11 A02 対象だった男

 死の匂い。得体の知れなさ。未知。……怖れ?

 まさか。こんな変哲もなさそうな男に、俺がそんなもの感じるわけない。津田は自分の予感を振り払う。

 

 はさらに迷いなく、津田に向かって歩を進めてくる。


(なんのつもりだ、このバカ)


 その男のブツブツつぶやく声は、もう津田にもハッキリ聞こえるほどになっていた。


「……ああ? ふざけるな。なんで実況がいるんだ。ハナコに、俺が音声を切ると言ってる、と伝えろ」


 津田は、その男が耳殻のマイクかなにかに向かって、通話しているだけなのだと気付く。よくいる、どこにでもいるイラつくバカだ。

 ひとつ、このダミ声で――津田は自分の声がなぜか容易に、周囲を威圧するのを知っていた――だまれ、と一言でいい。うせろ、でもいい。言葉ですらなくていい。オラでもコラでも軽く吠えてやるだけで、多くの人間は頭を下げる。そして、ひきつった卑屈な顔で謝罪して去っていく。

 その結果ですべて終わりであって、理屈も何もない。しかし、なぜか津田の腹に空気が溜まらない。喉がうまくそうにない。この感じは何だ。

 その男は、いまだ独り言――いや、通話を続けている。

 その眼は、やはり変わらず津田を見据え続けていた。

 一寸も逸らさずに捉え凝視し続けていた。フードの奥から、爛々らんらんと。

 津田の不良としての、男としての野生が危険を告げている。この視線が津田を狼狽させている。冗談じゃない。普段ならこんなやつ怒鳴りつけている。そうでなければ首が飛ぶほど殴り飛ばしている。それでシマイだ。そのはずだ。


(こいつは何だ?)


 それと共に。


(俺は一体どうした)


 なぜ動けない。なぜ殴れない。なぜ蹴とばせない。声も息すらも苦しい。だってこの男の目が。この目はまるで、俺のことをまるで。


「あーわかった! マイクを切るな、だな。それが命令なんだな。あいつの命令なんだな、わかった。すごーくわかったよ。守る。守りますよ。おおっと? 手が滑ったァ――」


 急にべらべらとしゃべったかと思うと、その男は耳から小さな機械を外した。

 そして地面にたたきつけ、安そうな革靴で踏み潰した。こんな、くたびれたビニールのニセ革靴。貧乏人の靴。

 弱者の靴。

 津田は、目の前でなにか喜劇が演じられているように感じた。何が始まっているのかよくわからない。サーカスかな。父さんが連れて行ってくれた。一度だけだった。母さんも一緒だった。父さんがつれていってくれて、その時だけ僕らは三人一緒だった。


「ったく役人どもが。クソ役人どもが」


 フードの男は何度も何度も、黒い豆の様な地面のマイクの残骸を踏み潰した。これはどういうショーなんだろう。

 それからまたこちらを舐めるように見て……その男は深々とため息をついた。


「あーもう、おかげでコイツ察しちまったじゃねーか。俺は静かにスッと行きてえのに、役人ども。悪趣味のバカ役人ども。変な間をあけさせるからだ。俺はこんな事にしたくなかった。くそ。畜生。オイ、お前!」

 最後の呼びかけは、明らかに津田に投げかけられた。肺を刺されるようだ。


「もうしょうがねえんだが言い残す事あるか? 俺が必ず、忘れないでおく」


 その男は、喋りながら左腕をポンチョの中から取り出す。

 そして肩の高さに掲げた。その開いた手の平が、雨の中に露出する。濡れて徐々に光沢を帯びだす。


 なんだよ、こいつも僕を殴る気か。ぼくは父さん以外に殴り合いで負けたことはないんだ。いいよ。殴ってみろ。

 津田は発作的に笑いそうになりつつ、この男が拳を固めるのを待ってやろうと思った。こいよ。かかってこい。

 フードの男の手。

 そこからだらだらと、タールのようなものが流れ始める。地に落ちる。おかしいな。この男、げんこつを握ろうとしない。そしてあれは何だ? オイル? ケガ?

 そいつの開いた手の薬指と中指のあいだ、その根元。

 紅黒いタールの中から、ぐいぐいとなにか白いものが生えて来た。白いな。白いトゲ。まだ伸びる。学校の白墨、チョーク。まだ伸びる。アイスか。アイスキャンデー。バニラ。チョコのほうが好きだ。まだ伸びる。そして曲がる。歯?

 あれは歯だ。

 サーカスの眠そうな白いトラの口の中で見た。牙だ。

 それはさらに伸びた。それからやっとフードの男は、拳をぐっと握った。牙はもう、男の拳、指の間から包丁のように伸びていた。その長さを宙に誇示していた。

 母さんが唐揚げを作ってくれた包丁ぐらいあるな。今日は父さんが来るから、一緒にご飯にしようって。上機嫌で鶏肉を切っていたあの、母さんの包丁のようだ。


 サーカスはたのしかった。こんな奴はいなかった。こいつはたのしくない。たのしいやつじゃない。消えろ。

 その時、津田の中で、何かが弾けた。声を上げた。

 カン高い声が、猿叫のように空気を震わせる。


「ころす……おまえはころす! ころしてやる」

「へ、先に言われちまった」


 こいつはなにか言った。知ったことか。津田は本能のまま腹に手を這わせた。何重にも固く下腹部にテープで巻き付けられた、預かりモノがあった。これを運んで届けろと誰かが言っていた。

