命綱

朝霧

見るとボロボロで汚い縄が自分の腕に絡みついていた

 気がついたら知らない場所にいた。

 トンネルが目の前にある、先は暗くて見えない。

「おい」

 背後から不機嫌な声、聴き慣れた、しかし何故か懐かしさのあるその声に振り返ると自分が支える主君の姿がそこにあった。

 そうだ、まだ幼い身ながらも戦い続けるその人の元に、自分は馳せ参じないと、そう思って。

 随分と待たせてしまった気がする、早く行かなければ。

「大変遅くなり、申し訳……」

 そう言いながらも駆け寄ろうとしたら、くい、と左手に何かが引っかかる。

 見るとボロボロで汚い縄が自分の腕に絡みついていた。

 外そうとするが随分と複雑にこんがらがってしまっていて無理だった、襤褸のくせにやけに頑丈で素手では引きちぎれない。

 ならばと帯剣していた剣で切り払おうとした。

「なっ!!?」

 ない、剣がない。

 どういうことだ自分はつい先程まで戦っていた筈だ、それなのに何故。

 あまりの出来事に混乱する、早く主君のもとに行かねばならないのに剣はないし縄も外せない。

 騎士の名折れだと思っていたら、主君が無言でトンネルを指さした。

 彼の指の先を追うと、真っ暗で何も見えなかったはずのそこにぼんやりと小さな影が見えた。

 小さな女だ、こちらに背を向け蹲っている。

 そして自分の腕にこんがらがる縄は、その女に繋がっているようだった。

 女が誰だかはわからない、見覚えもない。

 覚えていないということはどうでもいいということだ、そもそもきっと見知らぬ他人だ。

 ぐいぐいと縄を引いてみるが、縄はピンと張り詰めるばかりでびくともしない。

「女!! おいそこの女!! その縄を離せ!!」

 怒鳴るが女は何の反応も返してこない、こちらに背を向け続けている。

 声が聞こえていないのだろうか、そう思ってもう一度声を張り上げようとしたところで腰のあたりに衝撃が。

 どうやら主君に蹴飛ばされたらしい、主君は何も言わず、しかし機嫌悪そうな顔でトンネルをもう一度指さした。

 確かに近寄れば声は届くだろう、そうで無くとも近寄ってしまえばあんな小さな女相手にこちらが劣るわけもない、どれだけ嫌がっても無理矢理縄を奪えるだろう。

 しかし、トンネルに足を踏み入れようとすると何故か嫌な気になった、あちらには行ってはいけない気がする。

 だが躊躇っていたら主君が苛立った顔でこちらを蹴飛ばそうとしてきたので、慌ててトンネルの中に駆け込んだ。

 トンネルの中は暗かった、暗いくせに不思議と女の身体と縄だけはぼんやりと見える。

 縄を辿って女に近寄る、妙な音が聞こえてくることに気づいたのは、女まであと四歩程度の距離まで近付いた頃だった。

 肉を叩くような、潰すような音だった。

 背筋がぞわぞわと怖気立つ、音の正体を見たくない、それを見てしまえば自分の中の何かが壊れる気がした。

 それでも足はさらに早まる、だけど正面からは見たくなかったので背後から女の手元を覗き込んだ。

 真っ赤に濡れた白い右手が、襤褸の縄をしっかりと握り込んでいる。

 そして女はもう片方の手で先が尖った石を掴み、何度も何度も何度も何度も右の手首に振り下ろしていた。

 手首の半分ほどが抉れ、砕けた骨が露出している。

 それでも女は石を振り下ろす手を止めようとしない。

 抉って抉って、千切ってしまうつもりなのだと気付いた。

 そんなことをしなくても手放してしまえばいいのに。

 小さな唸り声、ボトボトと透明な滴が零れ落ちている。

 それでも右手は縄を離さず、左手は石を振り下ろし続ける。

 あまりの痛々しさにただ見ることしかできなかったのは数秒、その数秒が過ぎ去ればもはや理性は消し飛んだ。

「やめろ!!」

 振り上げられた左手を掴む、それでも振り下ろそうとする左手から石を奪い取って、遠くに投げ捨てた。

 それでも女は諦めなかった、今度は抉れた手首を空になった左手の爪先でガリガリと引っ掻き始める。

「やめろ、頼むからやめてくれ!! 悪かった!! 謝るから本当にやめてくれ!!」

 左手を掴んでしっかりと握りしめる。

 何をやっているんだと思った、どうしてこんなことをさせてしまったのだろうかと己の所行を悔いた。

 女の小さい身体を抱きしめる、自分が何をしでかしたのかその罪をようやく思い出した直後、何も見えなくなった。


 意識を取り戻す、剣で貫かれた腹は痛むが生きていた。

 あまりにもひどい悪夢に全身から嫌な汗がふきだす、身体は動きそうもなかったがそれでも視線を彷徨わせて、妻の姿を見つけた。

 すぐに右の手首を確認した、抉れてもいなければ傷らしきものも見当たらない白い肌にひとまず安堵した。

 次に顔を見る、顔は青白く目蓋は固く閉じられている。

 その顔を見て背筋が凍りついた、死んでいるように見えたからだった。

 慌てて手を伸ばして頬に触れる、柔らかいが冷たいそれに指先が震える。

 絶望に心が裂けそうになる直前に、硬く閉じられていた目蓋がそっと開いた。

 見慣れた青がぼんやりとこちらを見ている。

「よかった……いきてた」

 安堵でこぼれた声に、妻がハッと目を覚ます。

「っ!? 意識が、もど……お、お医者様を……!!」

 立ち上がろうとした妻の手をつかんで首を横に振る。

「悪かった。本当に悪かった。もう二度とあんなことは言わないと約束する。……だから、そんな顔をしないでくれ」

 動けなくなった妻にそう言うと、青色が滲んで涙が溢れ出す。

 泣かせたくはなかった、一方的に自分が悪いのでただ謝ることしかできない。

