白えんぴつ

香久山 ゆみ

白えんぴつ

「あ!」

 と思った時には遅かった。まるで吸い込まれるように、私の体はその絵に引き込まれていった。


 昔から不器用だった。

「だから白は塗り残せばいいんだって」

 黒崎くんが呆れたように言う。

「うん、わかってる」

 そう答えながらも私は色鉛筆の白色をシャッシャッと紙面の上に滑らせる。もう何度目の指摘だろう。納得していないから私は手順を変えない。けれど、反論する程の強さもない。

「……意外と頑固なんだよなぁ……」

 たった二人きりの美術部員の一人である黒崎くんは、溜息をついて自分の絵に向き直った。

 もともと十人いた美術部員は、黒崎くんが入部して皆辞めてしまった。不良の黒崎くん。そう恐れられている人だから。一匹狼で無愛想、授業中はいつも寝ている、深夜徘徊、休日には繁華街に入浸っているとか、他校生を百人病院送りにしたとか、ヤクザの息子だとか、そんな噂が囁かれる。唯一私が美術部に残ったのは、絵が好きだからでも、黒崎くんを信じているからでもない。ただ逃げ遅れたのだ。一人抜け、二人抜け、最後に残った私まで辞めてしまうと彼を傷つけるのではないか。ちらとそんな考えが過ぎり、タイミングを逸してしまっただけだ。

 けれど、残ったことで知った。黒崎くんはとんでもなく絵が上手い。美術部で彼が最初に完成させた絵の前で、「すごい」と呟いたきりぽかんと口を開けたまま立ち尽くした私を見て、黒崎くんは満更でもなさそうにはにかんでいた。水彩絵の具で描かれた澄んだ海、満天の星月夜、沖で小さく灯台のような光を放っているのはコンビニエンスストアだ。対峙すると吸い込まれてしまいそうな不思議で美しい世界。今まで見てきた同級生たちの絵とはレベルが違う。中学生でこれほど精密で豊かな表現ができるのかと、ただただ息を呑んだ。

 幼少期から絵が好きで、休日には美術展や画廊に繁く足を運んでいるらしい。夜の風景を好み、深夜まで絵筆を握る。お父さんは運送業で、時々トラックに同乗して遠くの景色を描きにいく。絵を描くきれいな指は人を殴ったことなんてないに違いない。それに案外お節介。

 隣で絵を描いていると時折アドバイスしてくれる。

「白は塗り残せばいい」とは何度も言われた。黒崎くんだけでなく、顧問の先生からも言われた。色鉛筆や水彩絵の具で描く場合、白い部分は塗らずに画用紙の白をそのまま残せばいいという。白は透明じゃないからとか説明もされたが、私はまるで納得できない。私の作品なのに私の手が加わらない部分があるなんて。完成した気がしない。それに、塗らないのなら、白い色鉛筆や絵の具は一体何のために存在するの?

 そうして躍起になって白鉛筆で余白を埋めるのに時間を費やし、公募の出品期限までに完成しないこともしばしば。だから黒崎くんは何度でもアドバイスしてくれる。けれど、かくいう黒崎くんの作品も大賞などに選ばれたことはない。大賞作品を見ると、明らかに黒崎くんの方が上手いのに。「中学生離れしすぎているからなあ」と先生は笑った。小中学生対象のコンクールでは小中学生らしい作品が選ばれるのだという。納得できずに口を尖らせる私の背中を「ドンマイ」と叩いて、黒崎くんはただ絵筆を走らせ続けた。

 きっと現代ならSNSで発表して、世間から評価されたりするのだろう。けれど、当時の私達にはそんな手段はなかった。だから、美術部も卒業まで二人きりのままだった。

 卒業の記念に黒崎くんの絵を一枚もらう約束をした。けれど、その約束は果たされなかった。私が逃げたから。

 受験を終え、卒業まで残すところ一ヶ月。彼は私のために新たに作品を制作してくれるという。待ちきれない私は、放課後そっと美術室を覗いた。黒崎くんはいなくて、画板の上に画用紙が広げられていた。それは私の好きな海の絵で、近景には美しい花畑、中景に水平線が描かれ、空はまだ白いままだった。青空か夕焼空か星空か、彼は何色を塗るのだろう。切れ長の目でこの白に対峙するのだろう。どうしてその時そんなことをしてしまったのか。自分でも説明できない。ただ、白い部分を埋めなければと。


 別々の高校へ進学した。高校生になって、黒崎くんの絵はどんどん評価されていった。コンクールで賞を獲る度に、新聞などで彼の絵を目にした。水彩画から油絵に変わったけれど、絵の魅力はそのままだった。

 私は絵をやめて、ふつうに進学し、平凡な会社員になった。

 黒崎くんとは年賀状のやり取りだけ続いている。忙しいだろうに律儀な人だ。そう思いながらも、私の方からやめるのも申し訳なく儀礼を続けること幾年。画家らしく一枚一枚手描きではあるものの、細部まで丁寧に塗り込められる彼の画風とは打って変わって、余白の目立つ紙面。彼にとって私などこの程度の扱いなのだと思うと、眺めるのも苦しくて受取るやすぐにファイルにしまってしまう。なのに、毎年楽しみにしている私がいる。

 先日、黒崎くんから初めて年賀状以外の葉書が届いた。初の個展の招待状だった。

 迷ったけれど、行くことにした。彼の絵をまた間近で見たかった。四半世紀生きてきて、彼の絵ほど私の心に響いた作品にはついぞ出会わない。

 画廊など訪れたこともなく、どんな格好をしていけばいいのか。こんなことなら、中学の頃黒崎くんが一度だけ誘ってくれた時についていけばよかった。悩んだ末、妙に洒落込んでしまった。前日には初めてネイルサロンにも行った。わざわざ画家在廊の日を避けて訪問するくせに。


