十四の巻「白珠縁起」(その一)

「ほ、これは異な事もあるもの」

 寂蓮法師は首を傾げます。

「かの蛇神は乙女ばかりを求めると聞いていたが?わしのような皺だらけの坊主に、何の用があるのやら」

 寂蓮様は、仏法の学識においても徳の高さにおいても、この頃都で第一と名高い法師でありました。主上からも厚くご帰依をいただくほど。そしてことに、その清廉なお暮らしぶりが世に知られておりました。

 お望みとあれはどんな大伽藍のご寄進も受けられる身でありましたのに、そうしたことには一切目もくれず、都を少し外れた鴨川のほとりに庵を構えて読経写経の仏道三昧、請われればどんな下賤の身の上の者にでも弔いに赴き、謝礼はおろか、振る舞いの粥にすら口を付けずにお帰りになる。面と向かっての寄進は決してお受け取りにならないので、帰依する人々は仕方なく、庵の周りに黙って金品絹衣から米などを置いてゆくのですが、それも。僅かを残してほとんどを貧しい者に分け与えたり、あげくは、他の僧のためにご自分が寺を寄進してしまうという……その大変な高潔ぶりは皆に仰がれながらも、いささか頑固にすぎる、あれは少々変人、と思う都人も多かったのです。

 そしてこの時。鴨川の庵でいつものように、無心に法華経の観世音菩薩普門品を巻物にお写しになられていた寂蓮様の前に、あの人身御供を求める、松の枝を咥えた白蛇がそろそろと這い近づいて来たのでした。

「役にも立たぬこの老骨が余計な真似をすれば、民にかえって迷惑があるやもと黙っていたが……民に仇なすかの蛇神に、釈迦牟尼仏の末弟子として、言うてやりたい事はいくらでもある。いや。

 この至らぬ寂蓮の今生の修行はこれまで……最後に!無体千万なるかの大妖おおあやかしに仏勅をもって大喝せよとの、これぞ御仏の思し召しであろう。有難い!」

 写し終えた観音経の巻物におごそかに合掌して筆を置き、立ち上がった寂蓮様の面、それは一転、神将の一人とみまごうような厳しさ険しさ。

「白蛇よ、この寂蓮はこれよりお前の主人の下に参る。案内せよ!!」


 都から北、馬の背に揺られること数日、そこは貴船山でありました。麓にたどり着くと、寂蓮様の懐に隠れていた白蛇が地に滑り降ります。うむと一声、泰然と馬からお降りになられた寂蓮様が、獣道を登っていく白蛇に導かれて。

 たどり着いた洞の宮。黒々と暗い口を開けたその洞を、寂蓮様は、数珠をつまぐりながら静かな足取りで奥に歩いていきます。庵を発った時の険しいお顔はそのままに、しかしお心の乱れはまったく表れておりません。

 唯一つ、常と違うのは小脇に抱えた粗末な衣です。色柄からみて、それはどうやら女物。庵を発つ前に、白蛇すなわち蛇神が、寂蓮様に持参を強く求めたのでした。

 怪しいことと思いながらも、出立前、寂蓮様はそれを庵の近在に住んでいた農婦に乞いました。これが謝礼と寂蓮様が差し出したのは一反の絹、庵に山と積まれていた寄進の品から取ってきたものです。汚い野良着にその法外な値、農婦は腰を抜かさんばかりに驚いていましたが、

「その代わり、理由は問うてくれるな。高過ぎると思ったなら、在の皆にも分け与えればよい」

 寂蓮様はそう言い残して去ったのでした。今生の別れに、世話になった在の民にせめてもの礼のおつもりだったのです。

(それにしても奇妙、女の衣とは……?)


 暗い洞窟はいつ果てるともなく続いたが、白蛇の導く道程はどうやら一直線、一筋の脇道も無い。そして寂蓮に付かず離れず進む白蛇の眼には、蛇神が分け与えた通力によるものと見える、わずかな鬼火、それが不如意な足元を照らす。これならば先に進むのに然程の困難は無い、寂蓮はそう思っていた。

(かの大妖め、万事いやに丁重なことだ。何もかも計りかねる。が、すべては会ってみてのこと……)

 寂蓮の心中はむしろ、僧籍に身を置くものとしては似つかわしくない不敵。

(斯様な気分は何時ぶりか……かつて東国では夜盗に山賊、人も多く殺めた無法無頼の徒であったこの寂蓮。心改め、これまで御仏の御教をいくばくか修めたつもりのわしであったが、この期に及んで斯様に心高ぶるなど。つくづく未熟なことである)

 やがて。

(ほ……間もなく、か)

 たどり着いた洞の宮の、どうやらまもなく最奥。白蛇の眼の灯火と同じ色のほのかな灯りが、次第に明らかになって周囲の闇を消していく。もう案内は不要、寂蓮が歩調を速め、ずんと進んでいくと、洞は急に大きな空間となった。そしてそこに現れた蛇神の巨大な鎌首。

 だがその前に、ある別の物が寂蓮の目を奪う。

 大空洞の奥に蛇神、その目前、寂蓮からはより近くに、一本の巨大な氷の柱があるのだ。そしてその中に閉じ込められた異様な人影。若い娘の姿のようだが。

(なるほど、これがかの『蟲愛づる姫』とやら。鱗の肌に諸々の虫の群れ、間違いあるまい。だが?かの姫は蛇神の遣いと聞いたが?)

