十四の巻「白珠縁起」(その二)

 寂蓮は洞の天井を仰いで瞑目する。

(御仏よ……蛇神に引導を渡せと、この寂蓮にお命じか……この、鬼子母の心に目覚めし蛇神に……!)

 数多の命を塵埃の如く蹂躙し続けた蛇神、悪行に相応の報いは当然。寂蓮はそう思ってここまでやって来た。そう喝を加えるつもりであった。だが彼の眼前の蛇神は、己の愛しい姫、ただ一人のために進んで命を捨てようとしている。

 今、その蛇神を殺せ、と。それは余りに酷なる仏勅。寂蓮は迷う。

(御仏はむしろ、わしの修行の至らなさに大喝を下されしか……南無……)

 目を再び見開く。彼の目前には、氷に閉じ込められた姫の姿。救わねばならない。そして奥に視線を転じれば、一心に力添えを乞う蛇神の眼……救わねばならない!

「あいわかった!」ついに寂蓮は決然と。

「この寂蓮、御仏にお誓い申し上げようぞ。蛇神よ、そなたの願い、違わず共に果たすと!!……後のことは全て、このわしにまかせよ。安心するがよい。

 わしと共に御仏の御慈悲を念じよ!!南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏……

 妙法蓮華経、陀羅尼品第二十六!!」

 経題を獅子吼する寂蓮の声が、洞内を揺るがした。次いでゆっくりと厳かに、経を誦していく。

「おお……」喜悦と安堵にため息一つ、蛇神は寂蓮の唱える経文に耳を傾ける。

(これは?姫からは聞いたことのない経であるな……いや!)

 それも当然か、蛇神は思う。姫は言った、自分の知る経は、数多あるほとけの経のほんの一部に過ぎないと。そして今自分が求めているのは破邪の経、すなわちこの世の魔である自分を討ち滅ぼす力だ。たとえ習い覚えていようといまいと、姫なら自分にそんな経を唱えるはずがない。きっとこれでよいのだ……

 だが経が進むうちに、蛇神は次第に困惑を覚え始めた。

安爾あに曼爾まに摩禰まね摩摩禰ままね旨隷しれ遮梨第しゃりて賖咩しゃび賖履多瑋しゃびたい……」

(しかし何だこの経は?何を言っておるのだ?わからぬ……まるでわからぬ……?)

 陀羅尼品。仏の示す大慈悲に応えるべく、菩薩が、諸天善神が次々と現れては、陀羅尼すなわちを唱えていく。

 蛇神は元より、人の言葉を直接解するわけではない。読心の通力を用いて、言葉の奥の意味を直接捉えるのだ。そんな蛇神からすると。

痤隷ざれ摩訶痤隷まかざれ郁枳うっき目枳もっき阿隷あれ阿羅婆第あらはて涅隷第ねれて涅隷多婆第ねれたはて……」

(この経は何だ?意味のない音と声ばかりではないか……?)

 そして彼女が期待する、最後の命の珠を吐くための力、その衝動は、経が進んでも一向に湧き上がって来ない。

阿梨あり那梨なり㝹那梨となり阿那盧あなろ那履なり拘那履くなび……」

 蛇神の心は揺れた。

阿伽禰あきゃね伽禰きゃね瞿利くり乾陀利けんだり旃陀利せんだり摩蹬耆まとうぎ常求利じょうぐり浮樓莎柅ぶろしゃに頞底あっち……」

 都で随一と聞いたこの僧、だがもしや、それは自分の見立て違いなのか?蛇神の心にわずかの疑念が起こった、まさにその時。

「……喝!!蛇神よ、御仏の慈悲を信じられぬか?愚か者!!」

 あたかも蛇神の心を読んだような寂蓮の大喝。

「否、足りぬ!!もっと愚かになれ、己が愚を、無明を骨身に知れ!!それが御仏への懴悔の第一なり!!」

 天地に恐れるものを知らぬはずの蛇神が今、神将の化身のごとき寂蓮の威徳に首を縮める。その大鷹に狙われたのような姿を見据えて、寂蓮は再び経を誦し続けた。そして。

爾時有羅刹女等そのとききじょたちがいた一名藍婆ひとりめのなはらんば二名毘藍婆ふたりめはびらんば……」

「……?……おお……これは……」

 経文がそこに至った時。蛇神が何かに気づく。

「三名曲齒、四名華齒、五名黒齒、六名多髮、七名無厭足、八名持瓔珞、九名睪帝、十名奪一切衆生精氣……」

「……法師殿!おお、この経は……法師殿は!!」

 寂蓮は何故、蛇神にとっては奇異な、呪文ばかりのこの経を選んだのか。

是十羅刹女これらじゅうにんのきじょたちは與鬼子母并其子及眷屬倶詣佛所きしもとそのこどもそしてけらいたちとともにほとけをらいはいにおとづれ同聲白佛言こえをそろえてほとけにもうしあげた世尊みほとけよ我等亦欲擁護読誦受持法華経者われらもまたみほとけのおしえをしんじるものをまもり除其衰患そのうれいをのぞき若有伺求法師短者たとえだれかがほとけをしんじるもののよわみにつけこもうとしても令不得便そのきっかけをうばうことをおちかいしたい……」

