神の慈悲なくばEx. ~Othello Syndrome~

吉村杏

Othello Syndrome

 ピーター・パンみたいに空を飛んだこともあるし、チンギス・ハーンと一緒に草原を駆けて、羊の生の肝臓を味わったこともある。でも、においを感じたことはない――夢の中では。

 そこは納骨堂だった。明かりといったらマリア像の前に置かれたロウソクの炎だけだ。それでも、中でなにが起こっているのか見るのに、べつに苦労はしなかった。苦労したのは、ブチギレして大声を上げそうになったのをこらえることだ。うなされて自分の声で飛び起きるのと一緒で、そんなことしたら目の前の光景が消えちまうってわかってるから。

 献花台の前にはクリスと、それからニックの野郎がいた。ふたりとも向き合っていたけど――大体あの野郎はいつも必要以上にクリスに近づきすぎだ――告解をしていたわけじゃない。十インチ〔30㎝〕と離れていなかったからだ。

 ニックがなにかくだらないことでも言ったんだろう、クリスが笑って――その顎をやつがくいっとつかんだかと思ったら、吸血鬼野郎はそのままクリスの唇を自分ので塞いだ。

 吸血鬼とキスするなんて想像しただけで吐き気がするけど、人間クリスは俺たちより鼻がきかないからなのか、目をつぶってうっとりとやつに身をまかせている。

 舌を絡める音さえ聞こえるほどの熱っぽいキスで、俺のはらわたは煮えくりかえりそうだった。やつに魅惑チャームドされたのかもしれなかったが、そうでなくてもやつは万死に値する。

 どうせ見るならもっとましな夢が見たいと願ったが、俺の願いとはおかまいなしに、行為はどんどん進んでいく。

 やつが唇を離すと、ロウソクのあかりにクリスの唇が唾液で濡れて光っているのが見えた。いつもよりあかくて、心臓がキュッと締めつけられる。

 遠慮って言葉が辞書にない野郎の唇と手がクリスの喉元をさぐる。血を吸おうとしてるんじゃないってのはわかった。クリスのほっそりした首筋に軽く歯を立てながら、やつは法衣スータンの気の遠くなるような数のボタンをひとつずつはずしていく。その下のシャツのもだ。クリスは図々しい吸血鬼の頭を張り飛ばすどころか、ちょっと身をよじってため息を漏らす。マリア像みたいに白くて、でももっとずっとやわらかい頬が、熱でもあるみたいに染まってる。すべすべした桃色ピーチ・アンド・クリームの、それこそそこらじゅうにキスしたいし食べちまいたいくらいの。

 ――クソ、なんだって俺の足は床に根が生えたみたいに動かないんだ!

 へそのあたりまでボタンをはずしてしまい、ニックが残りを引きはがすと、法衣ごと、はだけたシャツが足下に落ちた。台の下に丸まったかたまりは黒々としていて、なにか不吉な生き物がうずくまっているみたいに見える。

 スラックスも下着ごと抜き取ってしまうと、献花台の大理石と同じくらい白い肌が夜目にもはっきりうかびあがった。吸血鬼野郎の死人みたいな青白さじゃない。健康的なほんのりピンク色の胸のとがりもだ。

 ニックが舌なめずりしたとしても、俺にはやつを責められない。俺も同じだったからだ。生唾を呑み込むってのはこういうことをいうんだろう。

 俺はクリスが素っ裸でいるところなんて見たことないし、〈年寄〉の“アレ”にもこれっぽっちもキョーミはないから、目の前の光景が想像――っていうか妄想――だっていうのはわかっていた。頭では。

 だけど俺の下腹部は痛いほど疼いていたし、パジャマ代わりのショートパンツの前はつっぱっていた。

 クリスを大理石の台の上に横たえて、血管の透けて見える首筋から鎖骨、それからなめらかな胸元に遠慮なく舌と手を這わせているあいつを今すぐブッ殺してやりたいと思いながら、同時に、やつと同じことをしたいと願っていた。――ちくしょう、こんなのあんまりじゃないか。

 やつが敏感な箇所ところをきつく噛んだり舐めたりするたびにクリスが切なげな声をあげる。そんな声、一度だって聞いたことない。すごくセクシーで耳に残る。ヤバい、それだけでパンツの中でイキそうだ。

 左鎖骨のすぐ下にニックが牙を立てた。にじんだ紅いしずくを、卑猥といってもいいくらいのしぐさで舐めあげる。

 首に噛みついたら俺にバレるからって、いくらなんでもそんなところにキスマークつけることないだろう! ほとんど心臓の上じゃないか!

