父と戦友たちの終戦

沢藤南湘

第1話

父、木村孝明が、他界して十年が過ぎた。


 父から借りていた戦友会の回想録を思い出し手に取ってみた。


 生前の父は、戦中のことを私にはほとんど話さなかったので、新鮮な気持ちで読み始めた。




 私は、神奈川県の湘南地方の小さな町で生まれた。


 九人兄弟の次男として大正十二年夏だった。


 兄弟の構成は、上三人が男、中三人が女そして下三人が男という分かりやすい構成だった。


 父は、表具師で小さいながらも店を持っていて、職人を二人雇っていた。


 この地は、南は海で北は小さな山に挟まれており、温暖でめったに雪は降らない。


 山は、と呼ばれており、標高百六十八メートルの低山で、西暦六六八年、朝鮮半島北部にあった高句麗が滅亡して、 王族である高麗王若光一族がこの地に上陸して、そこに居住して周辺の開拓を行なったことから山の名がついたようだ。


 夏になると、私は兄弟を連れて、この山によく蝉を捕りに行った。


 浜に出ると西に富士山が見える。


 東の近くには、烏帽子岩が海に浮かんでいる。


 やはり夏だが、遠浅の海は、私たち子どもの恰好の遊び場だった。


 尋常小学校も中学校に通いながら、子守をしながら勉強した。


 成績は、悪いほうではなかったが、経済上の問題から進学はあきらめて、就職の道を選んだ。


 親戚の紹介で、布団の販売店に勤めることになった。


 小さな店だったが、家から歩いて通えるのが嬉しかった。


 昭和十六年。私は、十八歳になった。


 私の弟が通っていた小学校は、国民学校と改称され、国民科など五教科編成で儀式や学校行事を重視し、宮城遥拝や軍事教練が課された。


「いよいよ軍国主義へと向かっているようだな」


 父が、私たちに向かって寂しそうに言った。


 十二月八日、とうとう我が国は、ハワイ真珠湾を攻撃して大東亜戦争に突入してしまった。


 このころ、本屋に並べられていた下村湖人の『次郎物語』や山本有三『路傍の石』を私は立ち読みしていた。


 昭和十七年。ラジオや新聞では、日本の戦況を次のように伝えていた。


 一月二日、日本軍、マニラ占領。


 二月十五日、シンガポールのイギリス軍、日本軍に降伏。


 三月九日、ジャワのオランダ王立東インド軍、日本軍に降伏。


 五月一日、日本軍、ビルマ北部のマンダレー占領。南方進攻作戦一段落。


 五月七日、フィリピン・コレヒドール島要塞の米軍降伏。


 六月五日、ミッドウェー海戦始まる。


 六月七日、日本軍、キスカ島占領。


 六月八日、日本軍,アッツ島占領。


 後に知ったのだが、ミッドウェー海戦で、日本海軍の主力航空母艦4隻が撃沈され艦載機全機と熟練搭乗員の多くを失っていたのであるが、そのことは知らされずに、このような報道によって、人々は、戦勝ムードに湧いていた。


 この頃、ラジオから、’空の神兵’、小唄勝太郎の’明日はお立ちか’、灰田勝彦の’新雪’などの歌が良く流れていたが、私は’新雪’の歌詞が好きだった。


 人気のあった映画が来ると町にあった一軒映画館に見に行った。


 小津安二郎監督で笠智衆主演の『父ありき』や『マレー戦記』を見に行った覚えがある。


 両方とも戦争に関するものだった。


 『マレー戦記』を見て、日本軍の強さを誇りに思ったものだ。


 「欲しがりません勝つまでは」が流行語にそして、歌にまでなったのもこの年だった気がする。


 戦争が長くなるにつれ、人々の生活はだんだん苦しくなってきて、食料、衣服、燃料など生活に欠かせない物も自由に手に入れることができなくなった。国民は、政府から配られるキップを持って配給を受けるようになった。


それでも、人々は「ほしがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」といったスローガンで自分たちをはげましながら不自由な生活にたえていた。


 世の中、何もかもが戦争一色になっていた。


 


 そして、八月。


 私は十九歳になった。


 徴兵検査で甲種合格だった私に役場の兵事係吏員が、召集令状を持ってきた。


 令状は本記と受領証の二枚からなっていた。


 本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時等が書かれていた。


「本記は、部隊までの交通切符代わりになります。また召集部隊に持参して提出してください」


 私は、受領証に受領日と時刻を記入して、捺印してから、官吏に渡した。 


 配属先は、軍都柏と呼ばれていた千葉県柏町にある東部第百二連隊と書かれていた。 


 両親に報告した。


「とうとう来たか」


 父鉄太郎が召集令状を見ながら言った。


 母の千代は涙を浮かべた。


「お国のために身を挺して働け」


「はい、お国のために命を捧げます」


 集まってきた兄弟たちは、皆悲しがった。


「泣くんじゃない、お国のために働くんだ」


 鉄太郎が、皆を叱った。


 