 仏の大弟子である菩薩、そして天界の神々に続いて。経に現れるのは魁偉醜悪な鬼女達。かつては人を殺め喰らい恐れさせた彼女らは、だが今は深く仏に帰依し、仏法を奉ずる者を呪文によって護ると仏に誓う……

 蛇神の心に映る、寂連の思い、願い。

「法師殿は、この吾にもまた、護法の鬼女となれ、その列に連なれ、と……?」

「然り!!」寂蓮は声高々に、しかし今度は莞爾とした面で蛇神を諭す。

「御仏の尊き御教は無上甚深、ただ一生を持ってしては決して極めるべからず。さればこそ、我ら衆生は生まれ変わり死に変わって永遠に仏道を歩む、歩むことができる。すなわち!其方が、それは救いの道にとっては逆にであったのだ。だから其方は迷いに落ちた。

 蛇神よ!今、其方が自ら命を捨てるというのならば!いずれ御仏の賜れる来世の命を、今度はあまねく衆生の守護のために用いるとここに誓え、念じよ!!

 さすれば、御仏の慈悲は必ずや、姫と、そして其方自身を悪業より救うであろう。

 左様。そなたの命は、元より気高く尊い……尊いものであったのだ。此度は是非なく捨てるといえども、は、決して無駄にするまいぞ?

 ……即於佛前ただちにほとけのまえで而説呪曰じゅもんをとなえていった

 伊提履いでび伊提泯いでびん伊提履いでび阿提履あでび伊提履いでび泥履でび泥履でび泥履でび泥履でび泥履でび樓醯ろけ樓醯ろけ樓醯ろけ樓醯ろけ多醯たけ多醯たけ多醯たけ兜醯とけ㝹醯とけ……」

 鬼女が唱えたと経に言う、一際奇妙な、怪鳥の啼く声のようなその呪文。だがそれを聞いて、蛇神の体内ににわかに熱が湧き上がった。

「おお、おお……これは、あの時と同じ熱さ、痛み……これだ、これならば!

 これで吾は死ねる、最後の珠を吐ける……されば法師殿!今、最後に吾もまた、呪をもってほとけに報いん!!

 ただし吾の呪は声にあらず音にあらず、吾の吐き残す白珠そのものなり。

 吾はほとけの前に誓う。

 もし人有って、己が愛する者を、自分の命に引き替えても救わんと欲するならば、吾の白珠を抱き、一心に念じよ、と!

 そして願い人の心が誠であるならば!吾はその誠の心の通り!

 願い人の命を奪い思われ人に与え、それに引き替えて吾が白珠を砕き、そこに宿りし吾の命の欠片を、今度は願い人に与えん。すなわち願い人も思われ人も、共に救われるであろう……

 吾が奪いし命の数々、ここに残す白珠の数では、千分の一万分の一にも届かぬが……これがせめてもの……

 ほとけよ、否……御仏様!今こそ!!吾が懴悔の証、御照覧あれ!!」

 蛇神の声にならない呻きが、叫びが洞を揺する。鎌首をもたげ激しく体を震わせる蛇神、その蠕動は次第に腹から喉に伝わり登り、ついに!蛇神はくわと大きく口を開く。やがてそこから転がり出る、灼熱に燃える一滴の珠。

 そして蛇神は静かに首を垂れた。その両眼から、あの鬼火の輝きが、夕日が山の彼方に沈むように消えていく。

 蛇神は息絶えた。


「果たしたか……殊勝なり。南無……」

 寂蓮は厳かな面持ちで、動かなくなった蛇神の亡骸にしばし瞑目合掌し、その霊を弔うと。

「なればこの寂蓮も果たさねばならぬ」

 きりりと見開いた目を氷漬けの姫に移す。

 蛇神が吐いた最後の珠、それはまだ燃え続けていた。たちまち洞内の空気は熱気で充満する。そして姫を閉じ込めた氷の柱は見る間に水となって流れ落ち、細く小さくなっていく。

「む……」

 蛇神の珠の発する灼熱の輝きに、ようやく陰りが見え始めた時。ついに姫の体は氷中からむきだしに脱した。見計らっていた寂蓮は、氷の支えを失って倒れようとする姫の背を抱きとめる。

 姫の体を伝い流れ落ちる露。そして姫の体の鱗は、その流れの上に浮いた木の葉のように。ひとひらひとひら剥がれて姫の体をしばし滑り落ちたかと思うと、そのまま、冬の霜が陽の光を浴びたかのように宙に気化していく、その上にすがりついていた妖達の体をもろともに。

 そして鱗が流れ消えたその下の姫の肌は、赤子のような玉の肌。姫が己が身の罪として恥じてきたあの忌まわしい痣が消えている。寂蓮は蛇神の姫への最後の慮りに、心中で再び掌を合わせた。だが。

 姫の右の乳房の上に、ただ一枚残る桜色のひとひら。寂蓮は知らない、それは蛇神が最初に姫に与えた鱗。

(これは……あるいは蛇神にはまだ……?)

