陥穽(2)

・「新規ゲームアプリのベータテスト」の名目で、QRコードと五百円分のショッピングカードを渡す。この五百円は初期アバター購入用のものだが、謝礼を兼ねているので全額使う必要はないと伝える。

・QRコードのURLからユーザー登録させ、ダミーのゲームサイトに誘導。課金メニューからショッピングカードのコードを入力させ、500ポイントを付与する。(ゲームは「準備中」でプレイできないが、50〜450ポイント分の初期アバターを購入可能。)

・月末に「チャレンジアップデー」を設け、残ポイントの二〜五倍のポイントを付与。残高が1000ポイント以上になった者をに誘導。以後、毎月末に残高の二〜五倍掛けと換金ポータル解放をおこなう。

・追加課金をしないユーザー、少額の課金と換金を繰り返すユーザーは換金ポータルからブロックして「ベータテストの完了」を通知する。

・多額の課金、換金の見送りで「投資」を試みるユーザーの中から、サクラ候補者をピックアップし、ノルマと引き換えに毎月末のチャレンジアップが八倍掛けで固定される権利を案内する。



 沢山の青黒い犬に追いかけられる夢から目を覚ましながら、ニイコは枕の下に手を入れ、スマートフォンを引っ張り出した。無意識に親指が動いて、SNSの通知画面を開く。昨夜の自分の投稿に「いいね」がついている。数は多くないが、とりあえず「十人からの反響」のノルマは果たした。一晩じゅう胸の奥につかえていたものが、すっと溶けて消えていくように感じた。


 もぞもぞと身支度して寝室を抜け出すと、テレビの前で父親が眠りこけている。足音を立てないようにそのすぐ後ろを抜け、玄関と繋がる廊下兼台所に出る。コンロと流しには嫌なにおいが染み付いていた。いつからだっただろうか。トースターの金網は焦げ付いたパン屑にまみれて、とても食べ物を置ける場所には見えない。昨日残しておいたチョコレート菓子の残りを口に詰め込んで、朝食の代わりにした。


 バスに乗らず、地下鉄の駅まで歩く。早足で三十分掛かるが、これで定期代が七千円浮く。五千円を課金して、二千円に先週の換金分の残りを足して、リサイクルショップのショーケース内の財布をどれか買おう。先週の換金分はどれくらい残っていただろうか。こういう計算をしようとすると、頭に霞がかかったようになり、重苦しく痺れるような眠気が襲ってくる。単純な計算に酷く時間がかかる。前回の換金額から使った分を引いて、それに五千を足して……違う、五千はまた課金しなければならないから、足すのは二千だ。新中古のブランド財布が買えるだろうか? 足りなかったら他の店を回る? 交通費を掛けると手持ちが目減りするから、歩きか自転車で行ける範囲で……


 薄着で出てきたのに、駅に着くまでに通学鞄の当たる背中が汗で湿ってしまった。臭わないだろうか。制汗スプレーって幾らだっけ? 七百円? 八百円? 今の時季ですらこの調子では、とても夏を乗り切れる気がしない。スプレーを買うくらいなら課金分に回したい。明日からは替えのシャツを持ち歩こう。実際あのとの出会い以降、質素倹約が身に付いて自分はよほど品行方正になってきている、とニイコは自己分析した。


 鞄を腹側にかけ直して地下鉄に乗ると、換気を兼ねた強めの冷風がちょうどニイコの立つ位置に吹き付けていて、すぐに背中が乾いた。


 学校の最寄駅に着く直前、メッセージ通知が入った。

「今週四人目いきます! ニイコさんよろ。明日くらいまでだと助かる。内容は画像」


 返信の代わりに猫が両腕で丸印を作っているスタンプを押しながら、ニイコの胸の奥にまた砂の塊を詰めたような感覚が襲ってくる。ノルマにはきっと、体積があるのだ。胸の奥につかえて、呼吸を息苦しく塞ぐ。