 十月の末日。


 とうとう出頭の日がやってきた。


 近くの神社に町内の人たちが集まった。


 本殿の空地が、黄色に染まった落ち葉によって、敷き詰められていた。


 町内会長が代表の挨拶を述べた。


「木村孝明君の武運長久を祈願して、万歳三唱で孝明君を見送りましょう」


「万歳、万歳、万歳」


「お国のため、国民のために頑張ってきます」


 私は、気分が高揚してうまく挨拶ができなかった。


 戦争への恐怖など微塵もなかった。


 日の丸の旗を振り続けている人々たちに送られて、颯爽と駅に向かって歩いた。


 私の家族十人が、駅のプラットホームで私を見送ってくれた。


 汽車に乗って、東京駅で乗り換えた。


 常磐線だったかと思うが、それに乗って、柏駅まで行った。


 地図を見ながら、東部第百二連隊の営門までかなりの距離を歩いた。


 初年兵教育としての基礎訓練三か月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育三か月を終えてから、実施部隊に配属されるのが普通だったが、どういう訳か、私の基礎訓練は、たった一か月で終わり、十二月、三重県の鈴鹿にある第一気象連隊第六中隊に転属を命じられた。


 すぐに荷物をまとめて柏駅から夜汽車に乗り、翌朝東京駅に着き、有楽町のガード下付近をうろついた。


「これが東京の見納めになるかも」


 私は、一か月前に乗り換えで降りた東京駅を見て感慨にふけった。


 東京駅付近で朝食を取ってから、東海道線に乗って名古屋に向かった。


 汽車が停車した。


 車窓から一年前に両親と兄弟に見送られた駅のホームが、霞んで目に入った。


 名古屋駅周辺で宿を取った。


 翌日、関西線の汽車に乗って、加佐登駅で下車。


 徒歩で石薬師村にある中部一三一部隊に向かって田舎道を歩いた。。


「こんな田舎に部隊が本当にあるんだろうか」


 私は、いろいろな不安がこみあげてきた。


 正門(営門と呼んでいた)を通って連隊のある敷地に入った。


 正門のすぐ右手に面会場がある。


 その前に、起床演習や通信演習そして様々な訓練を行う広々とした練兵場(私たちは、営庭と呼んでいた)、その北側に各中隊の兵舎が四棟ずつ二列並んでいる。


 さらに北には、兵器庫、被服庫などがあり、北端に医務室がある。


 また、正門以外に西門があった。


 兵舎の二列目の西から二棟の六中隊の事務室に入った。


「木村孝明二等兵、ただいま入営いたしました」


「ご苦労」


 受付を済ませて、内務班別に集合して、班長の案内で兵舎に入った。


 兵舎は、柏よりお粗末だった。


 内務班は廊下をはさんで、舎前と舎後の二つの部屋に分かれていた。


 廊下の両側には、所狭しと靴箱その上段には銃架になっており、手入れの行き届いた九九式短小銃が整然と立て掛けられていた。


 部屋に入ると、中央には木製の机と長椅子が置かれ、その両側には藁ふとんが室一杯に所狭しと並べられていた。


 そのふとんの奥の壁側には毛布と枕が重ねて置かれ、その上に奥行き四十センチほどの整頓棚が打ち付けられていた。


 またそれぞれに木製の小物入れ箱が並んでいた。


 これらの物は、すべて定規で測ったように整然と並べられていたのに、驚き厳格さを改めて感じた。


 班付兵が、初年兵が全員揃ったのを見て、


「自分の名前が書かれた場所に立て」と言った。


 そして、各自に事前に準備された褌を除いた衣服類が貸与された。


 その後、班付兵の指導で上衣に名札、襟布、階級章などを慣れない手つきで針を動かして言われるままに何とか取り付けたが、班付兵から名札が曲がっていると指摘されやり直し。


