L'Ultima Cena

佐倉島こみかん

L'Ultima Cena

 繁華街の裏通り、汚い雑居ビルの地下にあるその店の名前は『L'Ultima Cena』。

 本来、私などが来る由もないようなその店に来たのは、妻たっての希望だからだ。

 猥雑なテナントが寄せ集められたビルのわりに、その店の扉はこざっぱりとしている。

 とはいえ、普段はファミレスか近所の食堂ばかりの私には縁遠い場所だけに、看板を見て緊張で手に汗がにじんだ。

 一つ深呼吸してからドアを開ければ、カランコロン、と低めのベルの音が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 足を踏み入れれば、落ち着いた低い声でドアの横に立っていた男性の店員が言った。

 黒髪をオールバックにしたがっしりとして背の高い人だ。

 白いシャツに黒のカマーベストとスラックスを着ている。

「あの、予約をしていた、高原と申しますが……」

 いきなり自分よりかなり体格のいい人間に出迎えられて驚いたが、かろうじて名乗った。

「高原浩三郎様ですね。お待ちしておりました。お席へご案内致します」

 店員は彫りが深く整った男らしい顔立ちで、年齢はいまいちわからない。

 28歳と言われればそれくらいにも見えるし、42歳と言われてもそれはそれで納得できそうだった。

 そんな店員から恭しく席へ案内されながら、定年してから随分と着ることのなかった一張羅のスーツを着て来て正解だったと内心ほっとする。

 もっと怪しい店を想像してきたが、店内もアンティークな調度品で揃えられた品のいいレストランという感じで、それがかえってこれから出てくる予定の料理とちぐはぐな気がした。

 この店が提供するのは、店名と同じ『L'Ultima Cena』という名のコースだけである。

 料金は前払い制で、予約の際に退職金の1/4を振り込んだ。

 料理に付随する諸々のサービスを思えば、それでも安いくらいだ。

 席に着いてしまえば、もう後は予定の料理が出てくるのを待つばかりとなる。

「どうぞ、おかけください」

 すでにテーブルセッティングされた机の前の椅子を店員が引いてくれるので、会釈して腰かける。

 公立中学校の教員として働いて定年退職した私は、ただでさえこんな丁重なサービスのレストランなど、プロポーズの時と銀婚式の時に来たことしかないので、どうにも落ち着かなかった。

「ナイフとフォークをご用意していますが、ご希望でしたらお箸もございます。お気軽にお申しつけください」

 店員はバリトンのいい声で言って微笑む。こんな小市民の老人への気遣いまで万全と来た。

「ああ、お気遣い、ありがとうございます。ですが、妻との記念の食事ですから、格好を付けさせていただきたいと思います。こちらのカトラリーで大丈夫ですよ」

 そんな店員の心遣いに感謝してから、苦笑して答えた。

「承知いたしました。食前酒はこちらのキールとシャンパンからお選びになれますが、いかがいたしますか」

 店員さんにアルコールのメニューを開いて渡されて、ドギマギしてしまう。

 たまの晩酌に第三のビールをちびちび飲む程度の人間にはどちらがいいのか、とんと分からない。

「ええと、おススメはどちらでしょうか」

 こういうのは下手に取り繕うより、プロに聞くに限る。

「そうですね、奥様との思い出に浸りたいのであれば、こちらのシャンパンの方がよろしいかと」

 店員さんの口から妻のことが出て来て、すっと気の引き締まる思いがした。

 そうだ、これから出てくる料理は、最善の選択で、最高に美味しくいただかねばならない。

「ああ、では、それでお願いします」

 すでに料金は振り込んである。料理以外のものはサービスのようなものだ。

 お任せしてしまうのが一番いいだろう。

「承知いたしました。それではお持ちします」

「宜しくお願いします」

 店員さんは綺麗な角度でお辞儀して、おそらく厨房の方へと歩いていった。

 それを見ながら、銀婚式の時に妻と行ったフレンチのお店を思い出す。

 息子が遠方の大学に行っていた頃で、久しぶりに二人きりで、いわゆるいいレストランに予約して行ったのだった。

 普段おっとりした妻がいつになくはしゃいで、予約を入れた時から着ていく服をああでもないこうでもないと悩んで、照れくさくて適当でいいと言う私の服もスーツやらネクタイやらあれこれコーディネートしてくれて、二人してめかしこんで出掛けたのだった。

