結びの巻「寂桜散華」(その二) / 拾遺
(……姫よ、姫よ!)
蜘蛛の姿に戻された土蜘蛛には、人の声は出せない。彼は心の声で叫ぶ。
(救え、どうか……蛍を、蛍だけは救ってくれ!蛍は、蛍は!!)
みしみしと軋む体。縮む!始め庵を塞ぐほどであった土蜘蛛の身体であったが、寂桜の経が進むにつれて、雪玉が陽の光に溶けていくようにみるみると小さくなっていく。一畳から半畳、やがて犬ほどに、猫ほどに、鼠ほどに!そして遂には、人の手のひらに収まるほどの姿に。縮むだけではない、目はかすみ耳も遠くなり、八本の脚も力を失い、縮んだはずの身体が逆に余りにも重い。
(蛍は……初めからわしと蛇神との戦を止めるつもりだった……わしがあの時……蛍の言葉に……従っておれば……我らは皆全てこんなことには……
姫よ、頼む、頼む……蛍だけは……蛇神よ、あの時
心の声も消えかけ、姿は縮み色は干からび、その命も最早これまでかと思われた時。
姫の誦する経の声が変わる。土蜘蛛を責めていた鬼気が消えたのだ。
「衆生被困厄、無量苦逼身、觀音妙智力、能救世間苦。
具足神通力、廣修智方便、十方諸國土、無刹不現身……」
冷たく澄んだ響きはそのままに、ただ穏やかに敬虔に。
「種種諸惡趣、地獄鬼畜生、生老病死苦、以漸悉令滅。
眞觀清淨觀、廣大智慧觀、悲觀及慈觀、常願常瞻仰……」
やがて。
「無垢清淨光、慧日破諸闇、能伏災風火、普明照世間……」
袱紗の上で、蛍の尾が薄く仄かに、やがて明らかに輝きを灯し始めた。そして庵の室内の狭い空間に、ポツリ、ポツリと次から次に灯る小さな蛍火。それらはたちまち庵を満たしたかと思うと、蛍の虫の体を取り巻いて凝集する。初めはまるで光る雪達磨か案山子の様な影、やがてそれが腕、脚、頭と、輪郭のぼやけた人の形を成していく……そして!
「蛍!今です、珠を取りなさい!!速く!!」
寂桜の声が庵の空気を切り裂いたのと、蛍火の中から現れた白い指が白珠に届いたのは、いずれが先か。
その瞬間、蛇神の最後の白珠は微塵となって、庵の朽ちた床に一面に散った。
土蜘蛛は目を覚ました。
「わしは……何故……」
生きているのか、と。怪訝な顔で目だけでぐるりと周りを見渡す。まず視界に入ったのは、ぼろぼろに朽ちた天井。そしてその感触に気づく。どうやら自分は脚を投げ出して床に座り、誰かに背を抱かれて寄りかかっているらしい。何者か?土蜘蛛が背を反らして背後を見ようとする、その先手を取るように、自分の肩越しに現れ覗き込む顔、その懐かしい面影。
「大殿様……ああ大殿様!」
「……蛍……蛍なのか!!」
弾かれるように背後に向き直る土蜘蛛の前には、かの日とまるで変わらない、美しいいにしえの女房姿の蛍がいた。だが彼がそうと観止めた瞬間、その姿は消える。蛍が彼の胸に飛び込み顔を埋めたからだ。ずしりとした彼女のその体の感触、土蜘蛛もまた思わず腕を回して掻き抱く。しばし我を忘れてそうしていた土蜘蛛であったが。
「……!そうだ姫、姫は?」
慌てて庵中を見返した土蜘蛛と、見守っていた姫の目が合う。
そして姫は喜びといたわりに満ちたその目で、にこやかに頷き、語りかけてきた。
「土蜘蛛殿?私が人を化かす技はどうです?