 やっと合格すると軍服に着替えることを許された。


 多少サイズが大きいと思っていたところ、


「これでよし」と班付兵が勝手に判断した。


 班付兵にサイズの違うものに代えてほしいと懇願した者がいたが、


「おまえの身体を服に合わせろ」と無理難題を押し付けていた。


 軍隊では、何事も我慢する以外はないということを痛感した。




 夕食は、入隊祝いとして混ぜご飯、紅白の饅頭が特別に用意されていた。


 久しぶりの餡の甘さをかみしめた。


 起床ラッパに起こされ、支度を終えて営庭にでる。




 入隊式が始まる。


 鈴鹿おろしの寒風に耐えながら、二時間にも及ぶ部隊長の訓示を聞いた。


 班長達の厳しい教育が始まった。


 班長は、軍曹や伍長がなり、我々初年兵を厳格な規律を守らせる兵隊に作り上げる責務を持っていた。


 衣類の整理、整頓や床の作り方、九九式短小銃の保全及び手入れ、スピンドル油の使用方法などについて、班付上等兵、そして古参兵たちが次々と指導してきた。


 内務班内は、毎日怒鳴り声が飛び交っていた。


 時には、


「手を後ろに組み両足を踏ん張って、歯を食いしばれ」


 と言って、古参兵がぴんたを食らわせることもしばしばあった。


 寝床に南京虫や蚤が同居していたのには閉口した。


「初年兵は、一階の階段の下に集合しろ」


 下士官が、皆に命じた。


「この中に先ほどの訓示を聞いていなかった者がいる。その者は、前へ出ろ」


 前に出る者は、誰もいない。


 下士官は、自分のスリッパを投げつけた。


 緊張のあまり、私は、顔が引きつっているのを感じた。


 こんなことが許されてよいのだろうかと私は、下士官に敵愾心を抱いた。


「全体責任だ。営庭を十周駆け足!」


 このことがあってから、人に迷惑をかけないように慎重に行動した。


 後日になるが、T少尉が私的制裁を禁じたことにより、そのような行為は影をひそめるようになった。




 毎日の訓練が、始まった。


 起床ラッパで起こされて、五分ほどで着替えて、営庭に集合し、朝礼。


 そして、半身裸になり乾布摩擦を行うのが、毎朝の日課であった。


 寒い中の乾布摩擦は、健康を維持するには良い方法のようで、身体が弱いという同期の人間は、風邪をひかなくなったと喜んでいた。


 朝飯を終えると、軍人勅諭と戦陣訓等の教育そして、銃や剣術の訓練と休みなくしごかれた。


 まず軍人勅諭の暗唱だ。


「一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし・・。


一、軍人はれいぎをただしくすべし・・。


一、軍人は、武勇をとうとぶべし・・。


一、軍人は信義を重んずべし・・。


一、軍人は質素を旨とすべし・・」




 次に戦陣訓、これは長かった。


「本訓 其の一


 第一 皇国、大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹・・。


 第二 皇軍、軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し・・。


 第三 皇紀、皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高・・。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


本訓 其の二


第一 敬神、神霊上に在りて照覧し給ふ。心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ・・。


第二 孝道、忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子・・。


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本訓 其の三


第一 戦陣の戒、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


第二 戦陣の嗜、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


結、以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を・・」




 私は記憶力がそれほどよくなかったので、軍人勅諭と戦陣訓を覚えるのは辛かったし、


「こんなこと苦労して覚えても戦場でなんの役にも立たないのに」と思っていたので、ますます覚えが遅くなった。


 このような考えを持っているのは、私だけだろうか。


 口に出したら非国民として、きっと、厳しい罰を受けることになる。


「木村二等兵、前でて戦陣訓をいってみろ!」


 私は、何回も躓いた。


「貴様は、柏手一体何をやっていたんだ。歯を食いしばって、足を踏ん張れ」


 またも、厳しい指導を受けた。




 不思議なもので、一か月も過ぎると、同期の人間たちの顔つきが以前よりたくましくなり、天皇や親兄弟そして祖国を護るという言動に気迫が込められてきた。


 私も次第に兵隊という役務に誇りを持つようなってきたのには、自分ながら驚いた。


 教育は、私たちの考え方をいかようにでも変えることができることが分かった。


 


