第3話 ワインはまだ飲まない
「このトマト、随分甘いですね」
「ああ。うまく実をつけてくれたよ。かなり実を厳選して間引きしていたんだ。お前はあんまり食べないから、一度にしっかり味わえるのがいいだろ」
押しかけ眷属希望であるシュタインは、しなくていいといっているのに、家の管理から料理、はては研究に没頭する僕の健康管理まで甲斐甲斐しく世話してくれる。執事っていうのがいたらこんな風だろうか、と思えるくらいに。
いや、こんな美しすぎる執事がいてどうする。むしろ彼の微笑みひとつのために、命を懸けてでも尽くそうとするものたちは、いくらでもいるだろう。
「あんま無理して食べ過ぎるなよティエル。これはあくまでオレの趣味なんだから」
「いえ、シュタインのつくる料理は本当においしいですよ。まあ、僕にとっては、確かに不要ですが」
吸血鬼なので、主食、というか人の血液があれば事足りる。こうして食事をとれるが、ただの真似事。完全に娯楽だ。
だから食べ過ぎるといらないものをつめこみすぎた身体は、少し体調が悪くなる。なので、シュタインはあくまで自分のついで、というていで少量だけ僕の分を用意する。
トマトばっかりなのは、かたくなに血を飲まない僕への嫌味を感じるが。
「ところで、ティエル」
「うん、なんですか? このパスタも美味しいですよ」
「さっきお前の机の上で、これを見つけたんだが」
そういってシュタインが取り出したのは、金色の縁取りがされた手紙。
大魔女からの、ティーパーティーの招待状だ。
一転。もともと血の気のない肌が、青ざめるのがわかる。
「魔女たちの集会だよな。それで『使い魔ないし従者は一匹ないし一人まで許可』とあるが」
薄紅色の唇が、意地わるげに片端だけ持ちあがる。
しまった。机に放りだしたままだった。部屋に残ったシュタインがそれを見る可能性はあったのに。動転して隠すのを忘れていた。
「そ、れは! まだ、参加するとは、決めて、いないので」
「だが大魔女殿からの招待状だろう? 参加しない、はムリがあるだろう?」
「……だとしても、シュタインは、僕の使い魔、では、ありませんし」
「従者枠でいいさ。なあ、ティエル」
天使のようで悪魔の微笑を浮かべる、目の前の男。
「――オレの顔は、大魔女殿や他の魔女たちに、きっと気に入られると思うんだが、ティエルはどう思う?」
喉がひりついて、言葉にならない。
シュタインはわかってて、聞いているのだ。
珍しいもの、面白いもの、なにより美しいものを好み、憎悪する魔女たちが、シュタインの美しさに惹かれないわけはない。
シュタインがいるだけで、今まで渋って教えてくれない秘薬のレシピだって教えてもらえるかもしれない。
いや。むしろ。
大魔女殿はシュタインの存在を知っていて、招待状を僕に送ったのかもしれない。
――眷属にする方法は簡単だ。相手の血を飲み、そして自分の血を与える。
そうすれば人の理を外れ、吸血鬼に限りなく近しい存在になる。ただし、眷属化はあくまで血を与えた吸血鬼の所有物になる。
完璧な吸血鬼になるには、一族に迎えられるためには、始祖の血を引くものの祝福が必要だ。
――そして大魔女は、始祖の血を引く、吸血鬼だ。
「なあ、ティエル。オレはこの茶会に、オレを連れて行ったほうが、きっといいと思うんだが」
コツ、コツ、と鳴るシュタインの靴音、
少しずつ、ティエルに近づいてくる。
それにつられて、感じる、香り。
「だが――もしかしたら、他の魔女や吸血鬼が、気まぐれに、オレを使い魔や、眷属にしてくれるかもしれないだろう?」
芳醇なのに、どこか儚くて、今にも消えてしまいそうな、思わず追いかけてしまいたくなるような。
そして、気づけばこちらが虜にされてしまう香り。
一度味わえば、きっと、戻れなくなると、警鐘が鳴るのに。
手を出さずにはいられない――美味しそうな香り。
この香りを感じ取った他の吸血鬼が、大魔女が。
シュタインを、欲しがらないわけが、ない。
「なあ、ティエル」
優しく問いかける声。
固まって動けない僕の頬に、大きな手がかかり、顔を持ち上げられる。
シュタインはゆっくりと自分の首を傾ける。
白い肌を滑る黒髪。露わになるうなじ。