 これは夢なんだから――俺は自分に言い聞かせる――でも、口の中がアリゾナ砂漠みたいにカラカラだ。許されるものなら俺も飲みたい。血も、それ以外のものも。

 まるで俺に見せつけるみたいに、クリスのあちこちに自分の所有物ものだって言わんばかりの印をつけながら、吸血鬼野郎の頭が、平らな腹のさらに下――髪より少し濃い色の茂みが始まっているところ――へ降りていくゴーズ・ダウン・オン。感極まってか、愛撫なのか、きつく目をつぶったまま、クリスはやつの、いつも嫌味ったらしく整えられているアッシュブロンドに指を差し入れてくしゃくしゃに掻き回す。

「ぁあ……お願いだ……めないで――」冷たい大理石の台の上で、いやいやをするように、やわらかい金髪を揺らして、うわごとを言ってるみたいにくりかえす。片手の爪が石の台を引っかく、小さなカリカリいう音が、犬が舌を出して水を飲むときみたいな音(あいつ絶対わざとやってるだろ)に混じって、いやに大きく聞こえる。

 俺はもう泣きそうだった。クリスにそんなふうに懇願されたら、なんだって言うことをきくのに(ただし、吸血鬼野郎の杭を抜いてやるのだけは金輪際お断りだ)。だが、意地悪な野郎は途中で口を離してしまった。

 クリスのすんなりした片脚を抱えあげて、隠されていたところをやつの唾液とクリスの先走りをすくい取って濡らした指で探るようにする。それだけでクリスの白い喉がのけぞる。そこから漏れるのは切れぎれの喘ぎだ。

 時々、皮膚の薄い耳朶を甘噛みしながら耳元でなにかを――さすがに聞こえないけど、想像するにゼッタイやらしいことだ――囁きながらやつが指先を動かすたびに、パイプオルガンの音色が変化してくみたいに、クリスの音程が変わる。あいつがかせているのは上のほうだけじゃなくて、頼りないロウソクのあかりの中で、クリスのそこも反りかえって涙を流してふるえているのが見えた。そんな反応を、よりにもよってやつが(!)引き出してるのがもう……悔しいやらうらやましいやらで俺の頭は沸騰してくるし腰は溶けそうだしで、情けないことにちょっと内股になっていた。

 クソッタレ――マジであいつにはモラルってもんがないんだ! 

 指が引き抜かれたとき、ねだるような甘えるような声がクリスの唇から漏れた。きれいな唇も、贅肉なんて一オンスもついてない脇腹も、それから暗めの金髪も、唾液と汗で濡れてきらきら光っている。やらしいのか、それとも神々しいっていうのかよくわからない。

 クリスのは全部剥いでしまったのに自分はジャケットすら脱いでいないやつがクリスに覆いかぶさったとき、俺は本当に心臓が止まるかと思った。生きているのはクリスしかいない、とした納骨堂に、一瞬、暗がりで誰かに刺されたみたいな鋭い声があがったからだ。でもそれは俺の乾いてひりつく喉から出たんじゃなく、文字どおり俺の目の前でやつに貫かれているクリスの喉から出たものだった。

 このあいだのミサにもぐりこんだときと同じ真っ黒なスーツを着ているせいで、なにか邪悪な生き物が――いや、吸血鬼が邪悪なのは百も承知だし、やつははじめっから死んでるんだけど――夜そのものがクリスを犯してるみたいに見えた。あるいは黒い狼が。

 死人は息をする必要がない。だから、夏でもひんやりしている納骨堂の中に響くのはクリスの息づかいだけだった。苦しそうだけど気持ちよさそうな、獣じみた声。それだけで堂内の温度が上がったみたいに感じられて、俺は全身がカッカしてきた。

