キュウリの馬、ナスの牛

金糸雀

*

 それは単なる思いつきというか勢いというか、そんな感じだった。

 父さんの初盆だけど、俺、時節柄帰省できないから墓参りもしてやれないし、まぁいっちょ作ってみるか――くらいのノリで。




 正直、父に対してはそこまで強い思い入れはない。子供の頃は一緒にゲームをやったり、小遣い貯めて買うには少し厳しい、値の張る図鑑を買ってもらったりしていたけれど、中二辺りから数年間は険悪な仲だった。といっても父は一貫して穏やかな態度を崩さなかったのに、その穏やかさにすらムカムカして、俺が一方的に疎んじて苛立って突っ掛かるという感じだった。

 息子と父親という間柄はまぁ、いろいろと難しい。特に思春期は、相手が父親というだけで、一挙手一投足にとんでもなく腹が立つ。男の子が大人になる過程においては擬似的な父親殺しが不可欠、なんていう古い心理学の学説もあるくらいだが、息子と父親の如何ともしがたい関係性を事実として認められるようになったのは、社会人になってからだったと思う。


 俺は大学入学と同時に上京したが、当初は半年に一度ほどだった帰省の頻度が、年一回、三年に一回――と、間遠になって行った。帰省より優先することが増えた、ということだし、家を出た子供がだんだん実家と疎遠になること自体、自然な成り行きといえるだろう。

 帰省をした折には、子供の頃のように甘えるでもなく、思春期の頃のように剥き出しの敵意をぶつけるでもなく、父とはただ同じ空間、同じ時間を共有するだけのことが多かった。二人とも口数が多い方ではないし、そもそも共通の話題が少ないのだから話すこともない。それでも、実家をあとにする時には土産を持たせてくれて、飛行機を使っていた頃は空港まで、新幹線が開通した後は新幹線の最寄り駅まで送ってくれたりもしたから、父は父なりに俺を想ってくれていたのだろう。



 父は俺に心配を掛けたくなかったらしい。三年ほど前に癌が見付かり、治療のために入退院を繰り返したが、『俺の病気のことは黙っていろ』と母に口止めをして、病気であること自体を最期まで俺に知らせないことを選んだ。

 俺は俺で、たまの帰省以外には日常的に両親と連絡を取り合うわけではなく、時折母とLINEをする程度だったから、父の肉声を電話越しにでも確認する機会はなかった。もし、声を聞けていたら、気付けていたのかもしれない。  

 一昨年、『GWに久しぶりに帰省しようかと思うけど、都合どう』と訊いたところ『今いろいろ忙しいから相手できないよ』と返事が来た時は変だと思った。父も母もあまり外交的な方ではなく、近所ともさして交流せずに静かに暮らしているはずで、何を忙しくしているのか、この時の俺には想像が付かなかったからだ。何が忙しいのか突き詰めて確認していれば、いやあるいは予告なしで実家を訪れていれば、事実を知ることができていたのだろうか。


 全てはの話で、何もかも今更なのだが。



 そんなこんなで、唐突に『お父さんが亡くなって、お葬式をするから来てくれる?』とこの時ばかりはLINEではなく電話で母から連絡を受け、急いで忌引きの手続きと新幹線の手配をして駆けつけたのが昨年十一月。

 病気だったこと自体知らなかったのだから、亡くなったと言われても実感は薄かった。実家に安置された父を見ても、やはり現実とは思えなくて、とはいえなんだかよくわからないけれども自分にとって大切なものを喪ったということはよくわかって。

 

 ――親が死ぬって、なんかこう、びっくりするほどつらいな? 

 過密スケジュールによる疲れも手伝ってうまく働かない頭で、思った。 



 さすがに新盆には何かしたかったのが、今年のお盆は、帰省することをあきらめた。おそらく、秋の彼岸も命日も無理だ。何故俺が当面の帰省をあきらめているかといえば、年初に海外で発生が確認された新しい感染症が日本にも程なく上陸し、有効な対応策がないのでせめてもの感染拡大防止のためにマスク手洗い消毒とともに、各々自分の生活圏を極力出ないことが強く推奨されており、帰省だろうが遠距離の移動など以ての外という雰囲気だからというのが大きい。


 だから何か家でできることを何か――と、思ったのかどうか。

 それは自分でもよくわからないのだが。


 八月十二日、お盆休み初日の朝。何か食うもの、いやそれよりも何か飲まねば、と冷蔵庫に向かい、麦茶を飲んで、冷凍炒飯を温める待ち時間に、俺は五本百円で買ったキュウリをビニール袋ごと冷蔵庫から取り出し、なんとなくこれが良いと思う一本だけを手に取って残りを冷蔵庫に戻し、割り箸を手に取った。先日コンビニに行った時、カレーを買ったのに何故か店員が付けてくれたので、使わなかったものだ。

 割り箸をまず二つ折りにして、更に縦半分に割り、スマホで検索した画像を手本に、追った割り箸をキュウリに挿して自立するよう角度を整えてやると――なんだか不格好だが一応は、キュウリの馬が完成した。