……私は今や八百比丘尼、立派な妖になったものと年来思っておりました。総大将のあなたから、是非お墨付きをいただきたいものですが、いかがですか?」
「では姫、其方は……」
「土蜘蛛殿、確かにあなたは私と蛇神さまの憎い仇、でも、だからこそ!その仇であるあなたを御救い出来てこそ、蛇神様の御仏への御懺悔は真に成就なされる。私にはわかります、蛇神さまの御心が。自ら護法の鬼女になるとお誓いされた蛇神さまが、我が身を捨てて蛍を救わんとなされるあなたを見殺しには決してなさらない。私にはわかっておりました。
もちろん私の心ももとより……お忘れですか?私は『蟲愛づる姫』、蛍も蜘蛛も、私の古い心の友達。どうして命を奪うことなど出来ましょう。
それに、知っていますよ?土蜘蛛殿あなたは、寂連様が洞の宮にいらしたあの時、私にかけた眠りの術を解いて下さっていた……蛇神さまの最後のお言葉を、せめて私に聞かせようと思われたのでしょう?
氷の中で見た蛇神さまの最後のあのお姿、聞いたあのお言葉。確かに私にはつらく悲しいものでした。けれどもし、私がそれを知らなかったら、取り返しのつかない悔いが残る。あなたはそうお考えになられた。そうですね?
私はお恨みなどしておりません。ずっと感謝していたのです、あなたに。
ですが土蜘蛛殿。始め私をここに訪れた時のあなたは、わたしには捨て鉢に見えました。どうとでもなれ、するが良い、と。でもそれは覚悟とは違うものです。いかに蛇神さまがあなたをお救いしようと思っても、それでは念が届かない。
私はあなたを脅かすことにしたのです。あなたの言う通り、まずあなたの命の力を奪う……もう一息であなたが死ぬ、際の際まで。それでもあなたが蛍の命を望むなら、その時あなたの覚悟が極まり、あなたの命の力で蛍はきっと蘇る。そして、蘇った蛍がきっと!あなたを救おうとするでしょう。
土蜘蛛殿、実はあなたはこの庵に来た時に、定めを二つ破っていたのです。
願い人は白珠の秘密を知っていてはならない、これが一つ。そしてもう一つ、願い人は、必ず一人でこの庵に来なければならない!あなたは蛍をここに連れてきてしまった……でも今度だけは、かえってそれが良かった。
蛍がいてくれたおかげで、私は安心して術を用いることが出来た。何もかも、蛇神さまと御仏のお計らいだったのでしょうね。
……土蜘蛛殿?」
不意に。姫はいたずらな微笑みを浮かべる。
「あなたのそのいでたち。もうすっかり今の人の世に馴染んでいらっしゃるご様子。今あなたは、一体何を?どんな風にお暮しに?」
一瞬ポカンとした土蜘蛛。だがすぐに、ほろ苦い微笑みを返して言った。
「姫よ。どうか笑うて下さるな。今、わしは……人間の若い者達に、茶の湯の道を教えておるのです。わしは人よりも古いことに、古式の事跡や作法に詳しいと、その道で重宝がられていましてな。昔のことを記した書物なども書いております。
茶道家、土屋蔵人……そんな人の名を名乗って」
姫と蛍はまぁと感嘆の声を合わせる。
「そうですか。ふふ……あなたには、今の人の世に居場所がちゃんとあるのですね。良かった……
土蜘蛛殿、いいえ、土屋さん、蛍によく教えてあげて下さい。蛍もあなたと同じように、人の暮らしに入っていけるように。蛍?これからあなたも人の世で人と交わって暮らすのですから。土屋さんによく教えていただきなさい、今の人の世での暮らし方を。
……そうですね、まずは!『大殿様』は改めることですね。その呼び方では、土屋さんのお弟子さん方がびっくりなされてしまうことでしょう。ただでさえこんなお若い奥様が急に現れたのですから……ね?」
嬉しそうに諭す姫。だがそこで、その声は急に静かになる。二人がはたと、更に耳を澄ますのを見て、姫は続けた。
「それと土屋さん、あなたにもう一つ、お願いがございます。
あなたは書物をお書きになるとのこと、出来ましたら、八百比丘尼について一つ、世に著して下さい。ただし……あくまでただの言い伝え、ただの御伽噺ということにして。そういうふうにお話を広めていただきたいのです。