 懐かしく思い出していると、先程の店員さんがボトルとグラスを持ってやってくる。

「食前酒のシャンパン、ルイ・ロデレール・クリスタルです」

「ああ、どうも」

 いちいち頭を下げるのもよくないのかもしれないが、小心者ゆえつい会釈してしまう。

 そんな私に笑顔で目礼してから、店員さんは華麗な動作でシャンパンを注いでくれた。

 文字通りシャンパンゴールドの美しく透き通った液体に、細やかな泡がきらめいて立ち昇る様は一種の芸術のようだ。

「奥様の生まれ年のものをご用意いたしました。どうぞお楽しみください」

 そう言って一礼をした店員さんはまた厨房の方へ歩いていった。

「素敵な計らいだねえ。それじゃあ――乾杯」

 私は目線の高さにグラスを掲げてから一口飲んだ。

 高いシャンパンなどほとんど飲んだことのない私に、細かいことは分からないが、大変華やかで繊細な味わいで美味しい。

「お待たせいたしました。こちら、腿肉の生ハムを使ったアンティパスト3種です」

 シャンパンの美味しさに、ほう、と息を吐いたところで、先程の店員が料理を運んできた。

 ゴクリと唾を飲む。

「左から、ドライ無花果の生ハム巻き、トマトと生ハムとモッツァレラチーズのカプレーゼ、フィレ肉とバジルのサルティンボッカです」

「サル……何ですか?」

 最後だけ聞き慣れぬ料理名が出てきたので聞き返した。

「サルティンボッカです。薄くたたいて伸ばして焼いたお肉に生ハムとハーブを乗せた前菜の名前です。今回は、レモンベースのあっさりしたソースでご用意いたしました」

「なるほど……あの、やはり、生ハムも、フィレ肉も?」

 私の質問に、店員は首を縦に振る。

「全て、ご希望の通りです」

「そう、ですか」

 私は神妙に頷いた。

 そんな私にまた小さく一礼してから店員は下がっていく。

「いただきます」

 手を合わせて言ってから、聞き慣れぬ名前の料理を恐る恐る口に運ぶ。

「……美味い」

 予想外の美味しさに、私は茫然と溢した。

 生ハムの柔らかさと、フィレ肉のあっさりした肉がよく合っている。

 バジルとレモンソースのせいか、馴染みのない肉の臭みのようなものも感じない。

 驚くままに、他の料理にも手を付けた。

 無花果の甘さと生ハムの塩気がバランスのいい生ハム巻きも、トマトの酸味とモッツァレラチーズのまろやかさに、生ハムの旨味が絶妙なバランスのカプレーゼも、初めて食べるというのに違和感なく口に馴染み、信じたくないほど美味しい。