 冠婚葬祭にも独自色の強いところがある北海道という土地柄故か、俺は、精霊馬しょうりょううまというものを大人になってから知った。最近では大層豪華に飾り切りを施されたやつやら、Cucumberキューカンバーと「九冠馬」を引っ掛けてGIジーワンレースの優勝レイを九枚掛けられたやつやら、Twitterにも流れてくるようになったが、スタンダードタイプの精霊馬の画像を初めて見た時はなんだかすごくシュールだと思って、げらげら笑ってしまった記憶がある。


 

 お盆休みは十七日までたっぷり一週間あるが、開催予定だったオリンピックも感染症のせいで流れてしまったから、暇つぶしにテレビをつけて、何かの競技の中継を眺めるということもできない。とはいえ、別にないならないで全く構わないという程度には、オリンピックに対する興味も薄いが。


 ここ数ヶ月ずっと在宅勤務が続いていて、仕事と休みの境界線はぼやけている。人間、他人の目もあるオフィスでデスクに向かわなければ仕事モードに切り替わりにくいというものだ。在宅勤務中にだらけて業務とは全く無関係なサイトにアクセスしてしまったりするのは、きっと俺だけではないはずだ。 


 かくして俺はお盆休み初日をスマホでネットサーフィン、合間にちょこちょこ洗濯機を回したりするという、普段、在宅勤務をしている平日とさして変わらないことをして過ごした。

 どうせ飲み屋にも繰り出せない、それどころか外食自体推奨されていないのだから致し方ない面もあり、俺はここ最近少しはまめに自炊をしている。冷蔵庫の中身を確かめるとキュウリの他に皮が少ししなびたナスが三本と豚バラ肉、二個だけ残ったピーマンがあったので、今夜のメインはナスと豚の味噌炒めにして、キュウリは四本ともぶつ切りにして醤油、ごま油、少しのラー油で中華風の浅漬的なものを作った。


 あらゆる用途に使うローテーブルをざっと片付け、料理を適当に並べた。朝に作って、なんとなく隅っこにちょこんと立たせた不格好な精霊馬は、そのまま立たせておいた。

 所詮男の一人暮らし、食べさせる相手がいるわけでもない。おかずの品数が少なかろうが味噌汁がインスタントだろうが誰も文句を言う奴はいない。俺がよければそれでいいのだ。

 食後に缶チューハイを一本。俺はそんなに飲める方ではないからストロングではないやつ。早いペースでごくごく飲んだら酔いも早く回って、視界はぐるぐる回るし心臓の音はやたらとやかましい。おまけに目の前は白くて耳の聴こえがおかしくて、やべ、これ脳貧血だ、と自覚した。変な倒れ方をして怪我をしたところで、救急外来にも行きづらいご時世だ。辛うじて歩いてベッドまで辿り着いたところで意識は途切れた。



 翌朝は何よりもまず、ひどい喉の渇きで目が覚めた。ナスと豚の味噌炒めは濃い目の味付けだったし、食後には缶チューハイも飲んでいる。喉が渇くのも道理というものだ。

 寝室として使っている部屋から、冷蔵庫のあるLDKに移動しようとした時、俺は異変に気付いた。この部屋は俺しか住んでいないはずなのに、ぼんやりとした人影が見える。すわ侵入者かと身構えかけたが、それにしてもおかしい。あの茫洋とした気配――生きている人間ではなさそうだ。つまりは、幽霊とか呼ばれるモノ。

 生きてる人間の侵入者と何故だか知らないがそこにいる幽霊、どちらをより怖いと思うかは人により異なるだろうが、侵入者だったならば警察を呼べるからまだマシなのでは? と俺は思う方だ。というか幽霊とかマジで勘弁してほしい。俺は洒落怖の『リアル』を読んだばかりに夜寝られなくなったことがあるのだ。


 幽霊には塩とか線香の火が効くと聞いたことがあるが、塩というのは食卓塩のことではないだろうし線香なんてものはこの家にはない。俺は煙草を吸わないから、マッチやライターの類いもない。

 LDKの入り口で固まったまま、さてどうしたものかと頭をフル回転させていると人影――推定幽霊――がくるりと動いた。目を合わせただけでこっちの命が削られたりしたらと思うとまともに見られないでのだが、やはり、生きた人間としてはあり得ないような存在感の薄さだ。

 そしてどうやら――人ではある。古いタイプの幽霊譚とは異なり、足がない、などということはない。元が人であるならば意思の疎通が可能と思いたいが、やばい怨霊とは話などできないし、人の世の理も通用しないというのはホラー映画や怪談における定石だ。『リアル』の悪霊然り。


 もう俺ここで死ぬのかな、アレな悪霊を呼ぶようなことした覚えないんだけど。


 ――と自分の行く末を想像していると、幽霊と思しきそれは口を利いた。


 「俊樹。久しぶりだな」


 「え」


 俺は驚いた。だって。

 だって、その声は――


 「父さん――なの?」 


 「そうだ。お前が乗り物を用意してくれただろう。あの、キュウリの馬だ。おかげであちらの世界からこちらへくることができた。

 本当に、どうもありがとう」


 俺は膝から崩れ落ちた。もう、喉の渇きはどうでも良くなっていた。 

 アレな悪霊ではなく父さんなら、別に全く怖くはない。

 しかし、しかしである。 


 「いやまさかホントに来ると思わないじゃん……」


 そうぼやいた俺の声音は、自分でもはっきりとわかるほど情けないものだった。



 「お前、弱いんだから酒は飲まないほうがいいそ。俺は奈良漬けで酔うくらい弱いが、母さんも少し飲める、程度なんだからお前も飲めるわけがないんだ。こういうのも遺伝だからな。

