動くといいですね」
その言葉に、イナサはごそりと顔から表情を消した。
(あぁ)
やっぱりイナサは、食べ物の味も何もかも知らぬまま、死んでおくべきだったのだ。
ピアノが弾けるだけで満足して、はやく死んでおくべきだった。
(だから、口にしたらいけないんだ)
イナサはナライを愛している。
だから死んでしまいたい。
そしてナライは、イナサのいないところで生きて、家族を作って、死んでいてほしかった。
「……俺が兄さんを選ばないと思ってる?」
ジアにそう尋ねると、彼は首をかしげた。
そしてわずかに顔を曇らせる。
「クォイランとあなたは、近くにいないほうがいい。お互いに。クォイランは、あなたがいると穏やかでいられないし、こういうことを、する」
イナサは、はーと息を吐いた。
「……そうだな」
わかってるよ、と口にして、イナサは家へ帰ろうとジアに背を向けた。
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