十三の巻「乙女採り奉る」 (その三)
「おお、姫、姫や……」
蛇神はしばしの間の眠りから目を覚ましました。とはいえ意識は半ばまどろみの中。いつもなら、呼べば姫がすぐに応えてくれます。そして、そのさやかな声に眠りのもやの国から抜け出して、姫とこの世で再び巡り会える。眠りを覚えた近頃の蛇神にとって、それは瑞々しく喜ばしいことだったのです。
「姫や……」
ですが、その時は。
「姫……?姫!!」
返事がありません。いいえ、洞の宮に姫の気配が無い、感じ取ることが出来ないのです。自分自身が姫を一度殺してしまったあの時と、まったく同じ喪失感、それが蛇神を襲います。まどろみはたちどころに消し飛び、蛇神の胸中は恐怖に凍りました。
(姫!いったいどこに?!)
洞の宮は入り口の閉ざされた地の底。普通に考えれば姫が一人で外に出られるはずはありません……そう、一人では。
(まさか?吾の眠っている隙に?またあのような者共が?)
黒雲のように沸き起こる不吉の予感に、蛇神は激しく身を震わせます。
(ああ姫、姫が!)
(蛇神よ?わかるぞ、目を覚ましたか?)
蛇神の心中に、その声がまるで狙いすましたかのように聞こえてきました。
(慌てるな。今貴様がうかつに動けばその姫がどうなるか、知れたものではないぞ?わしはもう、すぐそこにいる。まもなく戻る、戻ってよく教えてやる。そこで大人しく待っていろ。
……この土蜘蛛の帰りをな!!)
ああ、土蜘蛛。忘れていたはずのその名前と、彼のあの最後の呪いの言葉。それが今、蛇神の頭の中に雷のように轟きます。
(おお何故だ、何故……彼奴が一体姫に何を……?)
目覚めたはずの蛇神。しかしまたたちまち、めくるめく悪夢の中に落ちていく思いでした……
蛇神は、洞の宮の奥で土蜘蛛の現れるのをただ凝然と待った。地上に出るべきか、あるいは蛇達を呼び放って遠見をすべきか。一方でそうして思い乱れながらも、一方では、頭の半分が痺れたように働かない。体を動かそうにも、その活力がまるで枯れ果ててしまったかのよう。
(ああ、どうして……)
嘆きながら、ただじっと身をすくめるのみ。
(吾はただ、姫さえいてくれれば……それだけでよかったのに……)
するとついに。地上に向かう洞の暗闇の彼方から、かすかに何かが聞こえてきた。
愛し尊し 蛇神さまに
贄の乙女を 採り奉る……
それはまぎれもなく、愛する妹なる姫の声。蛇神の胸に沸き起こる虚しい歓喜。
だが。
肌滑らかなる 乙女や何処
肉柔らかき 乙女や何処
骨細き 乙女や何処……
(姫……?一体何を……何を歌っているのであるか……?)
声はいよいよ近づいてくる。
いざやその手を 取り曳きて
洞の宮まで 連れ行かむ
神の贄なる 乙女や何処
乙女や何処……
(姫では……ない!!)
歌声こそ姫のもの、しかしその響きに伴うのは、冷酷な嘲弄。蛇神の胸中が、苦々しい怒りに入れ替わる。眼に燃えるのもまた憤怒の鬼火、それに照らされるように、ついに現れた姫、否、姫の体を奪った土蜘蛛。
彼は蛇神の目前で、彼女をあざ笑いながら歌い続ける。
妖し美し 蛇神さまに
弄び物 採り奉る
面憎さげなる 乙女や何処
声賢しげな 乙女や何処
嘘事吐く 乙女や何処
遊び終えたる 亡骸は
谷の川原へ 打ち捨てむ
神の手遊ぶ 乙女や何処
乙女や何処……
「止せ!!うぬ、姫の声を騙るを止めよ!!」
「ほう、わしの歌は貴様の好みに適わぬか?ふふ、そうだな、元よりこのわしに詩歌など柄でもないが……あの忌々しい仏の経文などよりは余程ましかと思うが?」
「うぬ!!」
一声そう叫んで、だが蛇神は次の言葉が続かない。怒りが、恐怖が、絶望が、我先に口から飛び出そうとして喉に詰まったかの様。土蜘蛛はそれを見透かして。
「無様!無様よ蛇神、もはや成すすべもないか?そうであろうな。
わしはこの娘の中で、お前達二人をずっと見ていた。蛇神よ、貴様がどれほどこの娘を愛しく思っておるのか、この目でしかと見たのだ。
この娘さえこの手にすれば……この洞のどこかに骸を埋めている婆殿よ、あの時婆殿の言った通りであったな……聞いていらっしゃるか!そして今こそご覧あれ、婆殿が見たいと言っていた、あの蛇神の泣き顔を!」
土蜘蛛の呪いの言葉はいよいよ激しく、蛇神はただ苦しげに喘ぐのみ。
「聞け蛇神よ!まずは貴様に土産がある、受け取るがよい!お前のために今宵、わしが都で狩って参った、贄の乙女よ!」