 早く終わらせるに越したことはない。ノルマはこれだけではないのだから。


 地下鉄を降り、改札脇の自販機の側に留まって人の流れをやり過ごす。送られてきた画像を見ながら、電話番号をペンで親指の付け根に書き留める。スマホの画面を切り替え、電話アプリを開く。一度目は番号非通知でかける。これは大抵無視される。二度目は番号を通知してかける。やはり相手は出ない。ニイコの電話番号は相手にとっては見知らぬ番号だろうから、警戒されて出てもらえないのも無理はない。

 だが、休み時間のたびにかけ続ければ、夕方までには相手も応じるしかなくなるだろう。少なくとも彼には、知らない番号からされる心当たりが最低ひとつはあるはずなのだから。




【チャレンジアップ倍率八倍キャンペーンのご案内】

下記の条件を全て満たすユーザー様を対象に、翌月のチャンレンジアップデーのポイント倍率が八倍になる特別キャンペーンです。

(注意!)こちらは限られたユーザー様にご案内する非公開キャンペーンです。キャンペーン内容、条件、ポイント残高およびチャレンジアップの倍率と結果を他のユーザー様に公表・拡散しないようご注意ください!


条件一、月末時点でポイント残高が3000ポイント以上あること。

条件二、購入メニューから月一回以上、合計1000ポイント以上の購入をおこなっていること。

条件三、月二回以上、SNSで# チャレンジアップキャンペーン_gm0520 のタグを付けて当ゲームサイトの紹介を投稿すること。

条件四、月一回以上、SNSでブランドや有名店、話題の店での購入、飲食、レジャー、宿泊等の証拠写真付き投稿をすること。

(条件三、四の投稿形式、内容は自由ですがネガティブなものでないこと、また似たような文面の重複投稿は禁止です。該当するブランドや店の例は【こちらのページ】を参考にしてください)

条件五、条件三または四のどちらかまたは両方で「いいね」「シェア」相当の反響が十件以上あること。

条件六、毎月一人以上の新規「課金」ユーザー、または、二人以上の新規「無課金」ユーザーを招待し、招待メニューから招待コードを発行すること。



 自動化の呪術は本当に効いた。

 正門前の道路に差し掛かった途端に、ふわりと眠るような感覚に襲われ、次に気が付いた時には教室の自分の席で、朝礼開始を告げるチャイムを聞いていた。はっとして振り返ると、鞄はロッカーに収まり、勉強道具は既に机の中に移し替えてあった。まったく覚えがなかったが、よく話すクラスメイト達との朝の挨拶や軽い雑談も、通常通りこなせていたらしかった。


 大きな出費だったが、思い切って試してみて正解だった。つまり、これは適切なだ。ノルマをスムーズに果たし続けるために必要な投資。その結果、掛かった金額の数倍、長い目で見れば十倍、百倍以上を稼げるのだから、思い切った決断は大切だ。胸につかえている何かが少しだけ縮んで軽くなった気がした。


 昼休みに、電話をできる場所を探して校舎裏へ出た。相変わらず相手は出なかったが、戻る途中で地理のしまとすれ違った。

「おっ、品川ぁ。目ぇ覚めたか?」六島の声は張りがあってよく通る。昇降口脇の灰色の壁に反響し、ニイコの耳に突き刺さるように。「今朝ぶりだなぁ。今朝は眠そうだったな? 寝不足か?」

「いえ……」ニイコは曖昧に声を出し、どうにか苦笑いを作り出した。

「スマホで夜更かししてんじゃないだろうなぁ? おかしなサイト見てないだろうなあ? ええ? 悪いことしちゃいかんぞ」


 生え際の後退した額が、眉の動きに合わせてぐねぐねと波打つ。ほくろと染みの多い目元が脂か汗でテカっている。


 胸につかえていた息苦しさが喉に差し込むように強まり、吐き気が込み上げてくる。


「大丈夫かぁ? なぁ、品川?」

「はい」とニイコは先ほどより大きめの声で言った。

「ほんとかぁ? 相談しろよ? 俺か、山口センセか、あー、それか北条先生にな。一人で考えるなよ? お前なんかが一人で考えたって、ろくなことにならねえんだからなぁ。わかったなぁ?」

