いきなり、レビュー投稿のひとこと紹介部分で、作中の彼の台詞を引用してしまった。だが、どうしても、この台詞を頭にもってきたかった。神慈悲シリーズをⅠから読ませていただいて、たどりついた前日譚。これぞ、神慈悲だ、と自分では思う、とても印象深い台詞が、この台詞だったからだ。
気になる内容は、スクールカウンセラーをしている神父・クリスが、とある少年・ディーンと出会う。成績不良、素行も奇妙。そんな彼が気になるクリスは彼との接近を試みる。そして、明らかになる、彼、そして彼の家のとある秘密が――、というもの。
神慈悲シリーズ本編から入ったひとは、あの「彼ら」のその前が知れて、とても面白く読め、またシリーズ未読者はこの作品から本編Ⅰへとダッシュで読みたくなるような、魅力的な作品だ。
このゼロの魅力に対して語り出すと、自分の言語機能がだんだん麻痺してきて怪文書化してしまうため、またネタバレを避けるためにもその全てをレビューに書くのは不可能だ。
ただそれでは、どうにかして神慈悲をおすすめしたい自分としては、何も書かないのは、消化不良になるため、自分にできる限り、荒ぶらないようにしながら(だって大人しくしていられるか! とんでもないシリーズなんだぞ!)、一つだけ、カクヨムユーザーや通りすがりのかたに叫びたいことを書き込ませていただく。
神慈悲は、「真剣」。言い方を変えれば、ものすごい「ひたむき」な作品なのだ。
本編もものすごく、小説世界の人物、出来事に真剣なまなざしで切り込んでいくが、このゼロはまた違ったスタンスで、「ひたむき」に物語を紡いでいく。
主人公クリス視点に固定された一人称の文章からは、時にユーモアを交えながらも、彼の実直であたたかな性格を反映してか、悲痛な叫びを受け止めるぬくもりを感じる。そんな文章でつづられていく、「手を差し伸べる」ことへの想い。それがいかに難しいことか。
ひとが、ひとの幸せを願う。誰かの力になろうとするということ。
その難しさ。そして、それがもつ――力、のようなもの。
クリスもディーンも文字で構成されているとは思えないくらい、生き生きとして、確かにこの小説世界に根を張り、血を通わして生きている。だからこそ、手を差し伸べる側のクリスの視点からは優しさがあふれてくるし、全能ではない悔しさも滲む。
だからこそ、クリスを通してみるディーンの変化、表情やしぐさの描写(あえて描写されていない箇所を含めて)に、こちらの読み手の心がもっていかれるのだ。
二重の意味での「真剣」「ひたむきさ」だ。作者が作品を描き紡ぐその姿勢も、作中世界を生きるクリスのまなざしも、必死に息をして生きるディーンの呼吸も。作者がどう書いているのか知らないくせに、何を言うか、と思うかもしれないが、これだけのことをしておいて、ひたむきでないわけがないだろうと思う。
書き手も、そして読者も、夢中になれる世界があるから、どうか、少しでも神慈悲が気になったというかたは、この作品を開いてみてほしい。
痛々しくも、つらくも、切なくも、だからこそ、やさしく、あたたかく、そっと、肩にぽんと手を置かれたかのような、エンドまでたどりついてほしいと思う。
と、ここまで書いて、最後にもうひとつ。冒頭のあの台詞がどこで、どのタイミングで発せられたものか、も、どうか確かめてみてほしい。そして、この台詞を発するクリスがどれだけ、言われたディーンくんがどれだけ、そして、それを見せられた読者としての自分がどれだけ……。本当に、こういうことをしてくれるから、とんでもないシリーズだ。
きっと、このレビューなんてすぐに埋もれてしまうと思う。それでも、この下手くそなりに必死こいて書いているレビューも、誰かの心に届けばいいな、と思う。
この作品が、神慈悲シリーズが、自分の心に届いた作品だからだ。「彼ら」がもっと読まれてほしい。そう、「彼」と「彼」だった、ふたりが「彼ら」になっていく過程の物語だ。
それに、作者が手放してくれるところを手放してくれている。読むひともたくさんいれば、それだけ、たくさんの読み方、捉えられかたが生まれる作品だ。
いち変質的読者が――コメント欄を荒らしてしまっている人間が、いうべきことではないかもしれないが(だって怪文書化するんだもん…)、本当に、読んでもらえれば、心から嬉しいと思える作品です。