 不寝番という役目の日を迎えた。


 夕食を終え、風呂に入った。


 するとすぐに、


「三班、早く出ろ!」と大声がした。


「入ったばかりなのに」


 私たちは、温まることもなく出た。


 烏の行水だ。


 そして、私は、真夜中の不寝番についた。


 吹雪の中、中隊入り口に数時間立った。


 まつげが凍り、手はかじかむ。


 時々、眠気が襲ってきた。


 下番になって、凍えた状態で毛布に潜り込んで眠りに落ちた。が、起床ラッパですぐに起こされた。


 以後、冬の真夜中の不寝番に当たらないよう祈った。


 それとは反対に、炊事当番は待ち遠しかった。


 暗いうちに起こされるのは楽ではなかったが、当番の特権で、余り物にありつき、皆より多く食べることができた。


 当番の時、卵を隠して後で食べようと思っていたら、軍曹にばれてこっぴどく怒られたこともあった。


 食糧事情が厳しいこの時代、軍曹たちは食料を集めるのに大変苦労していたようだ。


 そのおかげで、私たち兵隊は、庶民より恵まれた食事をとることができた。


 十分ではなかったけれど、時には混ぜご飯や代用食としてのコッペパンそして、汁粉が出る時があった。


 甘味に飢えた私たちは、この汁粉の出る日が何よりも楽しみだった。


 夕食後、班付上等兵から軍歌の演習を受けた。


「軍歌の練習なんかして一体何の役に立つんだ」と私たちは、無駄なことだと不満に思っていた。


 しかし、五・一五事件に関与した青年将校が作ったと言われる「青年日本の歌」の歌詞の説明を受けた時の感銘は、私だけではなかった。


♪の淵に波騒ぎ ・・・義憤に燃えて血潮湧く ・・・・・・人生意気に感じては成否を誰かあげつらう♪


 何度も歌っていると、そのうち私だけでなく同期の連中たちも涙を浮かべながら歌うようになっていた。


 意気に燃えてきたり、戦友という仲間意識そして絆が、醸成されていた。


 軍歌の演習を終えると、消灯ラッパでようやく一日が終わり、床につけた。


 遠くの列車のガタンゴトンという音と汽笛を聞きながら、故郷や家族そして友人などを思い出しているうちに寝入ってしまうことが度々あった。


 早くこんな生活を終えて、自由になりたいとぐずぐず考えている時は、いつまで経っても眠れなかった。


 また、人の鼾にも悩まされた。


 神経質な私には、そのような日が時々あった。


   


 外出の日を迎えた。


 私たちは、この日を楽しみにしていた。


 私は、朝からうきうきしていた。


 町に出れるのだ。


 営門を出てだらだらした坂を下り、鈴鹿川を渡ると神戸という町にでる。


 まずは腹ごしらえと小さな食堂に入った。


「いらっしゃいませ」と中年の女性が、威勢の良い声で迎えてくれた。


 椅子に座ってお品書きに載っているすいとん定食の内容を聞いた。


「すいとん、麦ごはん、ふかしたジャガイモそして、ほうれん草のおひたしになります」


「じゃそれお願いします」


「すいとん定食をひとつ」と女性は大声で、調理場に向かって言った。


「お客さんは、兵隊さんかな?」


「はい」


「言葉づかいから、関東の方の生まれかな」


「神奈川県です」


「遠くからご苦労様ですね」


「お子さんはいらっしゃるのですか」


「あなたぐらいの歳の息子が一人いますが、今は外地に行ってます」


「どこですか?」


「シンガポールです」


「おーい、できたぞ」


 調理場から声がしたのを機に、女性は私から離れた。


 お盆にのせた料理を運んできて、私の前に並べた。


「ごゆっくりどうぞ」


 いい香りだ。


 すいとんから手を付けた。


「うまい」


 ひたすらぱくついた。


 満腹感が幸福を運んできた。


 初年兵の私の楽しみは、食べることと寝ることだった。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました。兵隊さん、武運長久を祈ってますよ」


 店を出て、あてもなく、町を歩き回るが、すぐに畑地が広がっているところに出くわしてしまう。


「田舎だな」


 自分の自由で時を過ごすことの有難さを感じながら、夕焼けの中を兵舎に帰って行った。


 同年兵が多くいる中、皆に負けないよう私は教育や訓練に打ち込み始めた。


 理由は、早く一等兵に昇進したくなったからだ。




 昭和十八年。正月元日、休むどころか、未明にラッパが鳴った。


 非常呼集だ。


「正月だというのにこんなに朝早く非常呼集なんて、いい加減にしてほしい」


 私たちは、不満を言いながら、着替えて営庭にでた。


「これから銃と剣術の訓練を行う!」


 まだ真っ暗な朝三時から練兵場で銃と剣術の訓練だ。


 寒さで眠気もすぐにとんでしまい、終わる頃には、汗をびっしょりかいていた。




 また、ある時の非常呼集。


 ラッパが鳴った。


「なんだ、またこんな時間に」


 眠気眼でしぶしぶで、命じられた完全軍装で、営庭に整列した。


「これから白子まで往復する!」


 私たちは、驚いた。


 白子まで片道は五キロ、往復十キロもある。


 私は、銃を持って走り切る自信はなかった。


 隊列をちゃんと組んでいたのは、片道までだった。


 復路になると挫折する者が、次々と出てきた。


 最後まで完走したものは百人中四、五名だった。


 私も復路の途中で歩き始めた。


 このような非常呼集が、度々あったのには閉口したが、よく考えてみると、今は戦時下という非常事態なのだ。


 いつ敵が来るか分からない、それに対処する訓練だと考えると納得の行くことだった。


 何しろ生死にかかることなのである。


 