 予鈴が鳴り始めたので、六島は歩き出し、ニイコの担任と保健室のの名前を挙げて、片手をひらひら振りながら去って行った。


 ニイコはその背中が体育館の方へ曲がって見えなくなるのを待ってから、舌打ちした。


 朝の挨拶をやり過ごしても、昼に絡んでくるのか。これでは意味がない。今のところ六島は具体的な情報を掴んでいないはずだが、いつかは噂を聞きつけるだろうし、しつこく問い詰められれば誤魔化しきれないだろう。ニイコは演技が苦手だった。嘘が下手だし、すぐ顔に出る。電話口ならまだしも、面と向かって話しながらすべてを隠し通せる気がしない。


 自動化するルーティンに休み時間も追加することはできないのだろうか。依頼すれば別料金を取られる? 今週、もう一度あそこへ行く約束はしているのだから、その時に聞くだけ聞いてみようか。しかし、追加料金を請求されたらとても支払えそうにないから断るしかないし、そうなれば、一銭にもならないことのために時間と交通費を割くことになる。忘れたふりをして行かなかったらどうなるだろう。


 溜息が出る。しなければならないことばかりだ。そして、常に「しなかったらどうなるか」、「しないで済む方法は無いか」、そればかりを考えている。ノルマの連続だ。心が挫けそうになる。見上げれば見上げるほどキリの無い、無限に続く高い塔のように。



 放課後、帰宅中にかけた三度目の電話で、ようやくターゲットが出た。



「もしもし……初めまして、宇田うだ君ですか」ニイコは今朝送られた画像を見て書き写したメモを見ながら、緊張でぼうっとしてくる頭を振り、必死に言葉を組み立てる。「私、宇田君と付き合ってる莉里りりの、友達の、品川と申します。莉里が今うまく話せない状態なので代わりに……莉里から連絡行ってるはずですけど、生理が来ないって」


 間を置く。相手に好きに喋らせる。その間に次の言葉を組み立てる。メモ紙の自分の字は無茶苦茶に崩れていて、まるでここに書いてあるシナリオが全て本当のことであるかのように、動揺した筆跡だ。


 ニイコはシナリオを読み上げる。

「けど、莉里は宇田君だけと言ってるし、そこは疑ってないんですよね? 友達の私としては筋を通して欲しいと思ってますけど、莉里は一人で済ませたいと。ただどうしても病院代だけは払いきれないから、宇田君に半額出して欲しいんです……違います、私じゃなくて莉里の希望です。金曜日。金曜日までに現金で十。は? 私がそれ知ってると思うの? ていうか、こういうことで男はいい思いしかしないで、痛くも痒くもないでしょうが。それで金も出せないっての? じゃあなんだったら出せるわけ?」


 下品な言葉を口走りそうになって、慌てて口を噤む。言い過ぎは駄目だ。強すぎず弱すぎず、相手の逃げ道を残しながら、誘導しなければ。


「とにかく……早い方が莉里の負担が少ないので。ほんとは金曜日でもギリで、病院はいい顔してないんです。どういう方法でもいいから急いで欲しくて。莉里の一生に関わることだし、うん、うーん、うん……そう……全然無いわけ? 一円も無いってことはないでしょ。もし、もしですよ、五万でも一万でも、もう最悪千円でもいいから、もし用意できるなら、あの私、お金を増やす方法を知ってます。本当は手順を踏まなきゃ駄目なんですが、私はプレミアムユーザーなので……を紹介できます。それを使って、いったんお金を増やして、金曜までに用意して欲しいんです。やり方は教えるので、協力してくれますか? そう……うーん、はい、そんな感じです。いえ、それは大丈夫……私は毎月換金してるんで……」


