結びの巻「寂桜散華」(その一)
「寂桜、いや、姫。このわしの声、よもや忘れてはおるまい?」
その夜、白珠は、ついに最後の一つを残すのみ。亡き蛇神に成り代わっての、千年越しの懺悔供養。その満願成就を期して、月下の庵に姿を現した寂桜の元に訪れたその【人物】。
「あなたは……土蜘蛛……ですね?」
寂桜の鈴虫のような声に、ごくわずかの震え。
寂桜の前に現れたその初老の男。一目見た瞬間から、違和感はあった。やや長く伸ばした白髪混じりの、後ろに撫で付けられた髪は良く整えられ、一糸も乱れてはいない。服装は、黒の作務衣に雪駄。柔らかくのりの効いた折り目は洗い立てに袖を通したばかりのよう、そして一点の泥汚れもない履物。
まるで散歩の途中でふらりと近所の知人宅に立ち寄ったかのような、いたって無造作ないでたち……山深く、獣道の一本もろくに通じていない、探し当てるのも辿り着くのも困難なはずのこの庵でこの姿とは?
これは常の願い人とは違う。咄嗟にそう見てとった寂桜の心を見透かしたかのように、その男は重々しい声で静かに言った。
「左様。わしはまさしく、その土蜘蛛だ」
「あなたが……何をしにここに参られたのです?」
不死の比丘尼となってこの方、遥かに千猶予年。その寂桜の顔に浮かぶ、彼女自身すっかり忘れていたと思っていた、動揺という感情。
「まさか……」
「いや違う。姫、そなたの行を妨げるつもりは決してない」
寂桜の問いを先読みしたのか、土蜘蛛は即座にそう打ち消し、
「そなたのこの庵を訪れる者は、思うところは皆同じ。このわしにも……命を救いたい者がおるのだ」
沈痛な面持ちで、土蜘蛛は懐から小さな袱紗を取り出した。その中に、一匹の虫。だがそれは、土蜘蛛の掌の上でこそりとも動かない。
「蛍が……目を覚まさぬのだ……あれ以来……」
蛇神によって、一時姫の体もろとも氷漬けにされた、土蜘蛛と蛍。
「大百足も、猫又も、毒蛾主も他の者も。皆あの時命果てた。だがわしは生きながらえた……蛍がわしを守って、散じていく皆の霊気の残りをかき集めながら、氷の中でわしの体に自分の霊気と共に注いで……それで……
ちっぽけな蜘蛛の姿でかろうじて生き延びたこのわしは、同じく虫の姿になって動かなくなった蛍の体を抱えて、寂蓮法師どのの背に取りすがった。そうしなければ、あの地の底からは出られなかった。仏を憎み呪い続けていたこのわしが、僧の力を頼りにするとは卑怯千万……だがそれも、すべては蛍を救いたかったこそ。
そう、蛍はまだ命尽きてはおらぬ、わしにはわかる。だがあれから千年たっても蛍は霊気を取り戻さん、かえって弱っていくばかり。このままではいずれ……頼む……!」
血を吐くような声で、掌に乗せた蛍を差し出しながら、土蜘蛛は荒れ果てた庵の床に深々と額づいた。
「よりによって、このわしが!姫、さぞや図々しいと思うであろうな。どの面あってこんなことが言えるのか、と。だがもうわしには、そなたにすがる他は無いのだ!」
寂桜は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。思ってもみなかった土蜘蛛の出現と、思いもよらぬその言葉。さしもの八百比丘尼といえど、胸の騒めきを抑えるにはしばしの時間を要したのだろう。だがやがて、寂桜はいつもの、鈴虫のような冷淡な声に立ち返って言った。
「そうですか、ですが。あなたの願を叶えることは出来ないかも知れません。あなたはあの氷の中で私と共に、蛇神様と寂蓮様の話すところを聞いていたはず。それにおそらく……これまでも。姿を隠して私が術を施す様を何度も見て来た、そうではありませんか?
