10 A01 対象という男

 男は、薄暮に埋もれかける裏路地を曲がった。

 霧雨が降っている。

 

 傘をさすほどではないな。

 この男、津田はそう思った。このあと雨が強くなるか、止むか。そういうことに気を払う男ではなかった。どしゃ降りになればどうするか。

 そのへんのビニール傘をパクればいい。降らなければどうするか。では何もしなくていい。問題はない。


 少し、胃が疼く。

 かなり抑制剤を飲んでない。酒ばかり飲んでいる。そのせいか、と他人事のように思った。

 津田は密売へまわすために、自分に処方される抑制剤さえ極力節約している。

 カネになるからである。

 根っこまで抑制剤中毒になったバカは100円のサプリでも有難がって買う。ホンモノだと思い込んで大枚をはたく。だが、これからカモに染めていこうという相手には、そうはいかない。可能な限り飢餓状態に置いてから、可能な限りホンモノを過剰摂取をさせなければならない。でないとぶっ飛んだトリップはしない。


(ほどほどに気持ちよかったぐらいでは、顧客にならないからな)


 医者にも役人にも、腐ったのがいる。彼は、そういう経路からも薬や抑制食を仕入れている。当然ヤミなので払いが高くつく。

 カネのためであれば、自分用に処方されるクスリを節約する。売るほうにまわす。


 幸い、津田のプレタ病は変容段階を終えている。急死はしない。

 多少の飢餓でパニック発作に陥ることもない。その時はその時だ。というより彼は、病による攻撃性で他人を傷つけても平気なのか、それとも自分が生来そういう男なのか、それすらどうでもよかった。

 この雨の中を手ぶらで歩くのと同様だ。そんなことは彼が気を払う性質の事ではない。

 津田は学のある男ではない。

 だが少年のころから本能的に理解していることがある。快楽のある生活を送る方法だ。自分の所持するモノやカネを増やすより、自分の周囲を動くモノとカネを増やす方が、効率がいい。

 資産をコツコツ貯めるより、出入りがたくさんある方が良い思いができる。

 富を形成するのは時間がかかる。地道に生産しなければならない。コツコツと労働しなければならない。しかし安定して生産するよりも、他人から大きく奪い続けた方がおいしい思いができる。


 俺は奪われるのは嫌だし、奪わせない。だから、弱者から奪うのが効率がいい。


 津田はそうやって生きてきた。こういう男ができあがるのは、欲望の強さゆえ法や倫理を無視していくのか、あるいは法や倫理を無視できるがゆえに欲望だけを追えるのか。津田自身は、考えたこともない。

 ともかくカネは動き流れたほうが良い。

「金で買えないモノもある」という説教を、津田は軽蔑していた。

 それをのたまう奴が、たいてい給与所得者だからだ。彼はアタマから、理由わけもなくそう決め込んでいた。そして彼は給与所得者は貧乏だ、とも決め込んでいた。


 負け犬の遠吠えだ。

 津田は大小の悪事とされることをやってきたが、それで被った苦痛やリスクを顧みた事が無い。チンピラだ半グレだの、好きに呼べばいい。やりたいようにできない連中のヤッカミだ。

 何十年も半日拘束され、週末に寝て休んで生きる連中の大半が、どれだけのカネを得ているんだ? 好きな時に酒を飲み、女を抱いて暮らしている俺の、何分の一だ?

 全くこのプレタ病とやらのおかげだ。おかげでいくらでも搾り取れる弱者が湧いてくる。彼だって飢えは辛い。だがむしろ、軽く飢えている時の方が好きだ。鋭敏になるし、身体がよく動く。

 とはいえ……今回捕まったのは確かに痛かった。

 一応は、彼もそう思っている。実刑を免れないだろうと弁護士も言っている。

 しかしガメツいが腕のいい弁護士を雇って裁量保釈を認めさせたのも、保釈金をさっさと預けて出て来れたのも、自分にカネがあったからだ。

 プレタ病関連の薬機法は厳しい。

 最終的に何年の刑務所暮らしをやるのかまだ分からない。だが彼はすでに自身が軽蔑する奴らの一生分の金を稼いだつもりだし、キッチリ洗浄の済んだカネが口座にうなっている。そして、たとえ刑務所の中でも自分はイイ思いをする側に回るだろう。津田は確信している。

 弱者はどこにいっても居る。刑務所にもいる。奪えばいい。追いつめて絞り取ればいい。


 雨はやまない。いい加減、シャツが肌に張り付いてきた。津田は舌打ちする。

 そのとき、向かいからくるに気づいた。

 濃紺の長い防水ポンチョをかぶり、若干俯き加減で歩いてくる。軍用か?

 そのせいで、顔はロクに見えない。

 そんな大仰なものをかぶっているくせ、足元から覗いているのはプレスの入ったスラックスだ。安っぽそうな革靴を履いている。

 どうもそこだけ帰宅途中のサラリーマンのようでアンバランスだ。


 極めつけに何か、ブツブツと呟いている。妙な男だ。


 津田はその男のフードの下の視線が、自分をじっと追っているように感じた。この種の男の多分に漏れず、津田は見られ続けると不愉快になる。


(何だ、こいつは)


 人通りのない路地だ。普段なら壁にでも追い詰めて小突きまわしたい所だが、今日だけは特に揉め事を起こせない。

 保釈中で在ること以上に、揉められない理由がある。先を急ごう。心持ち、足を速める。横目で睨みながら、すれ違おうとした。

 しかし意外なことに、フードの男は津田の目つきを気にする風でもなかった。やはり何か呟きながら、歩幅を変えずに距離を詰めてくる。まっすぐこちらへ。

 何なんだこいつは?

 鼻腔に妙な匂いが満ちてくる。


 濡れたアスファルトの匂い。

 胃を病んだ女の接吻の匂い。

 殴られて鼻腔に走る血の匂い。

 路傍に腐る得体のしれぬ果実の匂い。

 轢かれた猫の黒い血の匂い。

 

 死の匂い?

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