011
しかし翌日も、翌々日も、さらに明々後日も、暁さんが俺の目の前に現れることはなかった。
担任は体調不良が長引いていると言っていたけれど、本当にそうだろうか。
彼女が学校に来なくなったのは草木が枯れる事件が始まったのと同じタイミング。
しかもその事件が怪異の仕業なのだとわかってしまった今、何らかの因果関係があると思って間違いないと俺は思う。
彼女の安否を確かめるためにも早めに接触しなければと思った俺はある日の放課後、お見舞いのついでに届けるからと半ば無理やり担任教師を説得した末に獲得した何枚かのプリントを手に彼女の家と思われる玄関のドアの前に訪れていた。
が、なかなかチャイムを押す勇気がなく、暫くここで足踏みしてしまっている。
急に訪ねて引かれたりしないだろうかという心配もそうだが、それよりも気になるのは、彼女の家であろう建物の様子だ。
「住所合ってる、よな?」
担任が渋々教えてくれた住所を頼りにやってきた場所にあったのは、単身者向けの小ぢんまりとしたアパートだった。
高校生の女の子が住んでいるとは到底思えないその様子を前に、チャイムを押したらすごく怖そうなおじさんが出てこないかが心配で立ち往生してしまっていたというわけだ。
とはいえここでうだうだしていたところで状況が好転するわけもないし……ええい、ままよ!
やっとこさ覚悟を決めた俺は恐る恐るチャイムを鳴らす。
するとドアの向こうから無機質なベルの音が聞こえて、次いで小さな足音がした。
それから数秒の後、錠とドアチェーンが外れる音がする。
「……神崎くん」
そうしてやっと俺を出迎えてくれた彼女は、俺の顔を見上げてどこか安心したように小さく息を吐いた。
「急に来てごめん。ちょっと話したいことが……っ?!」
とりあえず引かれるのは勘弁したいという気持ちから謝罪をすると、彼女は俺の手首を掴む。
突然のことに驚いていると彼女はそのまま俺の腕を力強く引いて、室内へと強引に招いた。
「え、ちょ、あの、暁さん?!」
そのまま彼女は玄関ドアを乱暴に閉め、鍵をかけ、ドアチェーンまでしたところでこちらを振り向く。
「ちょうどよかった。私も話したいことがあったの」
さらりと黒髪が揺らしながら部屋の奥へと進んでいく彼女を慌てて靴を脱いで追いかけた。
そうしてお邪魔した部屋はシンプルながらも可愛らしい小物で彩られた女の子らしい空間だったのだけれど……予想通り間取りはワンルームになっていて、彼女以外の人間がこの空間で生活している気配は微塵もない。
すると俺が固まっていることに気がついたのか、暁さんはベッドに腰掛けながら目を細めた。
「……聞いていいのに」
「え?」
「色々聞きたそうな顔してた。相変わらずわかりやすいね、神崎くん」
見透かすような視線に少し恥ずかしくなる。
縮こまるようにして床に腰を下ろすと彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「ベッド座っていいよ?」
マジすか、わーい。
…………じゃねえ!
ダメだ、抑えろ、俺。
あくまで紳士的にいけ。
「だ、大丈夫。遠慮しとくよ。外からきた格好でベッドに座るのもあれだし」
「そう。……じゃあ本題に、と言いたいところだけれど、まずは神崎くんの疑問を解決してあげなくちゃね」
「俺の疑問?」
「私には、両親がいない」
ワンルームに彼女の声が静かに落ちる。
「両親どころか親族と呼べる人は誰も居ないの」
「え、っと」
「不孝鳥の話、覚えてる?」
「あ、ああ。母胎に取り憑いて生命力を吸う妖怪だったっけ」
「そう。不孝鳥に憑かれた母胎は、よっぽど生命力が高くないと出産時の消耗に耐えきれず子供を出産してすぐ亡くなるケースが多いの。……母もそうだった」
……?
彼女の話し方に違和感がある。
「それに、母は昔から妖怪とかそういうのに狙われやすいタイプだったそうよ。父も、私が生まれる直前、母を狙う怪異に巻き込まれて亡くなった」
「ちょ、ちょっと待って、暁さん。どうして君はそれを知ってるんだ? 君の話が本当だとしたら、一体誰からその話を?」
「あら、酷い。私のこと疑ってるの?」
「そ、そういうんじゃないんだけど……」
「冗談よ」
くすくすと笑う彼女。
「……ご丁寧に教えてくれた"やつ"がいるの。まあ、この話は今度にしましょう。話が脱線してしまうわ」
「わ、わかった」
めっちゃ気になる。
が、俺は彼女が零した"やつ"にへの好奇心を一旦喉の奥に飲み込んで、居住まいを正した。
彼女の言う通り、今急がなきゃいけないのは彼女の身辺について詳しくなることじゃない。
数日前に遭遇したあの気味の悪い鴉について彼女に聞くことだから。
「さて、本題だけど。……先に神崎くんの話を聞きましょうか。私ばかりお話してしまったしね。まさか、その手にあるプリントを届けに来ただけってことはないのでしょう?」
そう言いながら足を組み、頬杖をつく彼女。
なんだか艶めかしい仕草に心臓を鷲掴みにされたような動悸に陥りながら、とりあえずずっと握ったままだったプリントを彼女に手渡しながら口を開いた。
「怪異に遭遇したんだ」
ぴくりと彼女の口元が動く。
「巨大な、鴉みたいな。最近、この近辺で植物が軒並み枯れる事件が相次いでるだろ? 多分その元凶だ。遭遇した時、周りにあった草とか木とかが急に枯れたから間違いないと思う」
「そう。……神崎くんも、"あれ"に遭ったのね」
「ってことは、君も?」
「ええ。というか、私が家に引きこもることになったのは"あれ"のせいなの」
あれのせい……?