 霊となった蛇神、だがまだこの世に未練が、姫に執着が残っているのか?

「ああ……」姫の唇が震えた。蒼白だった姫の肌に血の気が戻ってきている。そして蛇神の珠からそれを見澄ましたかのように最後の光が消えると。

 姫がゆっくりと目を開けた。その目に涙をたたえて。

「蛇神さま……蛇神さま……おいたわしい……」

「……見ていたか、聞いていたのか?」

「はい、法師様……蛇神さまは、万世に続くはずの尊いお命を、ただこの私のためだけに……」

 姫は自分の胸にそっと手を添える。そしてあの最後のひとひらを押さえ抱いた。

「ああ、たとえ此岸彼岸に身はお別れしても、私の心はあなたと共に……」

(そうか……それが残ったのは蛇神の意にあらず、この姫の心の証であるか)

 寂蓮は姫の半身を抱き起こす。姫はそっと涙を打ち払って。

「法師様。どうかこの私に御仏の戒をお授け下さいませ。

 私は、尼になりとう存じます……」

 姫の体の無事を見届け、持参した女の衣を手渡すと、寂蓮は応えて。

善哉よきかな。それがよい。蛇神の霊を弔い、あの白珠を守り用うるのは姫よ、そなたの他に人はない。おそらくそなたは……いや」

 寂蓮はそこで言葉を切る。

 姫の胸に残った蛇神の最後の鱗、それは、いまだ姫が人ならぬ者であるという証。

(蛇神よ。姫を人の世に戻してくれよとのそなたの願い、違えることになるやも知れぬ。だがそれはこの姫の真の心、この寂蓮とて変えられぬ。何もかも御仏の計らいなれば……)

「なれば蛇神の前で、法名を授けようぞ。そなたはこれより釈迦牟尼仏の末の弟子。名は【寂桜】と名乗るがよい

 ……さ、共に参れ」

 寂蓮は姫を、比丘尼寂桜をいざなって、彼がもと来た暗い洞を登っていった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 ——平安中期、××4年に日本各地を次々と襲った未曾有の大災害は、様々な伝説を日本に残した。特に、上述のこの蛇神伝説は当時の実在の高僧・寂蓮法師を絡めたエピソードとして、極めて人口に膾炙している。

 伝説によればその後、時の帝に謁した寂蓮は、次のように帝に説いたという。

 ・蛇神は姫のあらわした仏の神力により見事討滅された。

 ・しかしその時姫自身も蛇神と共に命を落とした。

 ・都に現れた鬼女は姫ではなく、蛇神の最後の怨念によるものであり、それもすでに滅した。

 ・この上は国家安寧のため、蛇神は貴船神社の隠し神として密に祀り、姫を筆頭に蛇神の犠牲になった多くの人々の霊を弔う大喪の儀を執り行うべきである。

 これが××5年から今に続く京都大霊祭の起源と言われているが、あくまで諸説の一つであり、文献的な裏付けは薄い。例えば蛇神の貴船神社への合祀についても同社には一切公式の記録は残されていない。元から祀られている水神との説話上での混同ではないかとされている。 

 すなわち本稿も歴史研究の課題というよりは、文芸的に大きな興味ある民間伝承として、この伝説について一筆費やした次第である。


 なお、この伝説は古都に伝わる八百比丘尼伝説と結びついてもう一段の展開を成す。蛇神を滅ぼした後も実は姫は生きており、寂連のはからいによって一時、とある尼寺にかくまわれたが、蛇神の呪いを受けそのまま不死の八百比丘尼になったというのである。

 寂連の功業録に、彼が同じ時期、帝に尼寺の寄進を乞うたというわずかな(そして傍証の乏しい)記載が残されており、それがこの伝説の根拠とされている。蛇神伝説の派生として、無論歴史的事実ではないが、この伝説もまた民間説話として興味深く、かつまた無視しがたい文学的味わいを醸している。

 よって、これについては次号で改めて論考する。


 ——季刊・関西郷土史研究202X年夏・通巻第135号

  『京都大霊祭と蛇神伝説~民間伝承から読み解く古代災害~』

   寄稿 土屋蔵人(茶道家・郷土史家/敬称略)

 

 この続きは、結びの巻にあるでしょう。

(続)

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