 やつは悪魔みたいに容赦なくクリスを責め立てた。やつが腰をつかって深いところを抉るたびに、苦しいのかすぎるのか悲鳴みたいな声をあげて肘をついて逃げようとするのを、手首を掴んで荒っぽく引き戻す。俺だったら――同じことをするかな、それとももうちょっと……するかな、ああもうわかんねえや。

 クリスの声がいよいよ切羽詰まった感じになって、それと一緒にやつの動きも速くなり、大理石の台の上で、まるで生贄いけにえみたいに、白い上半身と、胸につくぐらいまで折り曲げられた、きれいに筋肉のついた脚が痙攣したみたいに跳ねるのが闇の中にうかびあがって見えた。

 もう耐えられないとばかりにクリスが叫ぶ――を。

 ふたりがクライマックスを迎える直前に俺は毛布をはねのけて、自分のものをこすりあげていた。

「――あ、あっ、クリス、クリス……――っ!」

 快感と嫉妬で目の前がチカチカした。

 やべえ、と思ったときには時すでに遅しで、ティッシュが間に合わなくて片手でおさえたけど、胸にまで飛んじまった。……あーあ、手がベタベタだ。

 俺は息をはずませて、しばらくベッドに寝っ転がっていた。くときのクリスの表情カオまで見届けられないうちに現実に戻ってきちまったのは残念だけど、吸血鬼野郎の満足げな顔なんかでイッちまった日には三日くらい立ちなおれないだろうしちも悪くなる気がするから、まあいいか。

 薄暗い部屋の中はちょっと熱気がこもっていて(たぶん俺の体温のせいだ)、おまけに栗の花の匂いが充満していた。もし今クリスが入ってきたら、一発で俺が何をしてたかバレちまうだろう。――まあ、絶対、気づかないフリをしてくれるだろうけど。

 こんな夢を見た原因はわかってる。なんつってもジェレミーと〈年寄オールドニック〉と、それからラ・ヨローナのせいだ。

 神様に口答えするなってジェレミーは言ったけど、実際、呪う相手がいるってのはいいことかもしれないな。全部そいつのせいにできるんだから。

 ……だけど俺はマゾヒストにでもなっちまったんだろうか?



 翌朝、俺はひどい状態ありさまだった。ほとんど寝ないで、バカみたいにやりまくっていたからだ。あのあと、もっと都合のいい展開にならないかと期待して寝ようと努力はしてみたんだけど目が冴えててムリで、それならってんでシーンを反芻して、いろいろつけ加えたりなんだりして……そのあれだ、自分の夢だからって自分の自由になるわけじゃないし、人にはそれぞれってのがあるだろ、詳しくは言えないけど。

 腫れぼったい眼をこすりながらバスルームで歯を磨いていたら、洗濯したタオルを持ったクリスが入ってきた。

「おはよう、ディーン」

「……おはよ」俺は歯ブラシを口につっこんだままもごもご言った。

 先にシャワーを浴びといて助かったぜ。

「……ねえクリス、俺の目黄色くなってないよね?」

「どうした? 肝臓でも悪くしたのか?」

 クリスの澄んだブルーの目が、心配そうに俺の顔をのぞきこむ。

「いや……」

「大丈夫だよ、見たところ黄疸は出ていないから」

 安心させるように俺の頬を軽く叩く。

「……うん」

 ……この様子を見る限りじゃ、絶対ニックあいつとはヤってないよなあ……?

 シャツを脱がせてたしかめたいけど、そんなことできないし、五時起きでシャワーを浴びてるからか、納骨堂の――あいつのにおいもしない。

 俺は頭をふって、不吉な想像を追い払った。

「お前は人間なんだから、そんなことをしたって髪は乾かないぞ。ちゃんとドライヤーを使いなさい」

「……へーい」

 そこで盛大に腹が鳴った。そりゃああれだけしたら……。

「そういえば忘れていた」クリスが言った。

「なに?」

「パンを買うのだよ。ジェレミーに頼んでおいたんだけど、あんなことがあったからすっかり……。シリアルならあるけど」

「――マジかよジーザス、頼むよ、クリス!」俺は情けない声をあげた。「俺言ったよね、シリアルは飲み物だって!」

 ……ああ、まったくなんてツイてない日だ。



 to be continued…?

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