蛇神も気づいていた。土蜘蛛がその手で地を曳いて運んでいる巨大な糸玉。その表面を貫いて飛び出しているのは、今や何本もの人間の腕、脚、そして頭。土蜘蛛の吐く霊気の糸で絡めとられた人間の娘達。
「暴れられても面倒、皆息の根は止めてきたが……乙女を嬲るが好みであった貴様のことよ、生け捕りにすればよかったか?生憎だったな」
「何故だ……何故うぬは、こんなことを……?」
土蜘蛛は大きく息を吸うと、語気の嘲弄を改め、一転厳かに語り始めた。
「何故と?ふむ、簡単にはわかるまい、わかって堪るものか。
わしは考えた、考えに考えたのだ、貴様への復讐、皆の仇討ちの最なる方法をな。
まず。戦っても貴様には勝てぬ。それはつくづくわかっていた。我らが全き姿と力を持っていたあの時ですら、貴様に傷一つ与えることは出来なかった。まして今の我らのみじめなこの姿では。この娘の体を人質にとれば、貴様もこのわしに手出しは出来まいが、さりとてこの上どう責めても貴様は倒せぬ、死なぬ……
そうだ、貴様は死なない!ならば!永遠の苦しみを、決して消せぬ悔いを貴様に抱かせてやることが出来たら!それこそ我が本懐に適うというもの!
ではどうするか?かくなる上は。
貴様の愛するこの娘を、永遠に穢し墜とす!そしてその様を見て貴様が苦しむのをこの目でとくと見てやろうと、な。それがわしの答えだ!
……まずは聞け、慌てるな」
怒りに逸る蛇神を冷ややかに制し、土蜘蛛は語り続ける。
「この娘の体の中で、わしはお前達の繋がりの有り様を調べた。同じ体の中で生きておるのだ、このわしにならそれは自ずと感じ取れる。そしてわかったことがある。
貴様がこの娘に与えた、不死の力を持つ鱗。そうだ、貴様は鱗を与えた、与えることは出来たが……どうやら貴様にはそれを取り去るすべ、この娘を元の人間に戻す方法は無い。不死の貴様の力の流れ込むこの鱗も、貴様と同じく不死であるからだ。
そしてあの時。わしも他の妖達も、貴様の吐いた貴様の命のかけら、あの珠の力でこの娘に憑りついた。
……いや、もう少し仔細に言えば。我らはこの娘そのものにではなく、貴様がこの娘に与えた鱗に憑りついておるのだが……ともかく。
この娘を生き返らせたあの出来事は、貴様が自分の意をもって為したことではない。どうしてあんなことが起きたのか、貴様自身も今もってわからない。
……仏の力だと?それはどうだかわしにもわからぬがな……ともかく!
貴様はあの時、我らが娘の鱗に憑りつくことを防ぐことが出来なかった。そしてその後も、娘の鱗から我らを追い出そうとはしなかった。そうしたくてもそのすべがわからないからだ。そうだな?
すなわち。貴様は我らをこの娘の鱗から追い出すことは出来ぬし、鱗ごと我らを娘から引きはがすことも出来ぬ。
蛇神よ。貴様はそれを仕方のない事と受け入れた。貴様から見れば、我らはすべてただ生きているというだけ、この娘の体の上でただ蠢くだけ、それならば、とな。
まさかこのわしに、己の意が残っておろうとは。貴様はそこに気づかなかった。
……妙な話よ、貴様とこの娘はこれほどに結びついている。わしはいつ気付かれてもおかしくないと思っていた。日々、氷の張った川面の上を踏むような思いだったのだぞ?だがわしの意を貴様は感じ取ることができなかった……
貴様が!わざと目を逸しておったからだ!変わり果てたこの娘を、貴様はよく見ることが出来なかった、娘に何が起こっているのかを、よく気を留めてやることを自ら恐れ怠ったのだ!
蛇神よ?貴様はまさしく不実な卑怯者よな?だからこうしてわしにむざむざとこの娘を奪われたのだ!!」
「うぬ……おのれ……おのれ……!」
土蜘蛛の言葉は全てが図星。蛇神の心に次々と、灼熱の火箭が突き刺さる。
一方。相手に与えた痛手、その手ごたえを感じ取ったのだろう、やがて土蜘蛛の言葉は、再び残酷な嘲りの色を帯びていく。
「こうなってしまえばもう、わしの仇討ちは半分成ったようなもの。この娘の姿のままで、ただし娘の心は眠らせたまま。貴様の目の前で、わしがわしとしてのうのうと一緒に暮らしてやる……いつまでも!どうだ、考えただけでも悔しかろう?
……だが、わしは思った。これだけでは貴様にはまだ逃げ道がある、とな。
塞がねばならぬ。貴様を逃してはならぬ。だから手立てを考えた」
(……逃げ道……?)