 いや、確かに『最高に美味しいものを』と依頼したのは私である。

「もっと食べにくいものかと、思っていたのにね」

 私は苦く笑って、妻に語り掛けながら、シャンパンを口にした。

 一口一口、別れを惜しむようにゆっくりと味わっていって、皿が空になる頃、次の料理が運ばれてきた。

「プリモ・ピアットのミネストローネでございます。丁寧に煮だした自家製コンソメと、新鮮なトマトで、ソーセージとお野菜を煮込みました」

 鮮やかな赤いトマトスープは、ソーセージに人参、玉ねぎ、じゃが芋、セロリと具沢山である。 

「やはり、コンソメやソーセージも……」

「ええ、ご希望の通りに」

 店員は微笑んで答え、また下がった。

 息を飲んで、角切りにされているソーセージをスプーンで口に入れる。

 みっしり詰まったひき肉の感触と、溢れる旨味の間にハーブが香り、トマトとコンソメの味に負けない主張の強さだった。

 そして野菜の風味がそれを際立てていて、やはりこれも美味い。

 そして食べ応えのあるスープの皿が空になる頃、メインディッシュが運ばれてくる。

「セコンド・ピアットは肩肉のシャリアピンステーキでございます」

「肩肉のシャリ……なんでしょうか」

 やはり耳慣れぬ料理名に聞き返してしまった。

「シャリアピンステーキ、と申します。玉ねぎに付け込んで、お肉を柔らかくしたステーキです。肩肉と申しましたが、正確には肩から背中にかけての部分でして、牛肉で言う所の肩ロースに近いですね。あっさりとして食べやすいのですが、焼くと固くなりがちなので、召し上がりやすいように柔らかくさせていただきました」

 丁寧に解説してくださる店員に、頭の下がる思いがする。

「なるほど、お気遣いありがとうございます」

「いえ、とんでもないです。お客様のご希望に応えるのが、この『L'Ultima Cena』のポリシーですから」

 姿勢を正して答える店員の言葉には矜持が感じられた。

「焼き加減もお客様のご希望通り、ウェルダンに致しました。ソースは玉ねぎと赤ワインを肉汁と一緒に煮詰めたものです。銀婚式の際にレストランで召し上がったとお伝えいただいたものと同様のソースです」

「ああ、何から何まで……本当に、ありがとうございます」

 店員の穏やかな声に、涙が込み上げる。

「いえ。それではどうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」

 店員は恭しく一礼して、またテーブルを離れた。

 私は焼き目の美しい上品なステーキへ、フォークを入れる。

「君の五十肩も、これくらい柔らかくなったら良かったのにね」

 予想以上の柔らかさに驚き、妻に声を掛けた。

 白い皿の上に付け合わせの人参のグラッセとほうれん草のバターソテーが添えられたステーキを、一口大に切り分けて、口へ運ぶ。

 牛肉よりもあっさりとしたラム肉に近い香りと食感である。

 繊細な肉の繊維が口内で解けて、ジュワリと肉汁が溢れた。

「幸江……っ」

 思わず、、ボロボロと涙が零れた。


 妻は常々言っていた。

『死んだらあなたに食べられて、あなたの一部になりたいわ。ほら、食べちゃいたいくらい可愛いって言うでしょう』と。

 冗談だと思っていたのに、庭木の手入れ中、脚立から足を滑らせて落ち、頭を打った妻は、急いで救急車を呼ぼうとした私へこう言ったのだ。

『きっと、持たないと思う。だから、どうか薬漬けになんてしないで。あなたに美味しく食べてほしいの』と。

 何を馬鹿なことを、と言って携帯を取り出す私の手に弱々しく縋り、妻はこう続けた。

『終活の一環で調べていたら、遺体を調理して食べさせてくれるレストランがあるって……非合法らしいけど。私の机の引き出しに、メモがあるから』

 と、妻は息も絶え絶えに言った。

 人の細胞は三ヶ月で全て入れ替わるから、食べたところでずっと私の一部になれる訳ではないのに、と混乱からズレたところに指摘を入れる理科教諭である私へ、彼女は静かに微笑んだのである。