 歩きながら説明し、今夜の待ち合わせ場所を取り決めて電話を切ると、ちょうど自宅が見えてきていた。脇の下が汗でぬるぬるしている。頭がぼうっとして火照っている。

 ニイコは通信アプリを立ち上げ、今朝のメッセージに「今夜もらえそう」と返信を打つ。グループ内の二人から笑顔ボタンのリアクションが返ってくる。もう一人はまだ部活が終わっていないのかもしれない。それか、塾と言っていたか。


「エグいことやってんなあ」

 不意に、異様な顔立ちの若者が目の前に立ち塞がった。


 ニイコは思わず小さく悲鳴をあげた。

「なんで、ここにいるの?」


「気になって来てみたら、想像以上に様子が変だし……あとをつけてみたら、やべー話が始まるし……」

「は? なに勝手について来てるの? 来るのはいいけど私に関わらないでって言ったでしょ」

「そうだけどさー、ねえ、仲間がいるの? 同じ学校の子? それともネットで集まった? 既成事実を作る係と、追い込む係がいるわけ?」燐太郎はぎょろぎょろとした大きな目でニイコの顔と自分のスマホの画面を交互に見ながら、素早く文字を打ち込んだ。「ポータル、お金を増やす、プレミアムユーザー……検索で出ないな。そんなに有名なサイトじゃないみたいだな? 今のところは」


「どいてよ。そこ、私の家なんだけど」ニイコは低い声で言った。


 老朽化したひとけの無い小さなアパートを、燐太郎はちらりと振り返った。


「あんたに何がわかるの? ていうかあんたは関係ないよね? 何しに来たの?」

「俺は別に、責めるつもりで来たわけじゃない」

「じゃあ黙って帰れよ。あんたはいい学校行って、いい家に住んで、いいもの食べて、なに不自由なく暮らしてるんでしょ? そういう奴に私の気持ちがわかるの?」

「じゃあ、あなたは俺の気持ちがわかるって言うわけ――」燐太郎は言いかけた言葉を、途中で止めた。「……いや、それはいいから、そのポータルとやらを俺も見たいな。お金が増やせるんだよね?」

「帰れよ」

「紹介してくれないの? 俺、金は用意できるよ。ご存知の通り、手に職で少しだけ稼いでるから。それで別に、運悪く金が増えなくても構わないからさ。だって投資ってそういうもんでしょ。納得してちゃんと払うからさ。紹介してくれない?」

「………」

「エグい脅迫じみたことまでして、ポータルを紹介できる相手を探してるんだよね? 幾ら集まった? 何人釣れた? 仲間と山分けになるから、あなたの取り分なんてたかが知れてるよね、全然足りないでしょ? 俺も協力するよ。一度は依頼をもらったご縁だし、料金も前払いで頂いているわけだし」

