09 犬井さん現場入りまーす
足利にスツールにかけて待ってもらう。犬井はゆうゆうとスーツに着替えた。
別に着替える必要はないっちゃない。現場で自分一人だけアロハにジーンズというのはさすがの彼もどうかと思う。浮くにも程がある。
ぐしゃぐしゃの髪に、急いでブローだけかけた。
「失礼しました。行きましょう足利さん」
犬井が声をかける。
足利は、あごを搔きながらゆっくり立ち上がった。
寝室の床一面の、空き瓶空き缶を眺めていたらしい。驚く、あきれるを通り越したらしい。興味深そうな目つきをしている。
「犬井さん、これは……これを全部飲んだのですか」
「はあ。まあそうですね」
「いつ?」
「昨日の昼前……というか、それから夜中に寝入るまで。だらだらずっと吞んでましたね」
「この量を? 全部ですか?」
犬井が頷くと、足利は両の眉を少し沈ませた。小さく息をつく。
「大丈夫なんですか。仕事は今からですよ。普通なら急性アル中で救急車でしょう。この量は」
「あいにく普通じゃなくなったのでね。すこぶる目覚めがいいです」
と犬井はつい返した。
一瞬、足利の眉間の皺が更に深くなった。少し言葉が過ぎたかと思う。飢え気味でイラついているのかもしれない。
しかし犬井は謝罪する気にもならなかった。そういう場合でも、そういう日でもない。
足利の運転は、そつがなかった。
たいして揺れない助手席から、犬井は雲を増す空をぼんやりと眺める事にひたすらに努めた。何も考えないように。
……しかし現場へ着いたとき、犬井はもう相当に飢えていた。すでに五感はめちゃくちゃに昂っている。
後部座席に移る。腕をまくらにして、横たわる。固く目を閉じた。
車外の気配はそれでも容赦なく犬井へ押し寄せた。人の動き。風のよどみと疾駆。周囲の発話と絶え間ない足音、あらゆる音、存在。
彼自身にもこの状態を他人に説明するのは難しい。普段聞こえない音が聞こえ、見えない光が見える。
いや聞こえるという表現も見えるという表現も、しっくりこない。
わかるものはわかるし、あるものはあるし、感じるものは感じる。
犬井はハナコの判断を訝しんだ。
ちょっと抑制食を絶つのが、早かったんじゃないか。我ながらかなり殺気だっている気がする。
まァ、俺も気分的に色々あったからな。犬井は自嘲して、心中をいさめた。
プレタ病変容者の、ヒト組織欠乏。その症状には段階がある。
まず空腹感と体調不良に見舞われる。
さらに個人差があるが、攻撃性の発露、不定愁訴、躁状態、抑鬱状態、希死念慮、万能妄想……あらゆる薬の副作用説明書の読み上げみたいだ。
『これがあらわれたら服用を中止し直ちに医師の診断を受けてください』
のフルコース。
そして俗に〝飢餓期〟と呼ばれる状態に落ちる。
自傷行為が止められない。毛髪を抜いて食う。
自分を刃物で傷つけ血液を飲む。あるいは自らを噛り肉を食む。もちろん、当人の性向によっては、他者を襲う。映画のゾンビみたいに、可愛くフラフラ歩いてなんてこない。
凶器と移動手段を準備し、明確な意図で綿密な計画の上、獣並みの俊敏さをもって人を襲う。そして監禁した犠牲者をなるべく生かしつつ、様々な手段で文字通り食い物にする。
抑制剤の一般供給が落ち着くまで、こんな事件は後を絶たなかった……らしい。
弱さがそうさせるのか、
しかし始まりは、犬井にとって物心すらついていなかった時代なのだ。
どちらにせよ、彼にはよくわからない。ニワトリか卵か、みたいな気がする。
それでも、全てを拒否する者はいた。なんにだって拒否する手合いはいる。この病についても同様だった。
大昔には輸血を拒否する宗教があったらしい。それについて犬井は特段の感想を持たない。それもそいつの勝手なんじゃないか、と思う。輸血を拒否したあげく死ぬことはあっても、凶暴になって他人を傷つけたりはしない。