 今日は、両親との面会の日だ。


 寒い雨の日、汽車の切符の入手が難しい時期なのに、わざわざ遠方から両親が、面会に来てくれた。


 夕方だった。


 営門から連絡を受けた私は心弾ませながら、営門の横にある面会場に入った。


 がらんとした部屋の片隅に、両親が緊張した面持ちで座っていた。


 父が、手を挙げた。


 私は、ふたりに近づき、敬礼をした。


「父さん、母さん、わざわざ来てくれて、ありがとう」


「元気でやっているか」


「はい、元気でやってます」


「そうか」


「孝明の好きなものを持ってきたよ」


 母が、風呂敷をほどいた。


 三段の重箱に食べ物が詰まっていた。


「大したものはないが、食べておくれ」


 私の好きな玉子焼きや煮物そして大好きなおはぎが入っていた。


「おいしそう。よく手に入ったね」


「母さんが、苦労して作ったんだ」


「早くおあがり」


「はい、いただきます」


 私は、あっという間に平らげてしまった。


「兄貴や弟、妹は元気にやっている?」


「英雄は、もう一人立ちできるほどになった。いつでも隠居できそうだ。光夫は、おまえの後に招集がかかったよ」


 英雄は兄で、光夫は私のすぐ下の弟だ。


「光夫はどこに召集されたの?」


「海軍だ。今、横須賀にいる」


「他のみんなは、どうしている」


「他のみんなは相変らず元気だ。おまえによろしく伝えてくれと頼まれてきた」


 久しぶりの再会、親はありがたいものだと思った。


 面会時間は、あっという間に過ぎた。


 暗闇の雨の中、私は営門でふたりを送った。


「身体に気を付けるんだよ」


「お国のために頑張るんだぞ」


「お父さんもお母さんもお元気で。兄弟に頑張っていると伝えてください」


 ふたりが視界から消えるまで、営門前で私は敬礼をし続けた。


  


 並業の期間を終えて、特業の無線の教育が始まった。


 私は技術に関しては全くの音痴で、ましてや無線など全くしたことがなかったので、前日は、不安でなかなか寝付かれなかった。


 教育は、無線通信手としての技能習得が目標だと教官が言った。。


 教育の内容は、モールス信号の習得、暗号電文の組立、解読、無線通信機の使用取り扱い、機材の点検等の内容だった。


 特に電気理論や送受信機の取り扱い方については、担当教官が、図解などを使って丁寧に説明されたので、私にもよく理解できた。


 実技は営庭で行われた。


 通信所の開設、電柱建設、三号甲無線機(広大な荒野を跋渉する騎兵隊用の無線機で、馬上の通信兵は司令部などからの呼び出しを常時受信できた。通信距離は、ほぼ八十キロ)、地二号無線機(通信距離六百キロの遠距離通信用)の取り扱いなどの実技が行われた。


 講義中、私は細大もらさず帳面に書きつけた。


 そして、暇さえあれば、復習をした。。


 実技演習の日を迎えた。


 その日は、小春日和だった。


 気象情報を無線で航空隊に知らせるという実践的な訓練だった。


 私は相手との交信中に、トンツートンツーの音が心地よく、ふと眠気が襲ってきた。


 いつの間にか、しばらくこっくりと。


 相手はそれに気づいたが、知らん顔をしてくれた。


 運よく上官には知られずに済んだものの、実戦の時だったらと思うとぞっとした。




 私は、二十歳の夏を迎えた。


 遊泳演習が行われると知って、私たちは喜んだが、初日の上官から演習の必要性の説明を聞いて、浮かれた気分は吹っ飛んだ。


「いいか、もし敵の潜水艦からの魚雷が、おまえたちが乗っていた船に命中して海に放り出されたらどうする。泳げなければすぐに溺れてしまうんだ。だから、おまえたちが遠泳できるようになるまで訓練する」


 私は海の近くに生まれたのだが、それほどの距離は泳げなかった。


 内陸の出身の兵隊の中には、演習が始まってから二日目ぐらいまで、溺れそうになった者も何人かいた。


 泣きそうな顔をしながら、歯を食いしばって水の中をバタバタしていたのが、、三日目が過ぎると、なんとか泳げるようになっていた。


 私たちがが帰っても、練習していた。


 彼らたちの根性に脱帽した。


 演習最後の日。


 遠泳競技が行われた。


「今日が最後の演習だ。富田浜から四日市までの遠泳を行う。約五キロあるが、今までの訓練でおまえたちは泳ぎきれる。いいか、生死がかかっていると思って泳ぐのだ」


 遠泳に自信のある者は白帽、自信のない者は赤帽をつけることになった。


 悩んだ私は、赤帽を被った。


 上官の檄に励まされて、私たちは海に入って行った。


 船に乗った上官たちは、一生懸命泳いでいる私たちを大声で励まし続けた。


 途中から、一人が元気をつけるために軍歌を歌いだすと皆がそれに続いた。


 とうとう一人も脱落せずに、私たちは完泳した。


 陸に上がった私たちは、感激しながら互いに握手を求めあった。


 


