短編「月光に祈るヒト」
みなしろゆう
「月光に祈るヒト」
それは紛れもなく死体であり、他の何者でもなかった。
陥没した後ろ頭の中身が腐って異臭を放ち、背中の切り傷で虫が交尾を繰り返す、世の中で一番醜悪な、女の死体。
瞼は開かれたまま、死後硬直を経て永遠に閉ざされることはない。
粘膜がひび割れて、割れた硝子玉のような瞳が眼窩から、今にも溢れそうだった。
木々の生い茂る、深い森のなかの少し開けた草原の上で、死体は横たわっている。
青白い月光の下、乾いて真っ黒な血液が死体を縛り付けていた。
辺りに満ちる静寂。
静けさと停滞は死者を悼むだけ悼み、この場所で死体が跡形もなく風化するまで、続かなければならないもの。
そうでなければならないはずだ、しかし。
月は、薄いもやの向こうから朧げに、夜空へ輪郭を溶かしながら死体を見下ろす。
見下ろされた死体は、不躾な視線に対し不満げに薬指を動かす。
そう、そうだ、動いたのだ。
凄惨に殺されて、あげく虫を孕んだ死体は、月光の下で身動いで、死者としての有り様を己が身で冒涜した。
輪郭の曖昧な、ぼやけた月光に照らされて、死体は死後硬直のことなど忘れて軋む。
静寂に骨が割れる音が響く、変形した首を回して、死体が月へと振り返る。
それだけではない、上半身を仰け反らせ、死体は口を開いて声を出す。
「……あ…………きれ……」
脳漿が滑り落ちる、へばり付いた蛆も滑り落ちる。
死体が笑っている、ひび割れた唇で笑っている。
目玉が溢れていく、その溢れた水晶体に月が満ちる。
「きれい……」
死体は、月を見上げて笑っていた。
長い髪が草原に広がって、女は懸命に両手を合わせて、滅茶苦茶に折れた指をひとつずつ動かす。
体の至る所が死んでいるのに、生きているみたいに動いていた。
死体は祈るために手を組んで、しゃがれた声で聖句を詠う。
「かみよ、われをすくいたまえ」
捧げられた祈りは、生者のものより陰湿で、鬱屈としていて、絶望しか感じられない。
もうこちら側ではないものが、救われる術など絶たれたものが、詠う祈りは気色の悪さしか持ち得ない。
名もない死体は、奥歯を鳴らして待っている。
神の救いを待っている、訪れるはずだ、そうでなければおかしい、そうでなければわたしは、そうでなければなぜあんなにもひとをあいしてたすけてちかってなかせて──。
「かみよ、われをころしたまえ」
ガチりと噛み締められた歯が、砕けて喉を通り抜け、その胸に空いた穴から外へ出た。
──かつて死体が何と呼ばれていたか、月は良く知っている。
この死体の死に様も、死に際も知っている。
だけれど月は神ではない、見下ろすことしかできはしない。
死体は祈り続ける、まるで聖女のように、まるで罪人のように。
「本当の死」をこの草原で待ち続けている、死体は己が間違えていることを理解している。
息をしない肺が、高ならない胸が、萎縮した脳が、半壊した体が。
ずっと、終わりを待っている。
腐った祈りを聞き届けたのは、神ではなかった。
一際高く伸びた木の上から飛び立って、翼を広げ一直線に死体の元へ飛んで行く。
一羽の烏が、祈りを捧げる両手の上に降りたった。
烏は目の前に垂れ下がる、乾いた瞳に口付けをする。
そうして触れた先が、目玉を突き潰した。
──この世界には、ある決まりがある。
神が定めた、とっておきの。
木々の中に潜んでいた、何羽もの烏が死体に集る。
幾つもの黒羽根が死体へ降り注ぎ、啄まれるなかで死体が笑っていた。
千切れる、千切れる、千切れて、もっと壊れていく。
なんて可笑しいのだろう、死体は声を上げて笑った。
──神に仕える聖職者は、祈りを捧げる度に人々を救う奇跡を授かる。
ぼろぼろと崩れて落ちていく、死体の形がなくなっていく。
烏が腐った肉を喰んでいる、意地汚く舌の根までも引きちぎる。
──そして、人々を救う力を得た聖職者は代償として、死ぬ自由を失うのだ。
死体となっても祈り続ける、醜悪な灰人となり、それは怨嗟の声を上げ、満月の夜に泣き喚く。
かつて多くを救った両手が、穴だらけになって地面に落ちた。
同時に体も倒れて砕けた肋骨の隙間から、頭を突っ込んで、中身を貪り喰う烏。
──彼らを終わらせることができるのは、
神の御使い、黒翼を持つ渡り鳥。
烏は死体を喰らって運ぶ、天上に座す神の元へと。
暫くして烏たちは一斉に、月へと飛び立った。
黒いしみだけが場に残る、まるで焼け焦げた後のよう。
黒翼が夜空を飛んでいく、嘴を黒く汚した烏の群れは、次の祈りを聴きにいく。
月に照らされた草原で、
死体はやっと、死んだのだ。
短編「月光に祈るヒト」 みなしろゆう @Otosakiaki
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