08 足利、ただの迎えなのに決死隊みたくなる

 嫌でもその日は来る。当日だ。

 足利は犬井のマンションの駐車場に、慎重に車を止める。

 ワインレッドの普通車。およそ公用車には見えない。

 道中、前後をガードしていた、これも一般車両に偽装――というより実際に私用を装っている――ドライバーと警護車両は、現在周辺で待機。

 いくら彼らが国家機密に係る勤めにあるとはいえ、地元警察とのカチ合いは情報管理上まずい。何か起これば記録に残る。もちろんその場は抑え込めなくもない。

 が、それが済んでも、彼らの不可解は沈殿していく。やがては、妙な好奇心を持ち出す輩がいないとも限らない。なので万が一、足利やその部下が事故を起こした場合はあくまで公務員が休日に起こした、私的なモノとして振舞う。

 足利はジャケットを脱ぎ、助手席に放りなげた。そして、グレーのウィンドブレーカーを羽織った。近隣住人や、通行人の印象をボカすためだ。

 ぬりかべ、とあだ名される体格の彼である。

 どうせ嫌でも目立ってしまうのだが、やらないよりマシだろう。

 そもそもが、上司たるハナコの指示のうちなので足利に嫌も応もなかった。

 足早に犬井の部屋まで階段であがり、インターホンを鳴らす。反応がない。ゆっくり十ほど数え、もう一度鳴らす。やはり反応がない。

 室内の気配に、集中してみる。どうも静かだ。思い切ってドアノブに手をかける。と、カギが開いていた。足利は、しばし逡巡した。

 つまり異常として即刻指示を仰ぐか、このまま中へ入り様子を見るか。しかし、それも数秒、ゆっくりとドアをあけ玄関へ身体を滑り込ませた。

(さて、だからといってどうしたものか)

 とくに目算があったわけではない。

 長く廊下に突っ立っていると好ましくないな、と思考が走ったからだ。正しいのかはわからない。だがその評価は後でいい。

『どんな内容であれ、任務中に自己評価を一切行うな』

 ハナコが常に足利と戸丸に言い聞かせ、要求する事だった。

『現場判断中は判断のみ行うこと。思考にノイズを混ぜることは許さない』

 そんな上司モードのハナコの声を思い出しつつ、足利は室内の様子を慎重にうかがった。

 室内灯は一切ついていない。カーテンがあいていないのか、正午近いのにひんやりとした薄暗さだ。ふと嫌な予感におそわれる。

 犬井の身に何か起こっているのではないか。

 しかし単純な凶器、ましてや素手で犬井を殺傷できる者がいるとは、足利にはどうしても思えなかった。彼自身、白ビルラボでは何度も犬井の体力測定という名目で〝運動〟に付き合わされた。その度、不貞腐れている犬井に適当にあしらわれては、床にすっころばされ続けた。格技など素人同然の犬井にだ。

 とすれば、もう一つの可能性の場合、もっとマズい。

 犬井自身の症状がなんらか急性に悪化し、正常な状態ではないかもしれないとする。であれば、正気を失った犬井に対峙することは、むしろ足利の命の危険すら意味する。

「犬井さん、いませんか。どうしました」

 奥へひとまず叫んでみる。返事はない。

「犬井さん!」

 足利はポケットのスタンガンを意識した。

 市販のものではない。電圧は恐るべきもので食らえば硬直どころか、即失神する。放電は皮膚を焼くし、当たった神経が悪ければ通電の後遺症さえ残る。とても護身具とは呼べない。立派な凶器だ。

 だが相手が犬井ではどうか。白ビルの実験室――リハビリテーションルームといううすら寒い名称がつけられていた――では、まともに組み付く事すら難しかった。そんな敵に、こんな電極で触れられるだろうか。足利には自信がない。

 待て。俺は今、何と考えた?

 あの青年が、敵だって?

「犬井さん。カギが開いてますよ、どうしました」

 なるべく声を張りながら、足利は奥へ進んだ。

「犬井さん?」

 まるで原生林で熊に会わないため声を上げているような心境だった。あの青年に対し、驚きを感じたことはもう何度もあった。だが、明らかな恐怖を抱いたのはこれが初めてかもしれない。

 そのとき、奥からひどく不機嫌そうな、うめき声が聞こえた。

「なんだ――誰だ?」

 ひどくしわがれた声だ。酒のせいか。

「私です、足利です。時間ですよ」

「うっわー、マジか……」

 声の主は寝ていたらしい。

 足利は安堵の息をついて、そのまま廊下をすすんだ。

 飢えで自分を失っているとか、そういう状況ではないようだ。

 そのまま声のした部屋を覗き込む。

 ここはたしか寝室を兼ねたささやかな書斎だ。

 そして、先ほどまでの決死の緊張を一切わすれて、足利はあきれた。

 あきれ果てる以外、どうしようもない有様だった。

 床には、一面と言っていいほど様々な色のビールの空き缶が散乱し、合間を埋めるように、赤や緑の酒ビンが立ったり寝ころんだりしている。

 そしてその中心に、くたびれたデニムにアロハをまとった、犬井恭二その人がいた。ベッドのへりに背を預け、悠々と両足を伸ばしているさまは、まるで空き缶と空きビンの美女をはべらす、ハレムの王のようだった。

 王様こと犬井はまだ寝ぼけているようだ。

「いいか。俺は消費されてる。思い知ったよ」

「……どういうことですか」

「俺だけじゃないな。俺かもしれない。足利さん、あなたもだ。公務員だから、公僕だからそれでも良いってもんじゃない。俺はそう思うよ。俺たちはこのままじゃドン詰まりだ」

 足利をまた、別種の恐れが襲った。薄気味悪い予言だ。思わず、

「勘弁してくださいよ」

 といくらか彼らしくない声を出していた。

「なんにせよ、今日は今日やるべき事をやるべきです。違いますか」

 犬井は中空の一点を見つめ、俯いてしばらく沈黙していたが、

「そう……そうだな。すまない、シャワーを浴びてくる」

 と言って立ち上がった。

 足を引きずるように浴室へ向かう犬井の背中を、足利は見送った。

 なぜか、亡霊の背中のようだ、とそう思った。

 

 

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