「……帰って」ニイコは低く掠れた声で言った。

「駄目? なんでかなあ」

「あんたとは関わりたくない」

「嫌われたもんだな。俺が何をしたっていうの」

「換金ポータルが見たいなら、勝手に行けばいい。私の名前を出さないで。関わりたくない」

「え、じゃ、教えてくれるの?」


 ニイコはメモ帳を取り出して開き、無言で燐太郎に向けて見せた。




 夜の闇に沈む樹々の合間に、暗い赤色の大きな炎が断続的に見える。少しだけ砂利の敷かれた細道を進み、広い場所へ出ると、途端に強い熱気が出迎えた。


 一周が二、三十メートルはありそうな、巨大な真っ黒い穴が広場の中央にあった。


 数十秒おきに、木々の梢と同じ高さほどの火柱が上がって、すぐ消える。黒い穴は底が知れない空洞で、固形の可燃物があるようには見えない。

 穴の周りには複数の人影があり、火柱が上がるたびに黒く濃く浮かび上がった。


「ポータルってこれかよ……ウェブサイトかと思ったのに」

 燐太郎は歩み寄りながら呟いた。


 穴の手前にいた若い男女のうち片方が振り向き、鋭い目で燐太郎を見据えた。

「本当に来たの」と、ニイコは言った。

「誰? 知り合い?」男のほうも振り向き、燐太郎の異様な顔を見て全身で身構えた。

「ああ、その人が、だれだかの彼氏さん?」燐太郎は明るい声色で聞いた。

「来ないでよ。関わらないでって言ったでしょ」ニイコはすぐに暗い穴に向き直り、燐太郎に背を向けた。

 燐太郎は構わずそのすぐ隣に並んだ。

 ニイコはイライラした動作で鞄から金を掴み出した。皺の寄った万札を何枚も握りしめた手を、ニイコは暗い穴の中央に向かって差し出した。


 ぼうっと大きな火柱が上がり、ニイコの腕を丸ごと包み込む。何かが爆ぜるような音がどこからともなく聞こえ、油や肉の焦げ付くツンとした臭いが立ち込めた。それでもニイコは腕をしっかりと伸ばしたまま、眉一つ動かさなかった。


 炎が縮んで消え、暗闇が戻る。ニイコがゆっくりと腕を引っ込めると、その手には先ほど握っていた金額よりも遥かに多い札が握られていた。


「どうなってんの」一緒に来ていた男は目を見開き、微かに震える声で言った。

「十万ね」ニイコは万札を十枚数えて封筒に入れ、残りの札は自分の財布に入れる。そして両方を鞄に突っ込んだ。「今回分の掛金は私が半額出してるから、来月返してね。莉里が招待コードをくれてるから、それでユーザー登録すれば、来月もこのポータルが使えるから。それで増やして、早めに返して」

「いや……普通に返す」と男は言った。もう一度炎が高く上がり、若者の怯え切った顔を赤黒く照らした。「いや、わかった、登録はするって。するけど。お金は普通に来週、いや、今週。明日渡す。親に言ってもらってくる」

「親に私や莉里のこと言わないでよ?」

「もちろん、言わない、自分の小遣いって言ってもらうよ。あの、ごめん、ここにはもう来ない」

 若者は細い身体を翻し、樹々の生い茂るほうへ向かって走り出した。今にも転びそうによろけながらその背中は小さくなっていき、もう一度燃え上がった火柱にぱっと照らされた後、暗闇に消えた。


 ニイコは汚物を見るような目でそれを見送り、また暗い穴に目を戻した。

 穴の周りには同じような二、三人連れや、あるいは一人で来たと思われる若者達がぽつぽつと並んで、断続的に上がる巨大な火柱に向かって腕を差し出していた。


「このポータルをどこで知ったの? いつから使ってる?」燐太郎は聞いた。

「話しかけないでって言ったでしょ」ニイコは再び鞄に腕を突っ込み、金を掴み出した。

「ちょっと、やめろよ! まだやる気か?」燐太郎は慌ててその腕を掴んだ。

「なんなの! 触らないで!」ニイコも怒鳴り返した。

「これが何だかわかってるのか? でっかい悪質な呪術だぞ。奪われてるものが金だけだと思ってるのか?」

「奪われてないよ、私は稼いでる」

「何も稼いでない、あんたは自分で無理なことしてかき集めた金を、自分で散財してるだけだ」

「何がわかるの? そうしなきゃうちは暮らせないのに」ニイコは燐太郎の腕を勢いよく振り払った。「うちは去年から父親働いてないし、母親も帰って来ない。私の使う分は全部自分で何とかしなきゃ、昼ごはんすらないんだよ。髪切る金も、下着買い換える金もない。わかる? 服じゃなくて下着だよ? ボールペンだって買えなくて、廊下で拾ったのを使ってるよ。あんたにわかるわけ?」

「けど、」燐太郎は口を開いたが、言い淀んだ。

「それであんたは大人に相談しろって言うんでしょ。何度もしたよ。何回もね。でもうちは前に不正受給でチクられてるから、もうどんな申請も降りないんだよ。役所に一度目をつけられてるから。目を付けられたら終わりなんだよ。もう終わり、うちは詰んでるの。だから母親も逃げたんだよ。私は未成年だから逃げられないけど、卒業したらすぐ逃げるわ。受験なんてするわけないでしょ、馬鹿じゃないの?」