 もう関係ない。その銃を引きちぎるように抜いた津田は、に向かって引き金を引いた。

 

 乾いた音が二発。さらに一発。よく狙って、もう一発。

 津田は、そいつに向かって弾を打ち込んだ。死ね。母さんは楽しく過ごすんだ。お前はいちゃいけない。邪魔するなら死ね。


 その想いが最後だった。幼児退行に蝕まれたまま、糸が切れたようにふやける自分を感じながら、津田の意識は暗黒に落ちた。


 なにか黒い影が、力を失いフラつく津田の身体を支えていた。

 影は背負いなおすようにして、崩れ落ちそうな津田の肢体を無理矢理に立たせる。その拍子に、影のポンチョのフードがずれ落ちた。

 いくぶん青白い、犬井恭二のおもてがあらわれた。


(銃とはね。ずいぶんと話が違うぜ)


 犬井は腕をのばし、津田だったモノの首根っこをつかんだ。さらにその肥満体を持ち上げる。そして切り口を改めて眺めた。


(苦しませては、いないはずだが……)


 延髄にパクリと開いた切傷から、血が滲み出て来た。

 しっかし銃ねえ。少し面食らったせいか、左腕が狂ったか。歯が静脈を傷つけたらしい。かなりの血液が漏れ出してくる。もう犬井は我慢が効かなかった。さらに高く津田の首を持ち上げた。

 片手で天に捧ぐほどに、高く持ち上げた。血流がだらりと垂れる。頭上まで津田の巨体を持ち上げる。そして、首から漏れだす、細い血流を口で受けた。


(あさましいな俺は……しかし)


 しかし。

 雨交じりの血液が胃に達した瞬間、まさに自分の飢えが癒されるのを感じる。正気が、返ってくる。

 凍死寸前で口にするアルコールとか、こういう感じか? あの山岳救助犬が首輪に下げてるヤツとか。ああいうのはまだ現役なのかな。

 そんな雑事を考える回路が再生する。頭の芯が温まる。論理の格子が意識に張り巡らされ、再構築されていく。


 一息つけた。そんな気がする。そこで犬井は我に返った。

 は俺の抑制剤にしかならない。だから、少しも無駄にできないのだ。

 急いでポンチョを脱ぎ、地面に敷く。そこにゆっくりと、対象だったモノを横たえる。血は本格的に流れ出している。こんなポンチョ程度のシートでは、さほど留めておけないだろう。が、こんなんでもやらないよりマシだ。全て地面に吸われてしまうよりは、回収できそうだ。

 

 事が済んだ。ハナコや足利たちに、知らせなければならない。

 ……が、耳のインカムがなくなっている。アレ、一応は機密品なハズなんだ。まずいな、どこかに落としたのだろうか?

 首をかしげている余裕もなく、無数の足音を感じた。銃声を聴いて集まっているらしい。ほとんど犬井が知らない顔だった。反射的に身構えている犬井を無視し、スーツとレインウェアの集団は、手際よく対象だったモノに駆け寄る。

 対象を極楽袋に詰込み、地面のポンチョも回収しだした。

 犬井が茫然としていると足利と戸丸が、遅れて駆け寄ってきた。

「犬井さん!」

「ケガ……銃創は!」

 足利が首をつかむように迫ってきた。

 犬井は、落ち着かせようと思った。黙って、わざとらしいほどゆっくり、ただ首を左右に振った。

「ない。どこにもケガはない」


 足利は数秒、指を顎に当て考えた。そして犬井の全身を一瞥する。それからすぐに身を翻し、遺体回収の指揮を執り始めた。さすがに落ち着いている。


「まさか、あんなものを所持していたとは」

 戸丸くんは息を切らしていた。少し走った程度でこうなるようなヤワな男ではない。彼なりに心配してくれ、動揺したらしい。

「知らなかったのか?」

「すいません。せいぜいが短刀と思っていました。僕は予想すらできなかった」

 なんだか、今にもしゃくりあげそうな声色だ。

「落ち着いてくれ。俺にケガはないし、戸丸くんには想定外だった。まァ、そんだけさ」

 耳を澄ませば犬井には分かった。

 彼の動悸の音は本物だ。息遣い、視線の揺れ、血の流れ。役を演じようとして出来るものじゃない。

「僕じゃなくみんな、そうですよ。それが情けない。足利先輩でも銃なんて予想外だったと思う」

「まァ……うん、そうだろうなァ」

 足利さんは――対象は凶器所持の可能性がある――たしかに、事前にそう言っていた。いくらか緊張していたが落ち着いたものだった。それなら自力で援護ができる。あれはその自信に裏打ちされた言葉だった。

「足利さんでも、そうだったろうよ。だがかどうかは確認の余地がある」

「はい?」

 戸丸くんは分からなかったようだが、その方がいい。

「みんな、は言いすぎか。誰かさんだ。絶対に聞き出す」

「何のことですか」

「気にしなくていい。俺は無事だ」

 雨は……止んだかな?

 たなごころを空に向け、雨粒を確かめる犬井の手。そこにはもう五本の指しか生えていない。しかし抜かなければいけない骨が、心中にある。

 

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誰がため此の手此の歯牙を汚す カッコ仮 秋島歪理 @firetheft

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