「ちょうど、あの鴉がこの街に来た頃。獲物を探すように上空を飛び回っているのを見た。……いえ、見てしまった。そして、見られてしまった。だから姿を隠しているの」
俺の目の前に降り立った、あの恐ろしい姿をぼんやりと思い出す。
確かに、あんなのを見たら逃げたくもなってしまうだろう。
「暁さんはあれが何なのか知ってるのか?」
「……ええ。教えてもらったから」
「え。誰に?」
「さっきも出てきた"やつ"に、よ」
また"やつ"。
一回飲み込んだ好奇心が再び頭を擡げる。
「"やつ"曰く――」
が、彼女はこの場で"やつ"のことを詳しく説明する気はないらしい。
大人しく足を組み直した彼女の次の言葉を待つ。
「――"あれ"の名は、月夜鴉」
ぴちょん、と。
どこからか水が滴る音がした。
「とある集落で、たちの悪い酔っ払いが近隣の畑を荒らして回る事件があったそうなの。それを妖怪の仕業だと周辺住民が勘違いしたせいで生まれた怪異。月夜鴉という名前は集落の人々が誰も気付かないうちに枯らしている、つまり明かりのない夜に悪さをしているんだろうと踏んだところからつけたらしいけれど、なかなか上手な名付けよね。図らず、元の言葉の意味と整合性がついているし、ゴミ箱や畑を荒らす生き物のカラスとも行動原理が一致しているし」
「元の言葉の意味……?」
「あら、知らない? 月夜鴉って、夜遊びに浮かれる人のことを指す言葉なのよ」
そうなんだ……。
なんか格好いい名前だなって思っちゃった。
「そのうちその集落の人々は不審な出来事をすべて怪異のせいにするようになったのだそうよ。畑や植物を"枯らす"、池や井戸を"涸らす"、体調を崩して喉を"嗄らす"、そして人の命までもを"駆らす"とした」
「命を"からす"……つまり、死期を早めるって意味で"駆らす"か」
「そうね。小さな集落だったそうだから医者も居なかったでしょうし、外的要因のない急死や病死はすべてその怪異のせいにしたみたい」
「そのせいであんな物騒な怪異が生まれちまった、ってことだな」
「きっと、集落の人々は熱心に月夜鴉の存在を信じて、後世に語り継いできたんでしょうね。そうじゃなきゃ今頃消えているはずだもの」
「消えているって……?」
「月夜鴉が生まれた集落は、とっくの昔に地図から消えているのよ。それでもまだ存在しているってことはあの集落出身の誰かがこの国の何処かで生活しながら月夜鴉の存在を信じているってこと」
そうか、怪異は自分の存在を知る人間がいなくなると消えてしまうんだったっけ。
「さっさと飽きてどこかへ行ってくれればいいんだけど、そうもいかなそうなのよね。残念なことに姿を見られてしまったから」
「……あいつは君を狙ってるってことか?」
「そうね。確実に、私を探している。"やつ"が言っていたから間違いないわ」
妙に苛立っている様子の彼女。
こんなに感情を顕にするなんて普段クールな彼女には珍しく、どこか焦っているようにも見えた。
「それに私、鴉って嫌いなの」
「ああ。結構いるよな、苦手な人」
「苦手とかじゃなくって……梟にとって天敵なのよ、鴉って」
「え? でも、梟って猛禽類だよな? 鴉にとって猛禽類って天敵じゃなかったっけ」
「それは成鳥の場合ね。逆に雛や人間にペットとして飼われて戦い方を知らない梟にとって鴉は頭もいいし厄介な天敵になり得るわ。それに成鳥だったとしてもカラスは集団で行動することが多いから多勢に無勢、数で押し負けることもある。不孝鳥が完全な状態だったらまだ勝負になったでしょうけど、私と混ざってしまった影響でその辺の怪異にはほぼ勝てない、謂わば雛鳥と同じ状態なの。つまり月夜鴉にとって私は格好の餌食なのよ。……!」
突然、彼女がはっとしたように立ち上がる。
なにかと思っていると彼女は俺の腕を引いて無理やり立たせ、そのまま玄関へと追いやった。
「えっ、ちょ」
「今すぐ帰って」
「ど、どうしてまた急に……!」
「いいから! 今すぐ帰って!」
初めて聞く彼女の大声に固まっていると、背後からガラスが粉々に砕け落ちる音が聞こえる。
途端、夕焼けが差し込んでいた部屋に、暗い影が落ちた。
「神埼くん。今すぐ逃げて。……そして私のことは忘れて頂戴」
彼女の身体を乱暴に鉤爪のようなものが捕らえる。
「暁さんっ!」
名を呼んで必死に手を伸ばしたが、彼女は微笑むばかりで――そのまま、ワンルームの中に黒い羽だけを残して、鉤爪も彼女も、消えてしまった。
白い彼女は夜目が利く @torao00
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