「別に、受験しろと俺が言ったわけじゃ……」

「あんたみたいな奴の、その『そういうつもりじゃなかった』的な無神経な物言いがね、一番腹立つんだわ」

「……けど、このポータルはそう長続きはしない。卒業までこれで稼ぐつもりなら、それは無理だ」

「どうして」ニイコの怒ったような泣き出しそうな顔を大きな炎が赤く照らした。「どうしてそういうことが言えるの? どうしてそう残酷な本当のことを平気で言えるわけ? それはあんたが関係ないからでしょ。関係ないところから、見下ろしてるからでしょうが」




 人目を引く異様な顔を極限まで無表情にして、燐太郎は細い林道の残りを駆け下り、その先の路肩に停まっていた車の助手席に乗り込んだ。

「おかえり」運転席のあかしおが待ち構えていたようにエンジンを掛け直し、発進した。「幽霊でも見たような顔だな。大丈夫?」


 燐太郎はしばらく口をきかなかった。


 車がだいぶ進んで、暗い森に覆われた小山が遠のいてから、燐太郎は大きく溜息をついた。

「気分が悪い」

「酔った?」

「そっちじゃない」

「だから、深入りするなと言ったろ」赤潮は言葉とは裏腹に、かなり気遣わしげな口調だった。「首を突っ込んでも底が無いことはよくあるんだよ」

「あのはどうなる?」燐太郎はほぼ見えなくなっている小山の方向を一瞬だけ振り返った。

「さあ、俺はそれ系の呪いの専門じゃないからな……一応詳しそうなところに通報はしとくけど、たぶんもう警察が目を付けてるんじゃないか」

「警察が動けるの?」

「ウェブサイト上の詐欺と連動してるんだろ? 未成年まで動員して荒稼ぎしてるんなら、相当目立つだろうし。これ以上やればパクられるだろう。そうなる前に上手く畳んで逃げおおせるつもりだろうけど、そう上手くいくかな。警察も馬鹿じゃないからな」

「うん……どっちにしろあと半年も続かないよな」

「半年は無いなあ。なに、そんな儲かるの?」

「見た目上は。金は増えてた、確かに」

「まあ、よく聞くネズミ講だろうけど、呪術でそれをやろうってのは珍しいな」

「未成年は自分でカードや口座が作れないから。金のやり取りでそこがネックになるのを、あのポータルで解決してるんじゃないかな。集まってきてたのも中高生に見える人が多かったよ」

「なるほど……」赤潮は唸った。「今までカモにしづらかった層をターゲットにしてるから、爆釣れなのか」


 フロントガラスにぽつぽつと雨粒が当たり始めた。車が市街地に入るまでの間に雨は本降りになり、締め切った車内にも雨音とタイヤが水を踏む音が染み込むように響いた。


「ああ」燐太郎はしばらく無言で足元を見ていたが、急にまた溜息をついて外を見た。「俺、向いてないのかなー」

「いや、今回は俺の采配ミスだ」と赤潮は言った。「歳が近いから話しやすいかと思ったんだけど、よく考えたら子供がうちの料金を平気で払える時点で警戒すべきだったな。リン君に相手しきれる子じゃないよ、ありゃあ」

「ポータルが無くなったら暮らせないと言ってた。親が働いてない。昔なにかの不正受給をしたとかで、役所も相手にしないらしい」

「うーん。その親はともかく、彼女のほうはどうかな。泣き寝入りして死ぬタイプでもないだろう。大金握ってうちに依頼に来るくらいの行動力はあるんだから」

「ボールペンも下着も買えないって……でも、うちの代金払う金はあったんだから、その言い分もおかしいか」

「たぶんもう金銭感覚がぶっ壊れてるんだろう。実際そういう思いを一度でもすると長く残るから、本人は嘘ついてるつもりはないのかもしれん。困窮してる人ほど金遣いは荒いんだよ」

「はあ……なんだか怖いな」

「まあ金は怖いよ。最も大規模な呪術だ」赤潮は雨に煙る夜の街並みを見ながら、目を細めた。

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R.P.A. 森戸 麻子 @m3m3sum

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