第52話・トルサスの商人4

 別邸とは言っても領主であるシード家所有の屋敷はその玄関ホールだけでも十分な広さを有していた。小さな菜園を耕して細々と生計を立てているシュリッツの、隙間風が入り込む小さな荒屋なら余裕で二つは収まってしまいそうなほどだ。

 仰々しい彫刻や骨董の類いは見当たらないが、壁に飾られた額入りの絵画は色鮮やかで、大きな花瓶には生花が贅沢に生けられて華やかな空間を醸し出している。


 今こうして腰掛けているソファーだって、かつて経験したことのない座り心地で、どこに体重を掛けてよいのか迷ってしまう。全てがどう立ち振る舞うのが正解なのかが分からず、オドオドとザイルの影で縮こまっているのが精一杯。シュリッツは屋敷の門を潜り抜けた時からずっと落ち着かなかった。


 ほとんど声を発してはいないが、極度の緊張からか、この場にいるだけで喉がカラカラに乾いていた。だが、目の前のテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばす勇気もなく、琥珀色のお茶から立ち上る湯気を恨めし気に眺めていた。

 だから、魔力を持たない彼でも、いち早くその異変に気付くことができた。


「えっ……?!」


 ほんの数秒前までは温かく白い湯気をほんわりと立てていたはずのカップのお茶が、見る見る内に凍り付いていく。カップだけでなく、それが乗るテーブルも霜が降りたように白く変わり、柔らかかったはずのソファーの座り心地も何だかおかしい。急速冷凍、まさに一瞬の出来事だった。周りの何もかもが凍った後、遅れて感じたのは肌に痛みを感じる程の冷気。


 驚き、周りを見回してみるが、彼らから少し離れた場所で待機中の屋敷の使用人達は何事もないかのように平然としている。花瓶の花は活き活きと咲きほこっているままだし、窓からは日の光が差し込んで床を温めている。


 けれど、吐く息が白く変わり、彼らの周辺だけが霜を纏っている。そして、目の前に腰掛けている屋敷の女主人は冷ややかな瞳でその様子を伺っていた。


「こ、これは一体……?」


 状況が理解できず、ザイルが身体を震わせながらマリスに問いかける。このような不自然な現象は彼女の魔法以外に考えられない。自分達の周りの温度だけが氷魔法によって氷点下まで下げられているのだ。たった一言声を出しただけで、肺の奥深くが冷えて痛みすら感じる。


「生まれ持っている魔力は歳を取って減ることはあっても、増えることはないわ。あの子も私と同じ猫付きよ。抑え込めるというのなら、やってみせて下さらない?」


 マローネが自分で制御できるようになるまで、成長過程で何度となく起こるはずの魔力暴発。それを正しく受け止めるには同等以上の力を持つ魔術師が必要とされる。守護獣が鼠のオルガ一人では、猫の守護獣がいるマリス達の力を封じ込めることなど出来るはずがない。


「経験があるとおっしゃっていたけれど、先生お一人では私の力を抑えることは出来なかったのでは? 出来るのなら、やって見せていただけます?」

「……マ、マリス様。人に向かって魔法を使われるのはいかがなものか」

「これはただの見極めよ。あなた方があの子を正しく養育できるかの」


 身体の芯まで冷え切った男三人は並んでガタガタと震えている。何とか抵抗しようと魔力を放出しているオルガの額からは冷や汗が噴き出しているようだが、それすらも出た瞬間に凍り付いていた。それまで頻繁に顔を出していた鼠は胸ポケットの奥へと潜り込んだままだ。


「オルガ卿、頼みます。もうこれ以上は――」

「言われずとも、ずっとやってる!」


 真っ白い息を吐き出しながらザイルが弱った声を出し、オルガは苛立ちを露わに怒鳴り返す。先程よりもさらに気温は下がり、息するだけで苦しさが襲ってくる。手足の指先はすでに感覚が無くなっている。

 必死の形相で魔力を繰り出しているオルガに反して、マリスは顔色を変えることなく向かいの席からティーカップに手を伸ばした。魔女が手に取ると、カップの中からは再びゆらりと湯気が上り始める。


「正しく制御する者がいないなら、あの子を引き渡す義理は無いわ」

「し、しかし、シュリッツは、実の父親ですっ」


 そう簡単に諦めきれないザイルが、息切れぎれに反論する。


「猫付きの魔力だと、この屋敷くらいなら簡単に破壊できてしまうんだけど、それでも構わない? 力を受け止めきれないってことは、そういうことよ」


 マリスの言葉に唖然とし、ザイルが隣に座る魔術師を振り返ると、諦めたように肩を落としながら首を横に振っている。すでに魔力切れを起こしたらしく、青褪めた顔でぐったりしていた。魔術師同士の力の差は誰が見ても明白だった。


「……私の考えが、甘かったようです」


 ガックリと頭を下げたザイルに、マリスは小さく笑んでみせる。そして、男達に放っていた魔法を解除する。

 即座に周辺の気温が戻り、氷を張っていたはずのティーカップからは温かい湯気が立ち上る。冷え切って感覚を失っていた手足が自由に動くようになると、男三人はホッと胸を撫で下ろしていた。

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