つまり。あなたは蛇神様の白珠の秘密を知っている。
ならばわかっているはずですね?私の術は、本当に命懸けの願でなければ叶わない。白珠で自分も助かると知っているのでは、術に必要な願い人の覚悟は保てない……」
「他の者ならそうであろう。だが!このわしならば。
どうだ姫、いや寂桜殿。このわしが蛇神に、白珠に頼らず、本当にこの命を捨てると言ったならば?
元よりこのわしは、そなたにものを頼めるような立場ではない。蛇神にしてみればなおさら、むしろ恨み骨髄であろう。そなたはどうだ?
わしの命を取って、蛇神の仇を討ちたいとは思わぬか?蛍の命がかかっておるのだ。わしは俎板の上に載せられた魚のようなもの、今ならどうしようとそなたの思いのままだぞ?
わしは、己の命など求めぬ。だがわしから取ったその命を、螢にくれてやってくれ、返してやってくれ。それさえ叶えば……」
土蜘蛛のその言葉を、寂桜は身じろぎ一つなく、ただ静かに聞いていた。破れた屋根から庵に降り注ぐ月光、その冷たさそのままの眼差しで。
「……いいでしょう」ついに寂桜は静かに口を開いた。
「土蜘蛛、あなたがそれほどまでに求めるのならば。私の行は本来なら、蛇神様の白珠を全て砕き、それを蛇神様の御懺悔の証として御仏にお示しするのが本願。あなたの命を取って蛍を救ったとて、それは私の行には何の足しにもならない。ですが白珠は最後の一つを残すのみ、満願成就には次の願い人を待てばよい。今あなたの望みを聞いたところで、たいした寄り道でもありません。そしてもし、蛇神様にあなたに対するお恨みの心がこの世に残っていらっしゃるならば。
……確かに今夜は千載一遇の機会。いいでしょう、やってみましょう。
ただし。こんな条件で術を用いるのは、私にとってもこの千年で初めてのこと。正直に言っておきます。何が起こるかは、しかとは約束出来ませんよ?
あなたの望み通り、あなたの命を引き換えに蛍が蘇るかもしれません。あるいはこれまで通り、白珠が砕けてあなたも助かるかも知れない。
あるいはやはり、白珠の秘密を知った上では術は叶わないかも知れない。何も起こらず、あなたの命は無事な代わりに、蛍を救うことは出来ないかも。
そしてあるいは!
蛇神様がただあなたの命だけをお取りになって、蛍のことはお救いにならず放っておかれるかも知れない、土蜘蛛、あなた一人の無駄死にで終わるかも!!」
「それは!」と、弾かれたように寂桜を見返す土蜘蛛の次の言葉を、鋭く制して。
「なぜそうならないと思いますか?蛇神様があなたに恨みを残しているかも知れない、そう言い出したのはあなたではありませんか?蛇神様がその恨みを晴らすおつもりなら、あなたの望みなど一切叶えないのが一番。土蜘蛛、そうは思いませんか?」
これまで寂桜に乞いながらも、どこか傲岸な態度を崩していなかった土蜘蛛の顔に、初めて浮かぶ動揺と恐怖。そして寂桜の彼を見るその眼光は、あの蛇神の凍気にも勝る冷酷。土蜘蛛はその視線との対峙に耐えかねたのであろう、ギリギリと歯ぎしりしながら、掌中の蛍に目を移し、食い入るように見つめる。
ややしばし、そして。
「許せ、蛍よ……お前から預かったこの命、返すことは出来ぬかもしれん……こんな姿のお前を残して一人、先に冥土に参るやもしれぬ……
だがこの千年あまり、手を尽くしてお前を蘇らせる方法を探し試みたが……全ては……それに今の世は人間のもの、我ら
頼む、寂桜殿……!」
土蜘蛛は額に苦悩の汗を浮かべながらも、比丘尼にきっと向き直った。
「……いいでしょう!」
その顔を変わらぬ氷のような顔で見下ろすと、寂桜は容赦のない声で、三度そう言った。そして懐から取り出すのは、最後の蛇神の白珠。それを、ひざまづく土蜘蛛の顔面の床にコトリと置いた。
「あなたは自分の命はいらないと言いました。だからこれを取る必要はありません。ですが、これはここに置いておきます。蛇神様のお出ましの証として。
今ここにあの蛇神様がいらっしゃる、土蜘蛛、そう思いなさい。
……始めますよ!」
これまでと同じく、寂桜は数珠をつまぐりながら、静かに観音経を唱え始めた。
「爾時無盡意菩薩即從座起、偏袒右肩合掌向佛而作是言……」
全ての衆生の苦悩の声を聞き、救いの手を伸ばすという、観世音菩薩。その徳を称える経文が、寂桜の薄く開いた唇の間から、あの鈴虫の声で滑り出す。
あの、鈴虫のような冷たい、すべてを突き放すような声。土蜘蛛はじっと座したまま、目を閉じ歯を食いしばって来るべき事を待ち構える。
(蛇神のあの最後、己の命そのものを吐き捨てる苦悶の様。もしわしが蛇神であったなら)
同じく命を捨てようという自分の身にも、あるいは。
(憎き仇のこのわしに、同じ思いをさせようと思うであろうな。いや、無論それも覚悟の上だが……)
やがて。
「世尊妙相具、我今重問彼、佛子何因縁、名爲觀世音……」
経は偈文にたどり着いた。寂桜が一際声を強めた。途端!