敵の言葉と知りながら。蛇神の心はそれにすがろうとしていた。今この窮地から逃れる道があるのなら……だが彼は、もうそれは塞いだという。
「まずは一つ。なに簡単だ。貴様がその気になればこれはすぐに出来る……
あの時のように貴様がこのわしを殺す、この娘もろともにな!そうすれば少なくとも、貴様はこのわしからは逃げられよう。
……が?まさかそれは出来まい?それにたとえそうしたとて、それなら貴様の心に決して消えぬ苦しみが残る。愛する娘を、自らの手で殺してしまうのだからな!
あの時貴様は言った。『下らぬ将のためむざむざ二度馘になる愚かな兵』、そう言って皆を嘲った。同じ言葉を返してやれる。『己の愛する娘を二度殺す愚か者』!
それはそれで胸が空く……その気なら存分にやるがよい。
だがもう一つ、妨げなければならぬことがある。すなわち、貴様が自ら死ぬこと!
不死の貴様がどうやって自ら死ぬか、死ねるか。それは無論このわしにもわからぬし、貴様も知るまい。だがあるいは出来るかも知れぬ。そして。
貴様が死ねば、娘に植えた鱗も生きる力の源を失って死に、その鱗に憑りついた我らも死ぬ。簡単な理屈よ。さすれば、貴様はこの娘だけは救えるだろう……
だがさせるものか!貴様に心穏やかな死に様など与えぬ!!
そのために!今宵わしは、都で乙女を狩った!!
貴様が死んで、この娘がただの人間に戻ったとして。この地の底では生きてはいけまい。野垂れ死ぬだけよ。貴様が道連れにしたいのなら構わんがな。そしてもし、この洞を出て人間共の下に、都に戻った時は……この娘の命は、やはり無い!
わしはこの娘のこの姿で、この声で。都で乙女を狩り、男共も数多殺した。この娘の名を名乗って、だ!今頃都の人間達の間では、さぞや評判になっておろうな……
『大納言の娘桜子、蛇神の遣い姫、蛇姫蟲姫、鬼姫なり』と!!人間共はこの娘を恐れ憎み恨んでいる、そこへうかうかと帰ればどうなるか?刑吏共の手にかかって馘になるか、あるいは八つ裂きか生き埋めか……いずれ無残な骸を晒すのみ!!
さあ考えてみよ!!果たして貴様は、この娘を残して死ねるか?蛇神!!」
名詮自性、土蜘蛛が十重二十重に張り巡らせた、それは怨念の蜘蛛の巣地獄。今や蛇神は完全に絡め取られた。
「何故……」蛇神は絶え絶えの呻き声で問う。
「何故姫を……何故姫を!うぬが恨みに思うは、この吾ではないか?!姫がうぬに何の咎を成したと言うのだ!」
「何故と!何故と問うか蛇神よ、貴様のその口で!!我らと貴様のあの戦の夜、貴様は!わしを嬲りたいがだけのために、わしを置いて他の皆を嘲り辱めながら、玩具のようにいたぶり殺したではないか!!
このわしとて、このわしとて……どれだけ皆のことを……」
土蜘蛛はそこで目を伏せ、続く一言を喉の奥に呑み込んだ。未練なり、と。そして首を一振り、さらに語気を強め決然と。
「卑怯と言わば言え、非道と言うなら言うが良い!この愚か極まるわしには最早、守るべき大義も名分も何もない、この命すらいらぬ、貴様の力で繋ぎ止めているだけのこの命など!貴様は決して死なぬ、否、死ねぬ、それ故に!命を捨てて事にかかるが決して出来ぬ!わしの勝ち目はその一点のみ!!
ははは……おお亡き婆殿よ、お気持ち、今この土蜘蛛にも分かる、よぉく分かりますぞ……蛇神よ!わしが見たかったのは、今の貴様のその顔よ!!
……うははははははははははは!!」
「おのれ……おのれぇぇぇぇぇ!!」
土蜘蛛の哄笑に心を破られた蛇神が、絶叫と共に吐いたもの、それは怒りの炎ではなく、悲しみの凍気でありました。土蜘蛛もろともに、姫の体はたちまち凍える氷柱に閉じ込められたのです。
(なるほど……これは考えたな蛇神よ……こうして時を稼ぐか……よかろう……この氷の中で眠りながら、貴様が次はどうするつもりか……夢に見てやるも一興よ……)
土蜘蛛の心の声が消えると、そこに残っているのは。
氷に封じ込められながら、その中で安らかな微笑みを浮かべる姫の姿。
洞の宮の隅々にまで、蛇神の嗚咽する声が染み渡っていきます……
(続)
※作中歌「乙女採り奉る」
YouTubeで … https://youtu.be/uyQXJd2GxP0
ニコニコ動画で … https://www.nicovideo.jp/watch/sm15400496
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