 昨日なんてお前、倒れそうになってただろう。いつかお前も俺がいるところに来るだろうが、あんまり情けない死に方はしないでくれ。早死にも駄目だ。母さんが泣くぞ」


 俺は、父からお小言を頂戴していた。正直なところ、言われなくてもちゃんとわかっていることばかりだ。思春期の頃だったら思いっきり反発していたかもしれないが今の俺はいい大人だ。はいはい、と大人しく聞いておく。

 小言はまだ続きそうな雰囲気だ。生前の父はこんなに俺に説教じみたことをするひとではなかってはずだ。少なくとも、俺が大人になってからは。まだ生きている俺にはわからない感覚だが、死んで、離れざるを得なくなってしまうと、こんなふうになるのだろうか。


 これ以上お小言モードの父を相手するのは少ししんどいと思ったのが半分、純粋な好奇心半分で、

しかし、この調子で俺は父に訊いた。


 「あっちの世界……あの世、っていうの? なんていうか、どんな感じなの?」


 「あっちなぁ。俺、今は裁判中なんだ」


 「裁判? 閻魔大王に舌をぬかれるとかいうやつ?」


 「判決は閻魔様が出すものじゃないし、舌を抜くだけが刑ではないんだが……まぁ、地獄に行くかどうかが決まるものだと思えばいい」


 「そっか」


 「あっちの裁判はな、キツいぞ。生きてた頃の全ての発言、行動が記録されてて、『お前はこんな悪事を働いていた』って見せられ続ける」


 「それは……つらいね」


 生前の、おそらくは自分でも忘れていたような言動一つ一つを見せつけられるのだろう。それ自体が刑罰ではないだろうか。

 間違ったことを一つもしない人間なんか、いるわけないんだから。


 「お前にも、いろいろとひどいことをしたな 

 俺は忘れていたが、忘れていたこと自体、罪なんだろうな」


 どこか俺の心を読んだかのような父の言葉に応えるため、俺は今しがた考えていたことを言葉にした。


 「父さんの何が罪と言われてるのかわかんないけど、俺、それらしい心当たりないし。

 間違ったことを一つもしない人間なんかいるわけないんだから、いいんじゃないかと思うよ」


 そうか、と答えた父が俺の言葉に納得したかどうかはわからなかった。もしかしたら俺自身忘れているだけで、父は俺に何かひどいことをしたのもしれないし、父は打ち明けてしまいたかったのかもしれないが、俺は別に聞く必要はないと思った。だから、聞かなかった。


 

 その後はあちらの世界のことには触れず、俺の近況なんかをぽつぽつと話した。父はひとしきり説教したらそれでもう満足したらしく、最初の数時間を除くと、俺の現状や日々の言動に対して物申してくるようなことはなかった。


 お盆が明けるのは確か十六日のはず。

 十三日に来て十六日に帰るなら、旅行に喩えれば三泊四日だからまぁ、狭い1LDKに二人でいても息が詰まりはしないだろう。

 そう思っていたし、実際、父とはのべつ幕なしに話し続けていたわけではなく、べったりくっついていたわけでもなかったから、限られた日数ならば一緒に過ごすのは差し支えない。


 そう思っていた。


 しかし父は、十七日になっても部屋にいた。

 お盆休みが明けて、働いているのか休んでいるのかよくわからないながら、曲がりなりにも在宅勤務が再開しても、まだ、部屋に居続けた。


 二十日の夜、遂に限界が来た。

 一人暮らしが長い上に、こちらはもう大人だ。狭い部屋で父と二人で過ごす暮らしは、一週間続けばもう、お腹いっぱいだった。


 「父さん、あのさ。お盆、もう終わってるけど、あちらに戻らなくていいの?」


 早くいなくなってくれと遠回しに伝えているに等しい内容に気が引けておずおずと尋ねた。父には悪いが、そろそろ戻るべき場所に戻ってくれないと、父の滞在を疎ましいとしか思えなくなりそうなのだから仕方がない。


 父は不服そうに答えた。

 

 「お前、キュウリの馬しか用意しなかっだろう。  キュウリの馬はあちらからこちらへ来るためのもの。だから俺はこちらに来られた。

 しかしこちらからあちらへ戻るには、ナスの牛が必要なんだよ。

 よく知らないのにキュウリの馬だけ作ったな? だから俺は戻れないんだ」


 ナスも冷蔵庫にあったんだから牛も作っておけば良かったのにな、俺だって裁判中の身だし、早く戻らなければならないんだが――という声を聞き、俺は再び膝から崩れ落ちた。


 「いやそんなシステムだったとか、知らんし!」

 

 それは渾身の叫びだった。


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