 数少ない楽しかったことのひとつは、開隊記念として部隊や中隊で行われた演芸会だ。


 希望者はだれでも出演できた。


 私は、何も芸がないので出なかったが、出演者の中には、落語家、浪曲師、歌手そして役者のプロがいた。


 巷で流行していた小畑実の「勘太郎月夜唄」、灰田勝彦の「加藤隼戦闘隊」、そして若鷲の歌」が歌われると多くの人たちが口ずさんだ。


 出演者の熱演に笑ったり、感心したりまたうっとりしたりと、ひと時ではあったが、私たちは戦時下であることを忘れて楽く過ごした。


 また、プロの演技を無料で見れるのは嬉しいことだった。


 昭和十九年。二月、米機動部隊のトラック島への日本海軍を空襲により、我が国の艦船及び航空機多数を失った。


 四月、初年兵教育を終えると、同期の連中との別れの日が来た。


 朝鮮、満州、南方等の外地へ行く者や幹部候補で転属になる者たちが任地へ向かった。


 私は、第二中隊に転属だった。


 六月、米軍,マリアナ諸島のサイパン島上陸し、日本軍守備隊三万人玉砕する。


    マリアナ沖海戦で、空母三隻及び航空機四百三十機を失っで惨敗。


 七月、中等学校以上の男女生徒は勤労動員として軍需工場や土木工事に動員された。


  後に私の妻となる女性も藤沢の軍需工場に砲弾を作りに行っていたようだ。


  私は、鈴鹿で二十一歳を迎えた。


 戦況は、悪化の一途をたどっていた。


 十月、レイテ沖海戦始まる。空母四及び戦艦三ほか二十六隻と航空機二百十五機を失う。


 十一月、B29により東京が初空襲を受ける。


 十二月七日午後一時三十分ごろ、私たちの班が食器の検査をしていた時だった。


 身体が揺れたので、私は疲れでめまい後したと思い、慌てて近くにあったの台の上に手を置いた。


 食器棚から食器が落ちて割れる音で、地震だと気づいた。


 激しく揺れている。


「地震だ。身を隠せ」


 上官が、大声で叫んだ。


 私たちは、台の下に潜り込んで揺れがおさまるのを待った。


 床には、食器の割れた破片が散乱していた。


 片付けに時間がかかった。


 私は、食器庫に行って、欠けていない食器を選別した。


 なんとか、夕食の準備までには、食器の数合わせに間に合うことができた。


 他の施設では、それほど大きな被害はなかったようだ。


 後に聞いた話では、町のあちらこちらで被害が出たようだが、軍部で情報が統制されていたので、被害の全容は隠ぺいされていた。


 昭和二十年。空襲警報が頻繁に発令され、地方都市も徐々に空襲の対象になってきた。


 三月九から十日にかけて、B29によって東京が大空襲を受けていた。


 本所、深川、浅草など下町一帯が、焼け野原に化した。


 六月、私は東京杉並区にあった桃井第二国民学校に行くように命じられた。


 私は浅草を訪ねた。


「こんなにやられて、我が日本軍は何をやっているんだ」


 またアメリカ軍の非情さにも怒りが込み上げてきた。


 わが身の無力さに涙があふれた。


 傷心した私は、国民学校で山梨県玉幡村(現在の甲斐市)の東部九五六隊への転属を命じられた。


「今更何しに行くんだ」と思いながら、玉幡に着いた。


 そこは、飛行場だった。


 私は、そこに併設されている陸軍無線電信所に詰めることになった。


 ここでは、空襲に備えて、機材庫の解体作業や近くの林野地に横穴式防空壕を掘る作業そして、通信機材を分散するための整理作業が行われていた。


 私は、防空壕を掘る作業を行うよう命じられた。


 この地も盆地のせいで高温多湿の日が続いた。


 毎日、汗びっしょりかいて穴を掘っていた。


 忘れもしない着任してから一か月もたたない七月六日。


 夜の気温は二十度を超えていた。


 盆地特有の蒸し暑く寝苦しい夜だった。


 十一時半ごろ、警戒警報のサイレンが鳴った。


 兵舎の照明がすべて消された。


 B29の爆音が真上に近づいた瞬間、上空から枝の垂れた柳のように広がって落ちる焼夷弾、真昼のごとく明るくなったと後に、身が縮むような音を立てて、落下する爆弾。 


 空襲警報のサイレンも焼夷弾が落下する音と地上に落ちて炸烈する爆発音でたちまちかき消された。


 はるか上空で、B29を攻撃する友軍機は劣勢のようだった。


 私たちは、自分たちの作った防空壕に逃げ込んだ。


「これじゃあ、我が国は勝てんな」


 誰かがぼそりと言った。


 皆、黙って俯いていた。


 私は、生まれて初めて死を意識した。


(こんなところで死ぬために兵隊になったわけじゃない。今までの訓練は一体何だった)