(……ぐ!)
あらかじめ構えていたはずの土蜘蛛が、しかし、その感覚にたまらず声にならない唸り声を一つ。
「假使興害意、推落大火坑、念彼觀音力、火坑變成池……」
腹と言わず胸と言わず、突然体内に膨れ上がる灼熱の激痛。
「或漂流巨海、龍魚諸鬼難、念彼觀音力、波浪不能沒……」
そして背骨から折られるように全身からがくりと力が抜ける。
「或在須彌峯、爲人所推墮、念彼觀音力、如日虚空住……」
その様を見て取ったかのように、寂桜の誦する経はさらに勢いを増す。
「或被惡人逐、墮落金剛山、念彼觀音力、不能損一毛!」
あまりの苦痛、あまりの虚脱。もはや土蜘蛛は、居住いを正していることが出来なくなった。頭を床に、前のめりに倒れ伏す。そして次第にその姿が崩れ始めた。仮初めに変化していた人の姿を、彼は最早保つことが出来ない。背を丸めたその姿がそのまま、一瞬に膨れ上がったかと思うと、寂桜の小さな庵の室内が黒い大蜘蛛の体でいっぱいに満たされた。
否。膨れ上がったのではない。総大将として日ノ本の妖を統べていた彼の本来の大蜘蛛の姿は、実に小高い丘一つにも匹敵する威容だったのだ。すなわち。
彼は縮んだのである。寂桜の経に、術に霊気を吸い取られて!
恐るべき苦悶の中で、しかし彼は、彼の眼前の床に目を凝らす。
紫の小さな袱紗の上に小さな虫、蛍。だがそれは、事ここに於いても未だ微動だにしない。干からびて死んだような姿はまるでそのままだ。
(やはり蛇神は……やはり……姫は……)
姫は、と。土蜘蛛は視線を上げ、寂桜のその顔に移した。目を半眼に、一心に経を唱えると見えていた寂桜、だがその瞬間、くわと目を見開いて土蜘蛛を見返した。
……その凍てつく眼光!!
(わしもろともに……蛍も見殺しにする気であったか……!)
恐怖する土蜘蛛の心を知ってか知らずか。
「或値怨賊繞、各執刀加害、念彼觀音力、咸即起慈心!」
或遭王難苦、臨刑欲壽終、念彼觀音力、刀尋叚叚壞!」
或囚禁枷鎖、手足被杻械、念彼觀音力、釋然得解脱!」
呪詛諸毒藥、所欲害身者、念彼觀音力、還著於本人!」
或遇惡羅刹、毒龍諸鬼等、念彼觀音力、時悉不敢害!」
若惡獸圍遶、利牙爪可怖、念彼觀音力、疾走無邊方!」
蚖蛇及蝮蠍、氣毒煙火燃、念彼觀音力、尋聲自迴去!」
雲雷鼓掣電、降雹澍大雨、念彼觀音力、應時得消散!」
寂桜の、姫の経は、鞭打つように容赦なく響き続く……
(続)
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