蛇神さまの白珠は、今宵をもって最後の一つを尽くしました。今後もし、誰かが願いをもって私を探し訪うようなことがあっても、お気の毒なことになってしまう。もうどなたの願いも叶えて差し上げることは出来ないのですから。
私は、嘘の得意だった八百比丘尼寂桜は、その最後に。これから御伽噺の嘘の中に雲隠れしたいのです……そう、それが御仏のお定めになったこと……」
姫はそこでゆっくりと自分の指先を見て、そして二人に差し伸べるように手を伸ばす。これを見よ、と。
姫の白い指先からこぼれる白い砂のようなもの。それはさらさらと落ちては、床に落ちる前に宙に溶けるように消える。そしてその姫の指先は次第におぼろに、そして透明に透けていく……
「姫!」「姫様!」
「私の八百比丘尼としての命は、あくまで蛇神さまのご懴悔行を成り代わって
ああ、蛇神さま……」
砂時計のように。姫の体の輪郭の殻から砂は外にこぼれ、その姿は薄れていく。だが姫は陶然と、そして安らかな顔のままで。
「お待たせいたしました……今、桜子は御許に参ります……浄土なれど、地獄なれど、たとえ何処へとも……御仏の御心のまま、御身のもとに……
ようやく……」
ただ見守るばかりの二人。涙に震える蛍の肩を、土蜘蛛は抱き支える。やがてその姿は完全に消えたかと思われた。
だが唯一つ、その場に残された物。庵の朽ちた床の上に澄んだ月光が照らす、その桜の花びらのようなひとひら。
姫の体に残っていた、あの最後の鱗であった。
「……これは?なぜこれだけが……」
そっとその場に跪いて拾い上げた土蜘蛛。
「そうか、ならば……姫よ蛇神よ、いましばらく待たれよ」
強く頷きを一つ、彼はそれを押しいただいて、そっと懐に収めた。
〜拾遺〜
昨夜。土蜘蛛はあの庵のあった山を降りて、麓の町にとってあった宿に戻った。何の変哲もない簡易なビジネスホテルだった。やがて朝を迎えると彼は今度は貴船山目指して出立する。バスに電車、タクシー、人間達の交通機関を使って。そして道中、蛍には虫の姿をとらせ、あの袱紗に隠して懐に。今の人の世の人間の姿を見知らない蛍には、人の姿に上手く化けることは難しいと考えたからであった。
貴船に着いた彼はまた別の宿をとり、そこで夜の訪れを待つ。密かに彼が胸に抱くのは蛍と、姫の残した鱗と、彼自身のじりじりするような思い。
もし、土蜘蛛が妖としての力を自由に存分に揮えるのなら。こんなまだるこしい行程をこそこそと踏む必要などない、昨夜あの庵から一足飛びに、目指す目的地であるこの地に早駆けも出来たのだ。
(だが今のこの人の世では、万が一にもそれは見られてはならない……いや?
早駆けか……今のわしにそんなことが本当に出来たのか……?)
あれから更に人間達は変わり続けた。基督教、そして西洋科学。日ノ本にも次々と外の世界の人間の新しい術が伝わり、人間達はそれに馴染み使いこなしてゆく。人の世界は文明で一体となって、今やその網目は、かの日とは比較にならない程強固に揺るぎない。
(そして今はこのわしも……私も。その中でその恩恵を借りて、居所を盗んで生きている……これからは、蛍も……)
夜の訪れを待って宿を出て、貴船山を登っていく土蜘蛛。通常の開けたルートではない、草木を搔き分ける獣道だ。彼の目的地はそもそも山中深く、そしてまた、こんな時間にいかにも不自然な登山姿を、人間に見られるわけにもいかないからだ。
やがて辿り着いたその場所。
「ここだよ」切り立ったその崖に掌を当てて確かめると、懐中の蛍に声をかけた。
人の世に溶け込み紛れ、妖としての己れをひた隠し、むしろ忘れるように暮らして来た。こうして地の中を探る術を使うのも、およそ数百年ぶりではあるまいか、今の自分にそれが出来るのか?宿では半ばおじけていた彼の中に戻る、安心と自負。
「ここから掘れる。蛍、この先に蛇神の骸が眠っているはずなんだ。あれから時はたったが、蛇神の体は石、朽ちてはいないと思う。
土がかかる。窮屈で済まないが、君はまだそのまま私の懐に入っていなさい。