それでも色んな理由から、抑制剤を受け入れないプレタ病者たちは居た。
信仰。主義。自由。正義。反抗。
しかし欠乏状態で放置を続ければどうなるか。『自閉』と呼ばれる状態になる。
徐々に外界への反応が鈍くなっていき、抑制剤や抑制食どころか、通常の食料も水も欲しがらなくなり、しまいには廃人同様になる。
そしてしばらく生き永らえる。やがてどういうわけか多臓器不全を起こし、死に至る。良心の自由に満ちた〝プレタ病自閉者〟たち。
といっても、静かに死ぬのは本人の心だけだった。自閉末期で意思表示すらできず寝たきり。『己の心に従った』プレタ病患者。
彼らは――なんとも皮肉なことに――ヒト組織を摂取しない代わりに、社会保障と医療のリソースを盛大に食らいまくった。ために法も、罰則までも厳しく整備された。いまや医師は患者の意向に関わらず、強制的に抑制剤投与ができる。
結果として、世界で大勢が怒り狂った。
「不本意に生き長らえさせられた」
と主張する集団が生まれ、世界中で訴訟が一時相次いだ。
好きに死なせろ。なかなか真っ当な言い分だ。そう犬井は思う。
だが訴えは棄却されていく。多くの国の司法が、主張自体は認める。しかしそこまでだ。勝手に死んでいいとは言わない。
それに世間様からさんざんに叩かれる。ために、次第に声も小さくなった。それはそうだ。誰だって好きでプレタ病にならない。
抑制剤を飲んでも労働し、社会参画するもの達からの攻撃は容赦がなかった。いわくそんなのはワガママだの、甘えだの。真っ当な多数派は常に強く、時に凶暴だ。
そんな世の中とそりが合わなくても、まだ屈しない者達はいた。
難儀な生き方だ、と犬井は思う。
彼らはときに、内心の自由のため、信仰のため、それぞれの方法で自死を選んだりする。抗議の焼身自殺をかましたり、己を監禁して自閉状態に陥った上、病死する。
そういうのは何か、上等なことなんだろうか?
喧噪の気配に静かに何かがまざる。満ちるやさしい音。
これは……雨音だ。犬井は目を見開いた。
目をやると車のサイドガラスの外側に水滴が模様を作っている。てんとう虫の背中のようだ、と犬井は思った。ガラス製のてんとう虫の背中。
再び目を閉じる。
我ながら突飛な思いつきをするな、と思った。が、一種の連想であることに気付く。シートにうずくまっている俺と、あのうずくまっているような奇妙な昆虫。後部座席に自分を抱えてうずくまっているこの車。甲虫はぶ厚いようで奇妙なほど脆い。
飢えと周囲の気配から自分をできるだけ遮断すべく、犬井恭二はこの空想にもぐっていようとした。が、勢いよく車のスライドドアが開かれた。
雨中の沈黙は、むなしく破られた。
「うわあ、ひどい降りですよ。降り出しました」
無邪気な声が反響する。
「戸丸くんか……どうした?」
深く体の芯と、その脂肪を通しひびいてくる声ら、乱入者が戸丸君だとわかる。
また目を開けるのも面倒だった。
「レインコート、後ろに置いたままだったんです」
「でもこれは足利さんのクルマ……なだけでもないか。なるほどな」
思い起こせば見た目は乗用車だが、これはそもそも自分の移送車だ。ハナコや特別管理室の面々が、色々置いててもおかしくない。
レインコートを取り出すガサガサした音。そのあと、そそがれる視線を感じた。
自分に何かあったのかと、戸丸君が気にしているのだろう。が、今は当の犬井自身に、彼を安心させてやる気配りの余裕がなかった。
「……大丈夫だ。少し寝不足だったんだ。行こうか」
「そうですね。そろそろです」
犬井は跳ね起きた。手ごろなポンチョをつかんで、車外にでる。
「俺のワガママの時間だ」
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