 都の外れに住まいなしていた寂蓮にも、噂は轟き聞こえていた。大納言の娘は蛇神に取り憑かれ、乙女を襲う鬼姫になった、と。だがそれが何故、主であるはずの蛇神の前で氷漬けになっているのか?

 寂蓮はその場を見回す。氷漬けの姫の足元には、いくつかの人の大きさの糸玉。それが何であるかは寂蓮にも見当がつく。しかしもう一つ、一際彼の目を引くのは、蛇神の鎌首のまさに鼻の先、地に転がり山と積もる、白い石の珠であった。

(あれは何だ)

 寂蓮の様々の疑念がそこに行きついた時、

「姫は……吾の遣いにあらず……鬼にもあらず……!」

 それを待っていたように、蛇神が語り始めた。

「姫には天地の間に一点の咎無し。まずは吾の言葉を聞かれよ。

 法師殿よ……吾はそなたに頼みがあるのだ……聞かれよ……」

 始め、白蛇の招きを受けた時より。寂蓮は、如何に蛇神の非道を断じようかとばかり思案していた。如何なる言葉でかの大妖を責めるべきか、と。

 しかし今、目の当たりにした蛇神のその様。寂蓮にはわかる。

(何かに余程打ちのめされたと見える……一体?)

 彼はすぐさま答えたのである。

「頼み?……聞こう!!」


 蛇神はか細い声で縷々語った。己の生まれ、諸国を彷徨い、連ねた暴虐非道の所業の数々と、その理由。そして最愛の姫との世に二度とない出会いと契り、土蜘蛛との諍いと彼の復讐。それら全てを、余すところなく。

 驚くべき物語の数々であったが、寂蓮はそのどこにも、微塵の疑念も抱かなかった。蛇神は嘘を嫌う。話としてそれは知っていたが、大妖の言葉のその響きを直に聞いて彼は自分の胸で実感したのだ。

 蛇神は至誠なり、と。

 そして、蛇神はやや言葉を強めてさらに続けたのである。

「法師殿よ、かくなる上は、吾のなすべきはだだ一つ。

 ……吾は死ぬ。やっとわかったのだ、吾は死ぬことが、出来る……!」

 目を見張る寂蓮、蛇神はその疑念を読んで。

「吾はあれ以来、ずっと考えてきた。土蜘蛛は言った、吾は死ねぬ、と。いや、吾も自ら、幾千年もずっとそうだと思ってきた。だが本当にそうであろうか……

 姫を蘇らせたあの珠。あれはまさしく吾の命の一欠片。あの時は何もかも夢中の出来事であったが、あれを自ら吐くことが出来たら?吐いて吐いて吐き尽くせば!あの時の吾の苦しみ、すなわち吾の身の中で起こった動き働き、それを吾は覚えている。もう一度、あれを今度は自らこの身に味あわしめれば!

 吾は試した。そして……

 上手くいったのだ。吾は己の意をもって珠を吐くことが出来た!

 そして吾の思いの通り、珠を一つ吐くとその度に吾の体は弱る。目がかすみ耳も遠くなり、体が重くなる。すなわち。珠を吐けばその分、吾は

 これなら死ねる、おそらくはあと一つ、あと一つ珠を吐けば!」

 蛇神の側にうず高く積み上がった、白い丸い石の珠。それが何であるか、寂蓮にもようやく明瞭となった。だが、だとすれば。

 それは己が臓物を自ら吐き捨てていくがごとき所業、その証だ。寂蓮は余りの無残に軽く呻き声をあげた。

「だがここにきて……法師殿。吾の頼みは、二つ。

 珠を一つ吐く、そのためには命の力が他に幾らか必要なのだ。だが今の吾には、もはやその最後の一つを吐くための力が足りぬ、足りぬのだ。

 このままでは……姫を救えぬ!

 如何にすべきか。最初に吾が珠を吐いたのは、まさしくほとけの神力の為せる技。なれば最後も、ほとけの力を借りるしかない。

 法師殿。吾は蛇達を放って探したのだ、ほとけの教えを深く修めその神力を呼び出せる者を。そして見出した。そなたがこの倭の都に於いて第一のほとけの法師と。

 されば!そなたのそのほとけの経力をもって吾に力を添えてもらいたいのだ。吾が最後の珠を吐いて死ぬ、そのための力を。

 ……それが吾の一つ目の頼みである。

 だがしかし。このままただ吾が死ねば、姫はどうなるか。土蜘蛛のあの言葉が誠なれば……いや、蛇達に聞かせた、都での人の噂を。彼奴の言葉に嘘はなかった。このまま姫が人の世に戻ったら……

 姫もただ死ぬだけ、人の手によって囚われ殺されるだけ!

 ああ、それは断じてならぬ!!

 法師殿。吾が死んで、姫が人に戻ったなら。どうか姫を助けて欲しい。この洞の宮から外に連れ出し、何処かにかくまい守り、そして出来れば、姫の冤を雪いでやってはくれまいか?

 思えば、吾が姫を人の群れから無体に拉し去ったこと、それが間違いであったのだ。桜と紅葉は、時と所を共にするは許されぬ、それが天の定めた掟。だが今、吾の犯した罪の咎を、姫がすべて背負っている。それもまた道理に適わぬ!!

 吾は、天の咎めから姫を解きたい。姫を吾の下より去らしめ、定めの通りの人の間に戻してやりたいのだ。天の咎めは、あくまでこの吾が受ける!!

 それが吾の二つ目の願いである。法師殿。どうか……どうかお頼み申す」

(続)

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