 空襲警報が、解かれた翌日の朝。


 隊の中は、混乱していた。


 上官たちは、途方に暮れていた。


 それでも、私たちは、あきらめずに規律を守っていた。


 私の班は、営門を出て市街を巡廻した。


 目に入ってきたのは、焼失した町のあちこちに倒れた焼死体や大やけどをして救いを求める多くの重傷者だった。


 焼跡のいたる所からは水道が噴出して、焼野原に電柱が傾いたまま燃え続けていた。             「なんとむごいこと。地獄の有様だ」


 私たちは、重傷者を爆撃から逃れた兵舎に運んだ。


 部隊長が、皆を集めた。


「敵が上陸したら最後まで抗戦したい。君たちもやってくれるか」と言って、賛否を求めた。


「承知しました」


 全員賛同したが、抗戦するには至らなかった。


 二十二歳になったばかりの八月十五日、正午、ラジオで放送された玉音放送により、私たちが夢想もしなかった晴天の霹靂の詔勅が下された。


 前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が、天皇から私たちに告げられたのだ。


 これで、すべての軍隊生活が終わった。


 私は、肩の荷が下りたような安堵感がこみあげてきた。


 他の連中は、むせび泣く者、ほっとしたような顔つきをしている者、不安気にしている者、人それぞれであったが、やはり下を向いて無念の涙を流しているものが多かった。


 私は、戦死、戦没した戦友たちへ黙とうを奉げた。


「みんな、機密文書を焼却してくれ。そのほか、証拠になるようなものはすべて焼却か廃棄するんだ」


 隊長が怒鳴った。 


 私たちは、気を取り戻して証拠隠滅の作業に入った。


 昭和二十年八月十五日から


 東京行きの汽車は、満員だった。


 東京駅で東海道線に乗った。


 焼け野原が、窓から目に入ってきた。


 実家は大丈夫かと急に心配になってきた。


 駅を降りた。


 以前の景色と同じだった。


「空襲を免れたようだな」


 安堵して、坂を下って行った。


 空は、茜色に染まり始めていた。


 私は、実家の玄関を開けた。


「ただいま帰りました」


 両親、兄弟が走ってきた。


「兄さん、おかえりなさい」


「孝明、ご苦労だったな」


 無口の父が、労いの言葉をかけてきた。


 母が、手拭いで目を拭っていた。


 私は、目で兄弟を追った。


 一人も欠けることなく、八人が揃っていた。


「よく皆無事だったな」


 久しぶりの家族団らんの夕食。


「孝明、せっかく帰ってきたのにこんな料理で申し訳ない」


 母が、おじやの入った茶碗を前にした私に向かって言った。


「兵舎でもおじややすいとんでした。終戦近くなった時は、毎日のようにサツマイモばかりでしたよ」


「それは、大変だったな」


 父が言った。


「お店の方はどうなの?」


「義男が一人前になったんで助かってはいるが、こんな時代だ、仕事はめっきり減ったよ」


「兄さんも立派な表具師になったんだな」


 兄の英雄が、笑みをこぼした。


「孝明もすっかりたくましくなったな」


 英雄が言った。


「みんなも見ないうちにそれぞれ大きくなたな」


 私は、芋の入ったおじやを食べ終えて、母に聞いた。


「母さん、いつもどんなものを食べているの?」


「そうね。おじや以外にすいとんとかサツマイモだね。なかなかお米は、手に入らないよ」


「お母さんは時々着物を持って、農家に芋や野菜と交換してもらいに行ってるのよ」


 姉妹の一番上の文子が言った。


「こんなことみんなやっているから、気にしない、気にしない」


 母は、猛々しかった。


 そうは言っても、両親がこの八人の子供たちを毎日三食食べさせるには、さぞ大変だっただろう。さらに、私が一人増えるのだからと思うと、一日も早く勤めなければと気が急いだ。


 食事を終えてからしばらくの間、弟や妹とに兵隊の話をした。


「孝明、英雄がお風呂から出たから、すぐにお入り」


 久しぶりにゆっくりと風呂に入ることができた。


 空襲におびえることはなくなったのに、いろいろなことが気になって、なかなか寝付かれなかった。


「物資不足により私たちの暮らしは戦中より、一層苦しくなったようだ。みんな苦労していたんだろうな」


 両親や兄弟たちの瘦せた身体に次だらけの服装から、私は戦争に負けたという悲劇を痛感した。


「空襲によって工場が破壊され、数多くの死傷者がでて、今では、貧困な国となってしまった。かつては、アジア唯一の先進国と呼ばれていた日本の姿は影形もなくなってしまった。私たちの国はこれからどうなるんだろうか」


 そんな心配をしているうちに寝入った。




 私は翌日から職探しに出かけた。


 私の住んでいる町よりはるかに大きい隣町へ行った。


 空襲の傷跡があちらこちらに残っていた。 


 バラックが、数多く建っている。


 闇市が並んでいる。


 昨日兄から聞いた話によると、


「食糧や生活必需品などは引き続き配給制が取られていたが、遅配や欠配が続き、都市部では餓死者が出ている。人々は正規の配給量だけでは飢え、特に都市部の人々は、農村部への買い出しに行ったり、闇市で法外な値段で入手したりするほかになかった。