――その肌の下には、この香りを持つ血が、巡っている。
「――オレが、他の誰かのモノに、なってもいいのか?」
黒い、闇のような瞳が、じっと見つめてくる。
――他の誰かに譲る前に、自分のモノにしてしまえ、と誘ってくる。
ああ、と漏れたのは、声か、吐息か。
ふらり、と頭が動く。大きな手は導くように頬に添えられたままで。
首筋に近づけば、絡みつく香りは強くなって。
自然と唇が開いてしまう。
吸血鬼の象徴の牙が、剥き出しになる。
――肌に牙をたてて、少し力をいれればいいだけ。
――ひと噛みすれば、この香りは、血は、自分のモノになる。
きっと、それは、理性を失うほど、美味しいだろう。
予感ではない、確信。
そして――独占したくなる。
自分の血を与えれば。
そうしたら、シュタインは。
人間じゃなく――自分だけの、唯一の、存在になる。
シュタインの体温があがったのか、ぶわり、と芳醇な香りが一気に濃くなる。
ワインを浴びたように、一瞬、クラリと意識が飛んで。
牙の先端が、肌に、触れた。
は、と、自分のものじゃない、シュタインの吐息が、落ちてくる。
その時。
ぎゅっと手を強く握りしめた。
「――……ッ、だ、め……です!」
グイっとがむしゃらにシュタインの身体を押し返す。
はあ、はあ、と息が荒い。あと、手が痛い。
握り込んだ手には、持ったままだったフォークがあった。
握りしめた時に手に突き刺さり、その痛みで理性を取り戻せたのだ。
「……僕は、あなたを眷属に……吸血鬼にする気は、ありません」
必死に言葉を紡ぐ。
珍しく呆然としていたシュタイン。だが、すぐにいつもの、からかい顔で笑ってくる。
さっきの蠱惑的な笑みとは違う、意地悪な、いつものシュタインの笑い方。
「残念。今回はいけると思ったんだがな?」
「これでもあなたより年上ですからね。そう簡単にいくとは思わないでください……っつう」
思ったより鋭利なフォークは肌を突き破って、逆に僕の血が浮き出ている。
「じゃあ、そうだなあ……その怪我、手当てしてやろうか? 舌で」
べえ、と挑発するように見せてくるのは、濡れた赤い舌。
かあっと、低いはずの体温が熱くなった気がする。
「――ッそうやって、僕の血を飲もうとするのも、ダメですよっ!」
「ワガママだなぁ、ご主人様。それにこっちが勝手に飲んでも眷属化するわけでもあるまいし」
「主人じゃありませんし、そういう問題でもないです! ああもう! 部屋に戻りますから!」
ムキになって、ガタガタと大きい音を立てながら私室に向かう。後ろであからさまにため息をついているのがわかったが、振り返らない。
部屋に戻って、きちんと鍵をかける。
ホッとした瞬間。力が抜けて、床にへたりこんだ。
「……危なかった」
かなり危なかった
もしも。理性を取り戻せなかったら。僕は。
きっと、シュタインを。
ゆっくりと息を吐き出す。
シュタインは、美しいけど、かなり意地悪で、からかってくることもしょっちゅうで。
そのくせ、やけに面倒見がよくて、細かいところに気をくばって。
ずっと一人だった僕に。熱とは無縁の吸血鬼に。
ぬくもりを、教えてくれた存在で。
触れられていた頬を撫でる。そこに残る熱を探すように。
「だから……僕は、シュタインを……吸血鬼なんかに、したくない」
こんな風に。
『美味しそう』と思ったら、どんなに大切に思っていても、理性をなくす醜い存在に。
吸血鬼である自分が大嫌いだ。だから。
シュタインを、同じにしたくなかった。
掌が、ひりっと痛む。
フォークでできた傷から、ぷくりと己の血が浮かんでいる。
ふと、なんとなく。
その血を舐めた。
「……まずっ」
やっぱり、こんなまずい血をシュタインに飲ませるわけにいかない。
だけど。
あとどれくらい、あの瞳の誘惑に、抗えるだろうか。
とりあえず、今日は寝てしまおう。
きっと。後で毛布をちゃんとかけろとか、怒られるんだろうけど。
ベッドに疲れと一緒に沈み込んで、目を閉じる。
部屋の中には、ふわりと、薔薇の残り香がした。
そのワインは、まだ飲まない コトリノことり(旧こやま ことり) @cottori
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