 地味で目立たないくせに、どうして余計なことばかりしてしまうのだろう。

「あ!」

 と思った時には遅かった。第一声で会場中の視線が集まり、視線を向けた誰もが「あ!」と声を上げた。

 ――びりびりびり――

 私の体は重力に負けて、倒れて手をつくだけでは飽き足らず、馬鹿にお洒落したネイルでその絵を切り裂いてしまった。

 まあ、フォンタナの『空間概念』みたいね! なんて称賛する人はもちろんいない。

 倒れ込んだ姿勢のまま呆然と絵を見上げた。入廊して最も魅きつけられた絵だった。もっと近くで見たいとふらふら進み出たところ、慣れぬヒールで足を挫いてしまったのだ。一分の隙もないほど鮮やかに描かれていたキャンバスは裂け、下から白い板地が覗く。

 周囲から悲鳴が上がる。スーツ姿の画商達が駆け寄り絵を確認する。ざわめきがどんどん大きくなる。ひどい。なんてこと。ああ、絵が。絵が。誰もが私に見向きもせず絵の心配をしている。やっぱり来るべきではなかった。

 黒崎くんの絵を台無しにしたのは、これで二度目だ。


 放課後の美術室、黒崎くんの描きかけの絵。色鮮やかな花畑、青い海。まだ色のついていない空。

 私は自分の鞄からちびた白鉛筆を取り出した。

 そうして、画用紙の余白に小さく書き込んだ。「すき」と。

 白地に白で書かれた想い。誰にも気づかれずに、黒崎くんの塗る美しい絵の具によって、そっとその絵の中に閉じ込められる。はずだった。

 だけど、その絵は完成しなかった。彼が何度か美術室に立寄る姿は見た。けれど、それきり絵は一向に進まない。ねえ、あの絵どうなってる? なんて、怖くて本人に聞くこともできない。きっとばれてしまったのだ。私が絵に書き込んだこと。完璧に完成するはずだった彼の絵を台無しにしてしまったのだ。以来、気まずくて彼を避けるようになった。卒業式の日も、式が終わるや逃げるようにして家に帰った。

 本当に、彼の絵には申し訳ないことをした。きっと怒っている。だから彼は水彩画から油絵に転向したのだ。油絵だと白い部分にもきっちり絵の具を置くから、私みたいな馬鹿に台無しにされる恐れはない。はずだったのに。

 よせばいいのにのこのこやって来たから、罰が当たったのだ。


「白河、大丈夫?」

 どれくらいしゃがみ込んでいたのだろう、大きな手が私の腕を掴んでひょいと立ち上がらせた。その長い指には覚えがある。

「あーあー、派手にやったなあ」

 声の主は笑っている。スーツ姿の人たちが彼に対して申し訳ないと頭を下げている。一番謝らなければいけないのは私なのに、喉がつかえて言葉にならない。

「手ぇ擦り剥いてるじゃんか。裏行こう」

 非難の目を避けるように、彼は私の手を引きバックヤードに入る。ソファに座らせた私の手を大きな手が包む。消毒薬が傷に沁みて、ようやく声が出た。

「……黒崎くん、ありがとう。ごめんなさい」

 泣き声になってしまった。ふふっと笑った黒崎くんの温かい息が手にかかる。

「先に白河が助けてくれたんじゃないか」

「え?」

「中学の時。居場所がなかった俺を美術部に匿ってくれただろ。二名以上の部員が存続条件だったから、白河が辞めると廃部だったな」

 知っていたのか。顔を上げると切れ長の目と視線がぶつかり、思わず目を逸らす。

「でも、絵を台無しにしてしまった……」

「また」とは言えない。黒崎くんが笑う。教室では無愛想な彼が、美術室で私にだけ見せるこの笑顔が好きだった。

「いいよ、別に。あの絵は白河にあげるつもりだったから」

 さらりと言う。

「え、なんで。私達そんなに仲良くしてないのに」

「ひっでえなあ」

 黒崎くんが、まいったな、と頭を掻く。

「本当は白河も分かってるんだろ。だから、あの絵の前に立ったんだろ」

「でも年賀状だってあんなにあっさりしてるのに、急にあんな立派な作品くれるなんて。わけ分かんないよ」

「……やっぱり年賀状、ちゃんと見てないんだ。俺、白河と同じ方法でメッセージ書いてたんだけど」

「え?」

「それに、絵をやるって約束したろ。白河も覚えてるんだろ」

 絆創膏を貼り終えたのに、黒崎くんは手を離さない。

 そうなのだ、私はあの絵に見覚えがあった。だから思わず近づいた。近景に花畑、中景に水平線、遠景に空。快晴の空は白く、それが塗り残した余白なのかきっちり塗られた絵の具なのか確認したくて、不用意に接近してしまった。

 ……俺の余白は白河のためだけにあるんだ。

 黒崎くんがぽつりと呟く。熱を帯びた手は、彼の手か私の手か。

「うそ。余白なんてなかったよ。空は白い絵の具でしっかり塗られてた」

 私が答えたのと同時に、ギャラリーから大きな声が上がる。

 裂け目の下、画用紙じゃないか? ほら、上の油絵と同じモチーフの水彩画だよ。白いのが空で……。歓声にも似たざわめきがバックヤードまで届く。けれど、きっと彼らは気付かない。画用紙の余白にどれだけの想いが描かれているのかを。

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