第53話・愛されている子

 厨房から料理人達が夕食の下拵えする音だけが、遠く離れた玄関ホールにも微かに聞こえてくる。時たま吹く風が中庭の木々の葉を揺らしてるのが分かるほど、屋敷の中には余計な音がほとんど無い。

 声を発してその静寂を壊す勇気もなければ、目の前でゆったりと腰掛けてブレンド茶を味わっている辺境の魔女を正面から見据えることすらできず、男達はただただ俯いているしかできなかった。


 ほんの数分前まで襲っていた氷の恐怖が、いつまでも余韻のように纏わりついて離れない。すでに体温は戻っているのに、足の震えが止まらないのはマリスへの畏怖からか。

 ようやくまともに話を聞いて貰えるようになったと、マリスは口の端に笑みを浮かべる。


「たとえ魔術指導者をさらに増やしたとしても、あの子をこの領から出すことは出来ないわ。もう国への登録は済ませてあるし、私の父の許可も下りないでしょう」


 トルサスでマローネを養育する環境を整え直せたとしても、領主の許可なしに他領へ手渡す訳にはいかない。高魔力を持つ子を領内に置いておきたいのは父、サイラスも同じだ。


「い、いえ……正直に申し上げますと、私の方では魔術教師をさらに追加で探し出して雇うなどというのは難しいかと……」

「あら、そうなの?」

「……はい。大変お恥ずかしいことですが、そこまでの余裕はございません」


 普通の家庭教師なら話は違うだろうが、魔術教師は一人見つけるだけでも大変だ。しかも守護獣付きとなればその人数はかなり限られているし、大陸レベルで探し出さなければ出会うことすらままならない。

 そして何より、トルサスの中堅商会でしかないマフォックス商会にはその契約金を工面する資金力はなかった。雇うのがオルガ一人ならば後の恩恵を試算しても利は残るが、さらにもう一人となると血の繋がらない赤子を養子にする旨味はほとんどない。


 儲けどころが無いと判断したザイルは、両隣に座るオルガとシュリッツをちらりと見やった後、「では、そういうことですので」と立ち上がり、その場でマリスへ向かって深く頭を下げる。得る物が無いと分かれば、早々に見切りをつけて立ち去るのが得策だ。


 一人で玄関扉へと向かって歩き出したザイルの姿に、残された男達は慌てふためいた。預けていたローブを侍女から受け取ったオルガは、それを素早く羽織ってザイルの後を急いで追う。養子の話が流れたということは、彼は新たに就くはずだった職を失ったということ。先払いされた契約金など、話し合うべきことは山積みだ。


 二人に次いで立ち上がった若い農夫は、まだ怯えの色が残った瞳のままマリスに一礼する。ぎこちないながらも深く長い礼はたった一人の娘への想いが込められているように見えた。生まれてすぐに離れてしまった為、父親の自覚が芽生えることもなく、彼は娘にとっての最善を完全に見失っていた。


「あの……娘には、あの子には、何と名付けていただいたのでしょうか?」


 産後ままならない身体で娘の未来の為に動いた妻へ、せめて娘の名前を教えてやることができたなら、これ以上ない土産話になるだろう。


「あの子の名は、マローネよ」

「マローネ、ですか……マローネ、良い名ですね。ありがとうございます」


 娘の名を繰り返し、にこりと笑む。この屋敷へ来て、シュリッツが初めて見せた笑顔だった。「あの子のこと、よろしくお願いします」と、もう一度頭を下げた顔は少しだけ親のそれに変わったようにも見えた気がする。


「次にいらっしゃる時は、ご夫婦一緒にね」

「え……?」


 マリスの言葉に、男は驚いて顔を上げた。すっかり冷めてしまったティーカップへ熱を加えてお茶を温め直した魔女は、その湯気にふぅっと息を吹きかけてから口に付けている。


 エバの親のように、預けた時点で子の誕生そのものを無かったことにしてしまう者もいる。けれどもし、シュリッツ達がそうでないのなら、望まれればいつでも娘に会わせてやるつもりでいた。それはきっとマローネにとっても良いことのはずだ。あの子から親の存在を奪うつもりは毛頭ない。


「……心より、感謝いたします」


 もう一度頭を下げると、シュリッツはザイル達を追って足早に玄関へと向かう。控えていた使用人が玄関扉を静かに閉めた音を聞いたマリスは、カップをテーブルに戻すとソファーから立ち上がった。


「そろそろ、昼寝から起きる頃かしら?」

「ええ、先程お声が聞こえておりましたわ」


 二階を見上げ、子供部屋の方に耳を傾けてみる。今泣いているのはエバの子だろうか、遠慮がちな短い泣き声が聞こえてきた。

 階段を上がり、二階の部屋の扉をそっと押し開いて入ると、一番小さな赤子を抱いてあやしているメリッサが微笑んで迎える。


 三台並んだベビーベッドの一つに歩み寄ると、マリスはその中で三毛の猫と一緒に眠っている赤子を覗き見た。そして、いつも乳母がするようにその栗色の前髪をそっと撫でる。


「マローネ。あなたは愛されている子よ」


-完-

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辺境の魔女と、拾われた猫付きの子 瀬崎由美 @pigugu

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