 また、衣類は物々交換の際に食糧と交換された、破れても丁寧に繕いながら着用するのが普通の事だ。うちの母親も衣類を持って時々農家に行っているとさっき言っていたね」


 私は、兄から聞いた闇市というのを初めて見た。


 国は、この食糧危機に対して、GHQに食糧輸入の承認を求め、昭和二十一年二月に米軍の余剰食糧である小麦粉が引き渡された。


 これを機に世界各国やユニセフ、国際NGOから様々な援助が行われ、私たちの国は、危機的状況を回避することができたことを、私はだいぶ後で知った。。




 仕事は見つからなかった。


「この辺りでは仕事はないよ」


 どこに行ってもこのように言われた。


 父に相談した。


「この辺じゃあやっぱりないのか。孝明、東京に行ってみるか。大崎に叔父さんがいるから、しばらくそこに世話になって探したらどうかな。手紙を書いてやるからそれを持っていけ」


 東京の大崎にいる親戚を頼った。


 綿屋を営んでいた。


「よくきたな。せっかくだからうちの店を手伝ってもらえないか。四畳半の部屋が空いているから住み込みでどうだ」


 叔父の親切に甘えることにした。


「孝明、これからは大学を出ていないといい職につけんぞ。働きながら夜学に通ったらどうか」


 私は何校か受験した結果、N大学の商学部に入学することにした。


 仕事を終えてからの受講は、夕食を取ってからだったので、眠気との戦いだった。


 兵隊の時に比べれば、楽なもんで、たやすく乗り越えることができた。


 やはり仕事をしながら大学を卒業するのは、そう簡単なものではなかった。


 ほっとしていた時、父から見合いの話があるから、早く帰って来いという手紙が届いた。


 


 早速、実家に帰った。


 隣の町内の家の娘で、三歳年下だった。


 お互いに正面から顔を一度も見ることなく、結婚が決まった。


 私の希望で、大学を卒業してから、式を挙げることになった。


 再び、大崎に戻った。


 そして、並みの成績でN大学を卒業して故郷に戻って、すぐに式を挙げた。


 新居は、隣の町内にあった借家に決めた。


 仕事は、以前勤めていた布団屋に再就職した。


 まだ、衣食住事情は悪かったが、なんとか暮らしていけた。


 翌年、長男が生まれた。


 初めての子は、可愛かった。


 暇な時はおっかなびっくり抱いて、子守をした。


 ある時、子に発疹が出た。


「あなた、この子熱があるわ」


 妻に言われて、おでこを触ってみると高熱だ。


 すぐに近くの病院に連れて行った。


 医者は、麻疹だと言った。


 今の日本には良い薬はないと言われた。


 私たちは、嘆き悲しんだ。


 一歳にもならずに、子はこの世を去ってしまった。


 葬式には、実家が世話になっている寺の和尚に来てもらい、読経を頼んだ。


 それがすむと、泣き止まぬ妻と私は、息子の亡骸をリヤカーに乗せて、火葬場まで運んだ。


 小雨の降る昼下がりだった。 


 小さなお骨を見て、妻は泣き崩れた。


 私も嗚咽した。


 未だ息子の苦しんで泣いている姿を忘れることができない昭和二十五年三月の辛い出来事だった。




 昭和二十六年七月、再び男の子を授かった。


 私が、二十八歳の時だった。


 やはり、食糧事情のせいか、身体の弱い子に育ち、度々熱を出した。


 たまに、夜間に熱を出した。


 その時は、かかり付けの医者を起こして、頼み込んで診察してもらうこともあった。


 私たちは、この子を絶対に死なせないよう大事に育てた。


 その後、子供は、大病を患って大病院に通うことになった。


 小学四年になった時、医者から完治したと言われたと妻から聞いた時には、本当にうれしかった。




 世の中は、落ちつきを取り戻すと、食料品の生産量も増加し、厳しい統制下に置かれた物品も市場に出まわるようになった。


 そのため統制する必要もなくなり、再び自由に物品を売買することができるようになった。


 昭和三十一年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記され、日本は短期間に驚異的な復興をとげた。


 この時、私は三十三歳になっていた。


 やっと戦争は終わったと感慨深い年でもあった。




 終戦から三十八年の昭和五十八年の秋、第一回一気連戦友会が開催された。


 六十人を超える人たちが集まった。


 私たちは、鈴鹿の青春時代の思い出話にいつまでも花を咲かせた。


 昭和も終わって平成の時代に入ると、戦友たちも他界したり超高齢になり、戦友会の幕を閉じることになった。


「皆、歳には勝てないな」

 その時が、きっと父や戦友たちの本当の終戦ではなかったろうか。


 私は今朝も仏壇に手を合わせた。


 


                                 了

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父と戦友たちの終戦 沢藤南湘 @ssos0402

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