 自分の言い分だって酷いものだ、一方的に傷付けておいて傷付いていないふりをしろと言っているようなものだった、自分のどうしようもなさに自分でも呆れる。

 それでもやっぱり妻のそういう顔は見たくないので、今の自分には謝る以外のことはできなかった。


 自分が生きているのは奇跡のようなものだったらしい。

 何度も生死の境を彷徨っていたそうだ、何故意識を取り戻したのかわからないとも医者に言われた。

 義妹に付き添われて一旦家に戻った妻と入れ替わるようにやってきた義弟に「全快したら覚悟しろ」と言われてしまった。

「姉を泣かせるなと言ったはずだが? アレがどれだけ泣いたと思っている? おい貴様黙ってないで答えろよ」

「……すまなかった」

「謝って済む問題だとでも? やはりお前のようなでくのぼうに嫁がせるべきではなかった、離縁しろ、離縁」

「それはできない」

 殴り飛ばす程度の罰なら甘んじて受けるつもりだが、それは受け入れられなかった。

 自分は生きて、彼女のそばで彼女を守り続けなければならない。

 それが夫である自分が果たすべく責任であり、あんなふうに泣かせてしまった彼女へのせめてもの贖罪だ。

 義弟はこちらの顔をしばらく睨みつけて、大きく舌打ちしてから溜息を吐いた。

「次あんなふうに泣かせたら。殺してでも引き剥がしてやる」

「……次はない。絶対に」

「どうだかな。随分とみっともないことを言ったらしいじゃないか」

 言った、確かに言った。

 そのせいで随分泣かせてしまったことも理解している。

「また同じことを言ったら本当に殺してやる。……本当に呆れたよ、主人だってお前があんな腑抜けたことを言ったと知ったら激怒するだろうよ」

「そうだろうな、うん。すごく怒ってた。蹴飛ばされたし」

「は?」

 何を訳のわからないことを言っているんだ、とでも言いたげな義弟に「夢を見たんだ」と言った。

「主君が蹴飛ばして追い返してくれて……彼女が命綱を握っていてくれた」

 もう何年も前に自分達の不手際で死なせてしまった主君は、きっと自分を追い返すためにあんなところにいてくれたのではないか、と思っている。

 というかあの時はただ不機嫌だなと思っていたが、あれは激怒していた、怒るととにかく口数が少なくなる人だったので間違いない。

「でも、あいつ……命綱を握ってる手を切り落とそうとしてたんだ……先が尖ってるだけの石で何度も何度も手首を叩いて、潰して……半分くらい、抉れてた……それでもやめようとしなかった……俺のせいだな、俺があんなことを言っちまったせいで、あんなことさせちまった」

 死にかけて、朦朧としている時に泣くに泣けないような酷い顔で自分の顔を見下ろしている彼女に自分は確かにこう言った。

 これでやっと、主君のところにいける、と。

 言った直後に彼女が大きく目を見開いたのを辛うじて覚えている。

 本当に酷いことを言った、よりによって彼女にだけはそれを言ってはいけなかった。

 主君に先立たれ自暴自棄になって、死ぬ気で戦いに身を興じていたかつての自分がそれでも死なずに済んだのは、それなら一緒に死んでいいかと虚ろな声で言った彼女を死なせたくなかったからだった。

 心の底から死にたいのなら自分にそれを止める資格はない、そう言って親友の死すら見逃してしまった愚かな彼女が自分の信念を曲げて生かしたのが自分だった。

 そんな自分が心の底ではまだ死にたがっていたと思ったのなら、彼女はただひたすらに自分を責めた筈だ。

 本当に愚かで、だからこそ愛おしい。

「……貴様がここに運び込まれてしばらく、何度か本当に危なかったんだ。それで医者が姉に『声をかけてあげてください』とか『手を握ってあげてください』とか言ってたんだ。時々身内の声やら何やらで意識が引き戻されることがあるらしいから、それを狙ってそう言ったんだろう。だが姉はただ立ち竦んでいたよ。本当は死にたいのに自分がそれを止めてはいけない、って言ってボロボロ泣いて……だがそばを離れそうとはしなかった」

 小さな声でそう言った義弟に「そうか」とだけ。


 妻が戻ってきた、義弟は気を利かせたのか特にそういった意味合いはないのか帰っていった。

「手を、握らせてもらえないか?」

 青白い顔でどことなく気まずそうにしている妻にそう頼むと、白い手を差し出してくれた。

 その手を掴んで両手で包む、とても冷たい手だった。

 それでも柔らかく傷もないそれを握っていると、なんだかとても安心した。

 しばらく互いに無言だった、妻は時折何かを言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。

 何もせずにじっとしていると、意識が時々飛びかける。

 それでもその手を手放したくなかったから、目を開き意識を保つ。

「……そばにいますから、寝たほうが」

「いやだ」

 首を横に振ると妻は小さくみじろぎした。

「…………あの」

「生き残ったことに後悔はない。死にたいだなんて二度と言わない……なんていっても信用ないか……」

 それでもと小さな掌を固く握り締め、もう一度誓う。

「それでも、お前を一人にはしたくないし、死なせたくないから……ちゃんと生きるよ」

 返事はなかった。

 それでも小さな掌はゆっくりとこちらの手を握り返してくれたので、信用してくれなくても覚悟だけは受け取ってくれたのだろうと、勝手に思い込むことにした。

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命綱 朝霧 @asagiri

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