『三ヶ月でもいいの。その事実が大事だから。ねえ、お願いよ』

 そう言って、妻は息絶えた。

 とんでもない遺言だった。

 私は、妻の遺体を前にして、途方に暮れた。

 迷って、迷って、そして私は、救急車よりも葬儀屋よりも先に、妻の机の引き出しにあったメモの店へ、電話をしたのである。

 しどろもどろで事情を説明すれば、電話に出た店員は、葬儀から遺体の引き取り、食肉としての加工、調理まで一式全てコースになっているのだと懇切丁寧に説明した。

 その代わり法外な料金設定と、膨大な量の機密保持への同意書が必要になるのである。

 動揺し、混乱している私の話を聞く落ち着いた店員の声に、徐々に落ち着きを取り戻した私は、最終的に意を決して、そのコースを申し込んだ。

 ――妻の、最期の願いだったから。

 葬儀はその店の関係業者が引き受けて、調理に必要な部位だけ切り取ってから火葬した形である。

 肉の熟成やら加工やら、色々と手順が必要だそうで三ヶ月待ち、本日こうして妻と再び対面した。

 前菜の生ハムも、フィレ肉も、コンソメの出汁も、ソーセージも、ステーキの肩肉も――今日、出された全ての肉は、妻の身体である。

 妻の肉を食べるという禁忌中の禁忌は、間違いなく妻との『最後の晩餐L'Ultima Cena』であった。

 調理の腕前なのか、愛した妻だからなのか、それともその両方だからか――ひどく美味しい料理に、嗚咽を溢す。

 泣きながらステーキを食べ終え、無言で近寄ってきた店員の差し出した白いハンカチで涙を拭った。

「ああ、すみません……お見苦しい所を」

 ぐす、と鼻をすすって店員へ謝れば、静かに首を横に振られた。

「いえ。奥様を、本当に大事にされていたのですね」 

 静かに言った店員は、そのままステーキの皿を厨房へ下げに行く。

「こちら、ドルチェのティラミスでございます。奥様のレシピでお作りしました」

 縁が紺色の白い平皿に盛られたティラミスは、ヘラで掬ったようなざっくりとした盛り付けでありながら、上にミントが添えられ、余白の多い平皿にチョコレートと思われるソースが連なったハートのように垂らされていて、家ではとても見たことのない盛り付けだと思った。

 コースを申し込むときに、可能な限り依頼人の希望や故人の情報などを専用の入力フォームから送ることになっており、妻が書き溜めていたレシピの一覧も写真を取って送っていたのである。

『デザートに出来る部分がなさそうなので、代わりに奥様のレシピで代替してもよろしいでしょうか』とメールで返信が来た時は、非合法なのに随分しっかりしたサービスだと驚いてしまった。

「ああ、でもこうして綺麗な盛り付けをされていると、本当に立派なレストランのデザートですね。家で食べる時は、適当なケーキ皿に掬って乗せただけだったので……」

「味付けは、そのままかと思います。どうぞ、お召し上がりください」

 店員はにこやかに言って、私から少し離れた壁際に控える。

 デザートスプーンで一口掬って食べ、私は目を見張った。

 マスカルポーネと砂糖と卵黄だけで作るという本場イタリアのレシピのクリームと、市販のカステラにインスタントコーヒーを染みこませた生地が層になった、妻の大らかさが表れたティラミスの味だ。

「ああ、そうです、これです。私が落ち込んだ時に妻が良く作ってくれた、ティラミスです」

 私は思わず、店員の方を見て言う。

「『ティラミス』はイタリア語で『私を元気づけて』という意味です。奥様も、高原様を大事に思われていたのでしょう」

 店員は、にっこりと笑って答えた。

「そう、なんですか。それは知りませんでした」

 とんでもない遺言は私を思う故なのか、彼女の執着なのか――と思っていたが、それを聞いて、もうどちらでもいいか、と思う。

 今、私の身体の一部となった彼女が、三ヶ月経って再び私の一部でなくなろうと、今日食べた料理の味と、遺言とはいえ妻を食べてしまったという事実は私の心にずっと残り続けるだろう。

 それはほとんど呪いのようなものだが、私にとっては彼女を記憶に留めるよすがでもある。

 まあ、そんなに長くは待たせないだろうさ――と、私は妻の笑顔を思い出して、心の中で呟くのだった。

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