……さ、行くよ?」
土蜘蛛の言葉遣いはすっかり改まっている。それは、茶道家として弟子や同門の人々に触れる際の、土屋という人物の穏やかな振る舞い。今の人の世に蛍を導けという姫の諭しに、彼はまずそこから応えようとしたのだろう。
そして土蜘蛛は片手の掌で蛍の隠れている胸の辺りをそっと守るようにおさえ、もう片手で、昔と変わらぬあの技で地を掘り進んで行った。
「着いた、もう大丈夫だ。出ておいで蛍、今度は君に灯りを頼みたい」
掘り進むこと、およそ数十分。地の底に現れた空洞にたどり着いた土蜘蛛。彼の呼びかけに懐中を出て、こちらはまだ昔と変わらぬ女房姿を現した蛍が、青い火の玉の灯火をつけた。
「そうだな、変わらない……何もかも」
あれからすでに千年余。だが地底の洞の宮の跡は時が止まっていたかのようだ。そこには土蜘蛛が覚えている通りの、蛇神の息絶えたあの時と同じ光景があった。
そう、彼の眼前にはすなわち、白い石に還った彼女の亡骸が、静かに眠り続けている。しばしの間、厳かにそれを見上げていた土蜘蛛は、やがておもむろにその場の地に平伏して蛇神に額づいた。蛍もそれに従う。
彼らの間にあった怨讐に、今は語るべき言葉は消えた。一切の音の無い地下の世界で、二人はその静寂を守るように、なお一層息を潜めて礼拝したのだった。
「蛇神よ、いや、蛇神殿……」
やがて顔を上げた土蜘蛛。蛍と共に蛇神の元に近づいて。
「姫君から預かったものがある。これは其方の元にあるべきもの。お届けに参った」
懐中から取り出した、姫の残したあのひとひらの桜色の鱗。それを土蜘蛛は、鎌首を垂れた蛇神の亡骸の、頬の辺りにそっと置いた。
すると。
「おお、これは……!」「大殿様!」
姫の鱗の触れた辺りが俄かに灼熱し、溶岩の小さな玉となってむくむくと湧き立つ。それが姫の鱗と一つに溶け合い、涙のように蛇神の顔を流れ落ちると、地面で形を成したのは!
桃色の、小さな石の野槌。そしてそれは命を持っていた。蛍の胸に勢いよく飛び跳ねて来たのである。抱きとめた蛍は目を丸くしながらも、たちまち愛おしげにその背を撫で始めたが。
「蛍!危ない、下がりなさい!」
土蜘蛛が急ぎ蛍の腕を引き、後方へ飛び退く。蛇神の石の亡骸の全身に、俄かに亀裂が走ったのだ。そしてたちまちそれは微塵となって崩落した。
巻き上がる砂煙、だが二人は身じろぎもせずそれを見つめ続けた。やがて視界が晴れると、蛇神の骸は形を失い、ただ白い岩が砕けて山となっているのみ。全てが無に帰したことを認めて、土蜘蛛と蛍はお互い目を見交わす。
「蛇神も待っていたのだね、ここで、姫を。これでやっと……」
「大殿様、ではこの野槌は如何いたしましょう?これは、この子はきっと、蛇神殿と姫様の忘形見、お二人の命が乗り移っていらっしゃる。
……お育てさせていただきたいと思うのです。よろしゅうございましょうか?」
「そうだね、そうすべきだ。孤独こそ蛇神が迷った無明の世界、その子はこんな地の底でたった一人であるべきではない。愛しむ者が必要だ。姫も蛇神も、きっとそれが願いだろう。
——それに旧い私達も、役目を無くしたわけではなかったということだ——。
蛍、君ならいい。もちろん私も一緒に見守るよ。よろしく頼む」
「大殿様……」
だが土蜘蛛はそこで、クスリと笑ったのである。
「ふふ、確かにその『大殿様』は困るね。そうだ、私も『蛍』ではいけないな……
【蛍子】、これから君に私のことをなんと呼んでもらおうかな?」
「え?あの、それは……」
彼より一層困った顔の蛍に、土屋は微笑みを返して。
「うん、まずはそれを上で一緒に考えようか。それにその子にも名前がいる……
さあ行こう」
地上を目指し、二人は洞の宮を去って行く。
憎しみと愛、悠久の過去が静かな眠りに就いたその場所から、今。
新たな命を一つ抱いて。
(完)
逆理桜紅葉(さくらともみじ さかさのことわり) おどぅ~ん @Odwuun
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