陥穽(1)

 行事がある月は憂鬱だ。


 だから自分は行事が嫌いなのだろうと、ニイコは思っていた。歌とか踊りとか、陸上とか球技とか、応援とか団結とか、あるいは単に人が集まって適当に騒がしくしているのが、本質的に嫌いなのだろうと。


 しかし最近になって、そうではないと気付いた。ニイコの気分が澱んだ気持ちになるのは、行事の当日よりも、むしろその準備期間だった。教室の空気がそわそわと落ち着かないものになっていく。極端に張り切っている一握りの集団と、その周りにぼんやりと集まる何も考えない集団、そして彼らから敢えて一歩引いて「行事に乗れない」スタンスを見せる集団に、自然と分かれていく。その全員に共通するのは、特別な日を迎えるための特別な心構えだ。その特別感は日を追うごとに強まり、行事の前日に最高潮に達する。ニイコはこの、得体の知れない空気の高まりが嫌だった。


 いつも通りにすればいいのに。


 音楽祭も文法の授業も、等しく平坦に、退屈なまま過ぎ去れば良いのに。


 刺激はいらない。ドラマはいらない。ただでさえ、ノルマが多すぎるのだ。ここを卒業する日まで、そしてたぶんその後も、自分の人生にぎっちりと詰まっているだろうノルマのことを考えると、疲労感に押しつぶされそうになる。考えないようにしたところで、それが無くなるわけではない。



「……というわけで自動化をお願いしたいんですけど」

 少女は革張りのソファの中央に座り、少し身を乗り出して言った。


 太っている、とまでは言わない程度の、丸みを帯びた体格だった。目鼻が小さく特徴の少ない顔立ちで、赤い丸縁の眼鏡だけがよく目立つ。細く毛量の多い癖毛を、両脇できつく三つ編みにしていた。


「高校生?」ローテーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろしたりんろうは、少し躊躇うように間を置いてから聞いた。


 こちらは異様な顔立ちの若者だった。獅子をデフォルメして作った彫像のように、目鼻が大きく極端に彫りが深い。瞼の上や頬骨がうねるように盛り上がり、左右のバランスもやや崩れている。

 声変わりしたばかりの掠れ気味の声と快活な口調だけが、どうにか十代らしさを感じさせる。


「三年だけど。君は?」ニイコは聞いた。

「俺は二年です。だから、先輩ですね」

「ああ、やだ、敬語はいいよ」ニイコは苦笑いし、身体の前で片手を振った。「なんか学校じゃない場所でそういうの気にされるとしんどいから」

「そう? じゃあ、そうするかな。ただまあ、お客様なんでね、接客として時々敬語は出ちゃうけど、それはすみません」

「へえ」と、ニイコは笑った。「なんか、プロっぽいね」

「プロですよ」燐太郎は戯けたような口調で返した。「これで金取ってるし、真面目に訓練してる」

「訓練て何? 修行?」

「ま、俺の話はいいんで……」


 燐太郎はローテーブルの上の四角い盆を引き寄せた。そこに小瓶やスプーン、ガラスの器など、こまごまとした道具が並んでいた。


「それで何をするの?」

「ご依頼を伺いましょう」燐太郎は改まって背筋を伸ばし、正面から相手を見た。

「え、だからさ、学校がダルいなっていう」

「どの部分を自動化したい? 授業? 休み時間? 部活?」

「え、全部だけど」

「全部かー。まあ、わかる」

「わかるでしょ」

「ただ、自動化した時間は記憶に残らないからね。残りの高校生活、思い出ゼロでもいいの?」

「別にいいけど……」

「いいんだ」燐太郎は笑った。「受験は?」

「んー、一応受けるけど」

「なら、少なくとも授業は自動化できないな」

「授業を自動化したら、やっぱダメなの?」

「習ったことが記憶に残らないから」

「いつの間にか覚えてる感じにならない?」

「そう都合良くはいかない」

「そっか」ニイコは少し真顔になって考え込んだ。「……それなら、通学のとこかな。教室に入って座って、朝礼が始まるまでのところを自動化してほしい」

「ニッチなところに当ててくるなあ」燐太郎は少し首を傾げた。

「そこが一番嫌なんだもの。なんかね、学校の雰囲気のざわざわした感じのところに、自分が入ってく瞬間がしんどいんだよね。授業が始まればそんなに気にならないんだけどさ」

「登校のときだけで良くて、下校は自動化しなくて良い?」

「そう。朝だけ。あと、あれが嫌なんだ」

「なに?」

「登校時間に、門のところに先生立ってるの。学年主任のさ。地理の、おっさん」

「おっさん?」

「そ、おっさん。で、キモいの。他の生徒には何も言わないのに、私が来たときだけじっと見て、『お前、昨日、してないだろうな?』とか言う。ニチャニチャ笑いながらね……」

「それは、うん……キモいな」燐太郎は手元に引き寄せた小道具を見下ろし、急に真剣な目になって頷いた。


 そのま燐太郎は手を止めて考え込み、少しの間、狭い応接間に沈黙が流れた。

 除湿モードが掛かっているエアコンの立てる音だけが静かに室内を満たした。


「で、やってくれるよね?」と、ニイコは聞いた。

「いいですけど、根本の問題を解決した方がいいんじゃ?」と、燐太郎は言った。

「根本のって、どういう意味」ニイコの顔からすっと笑みが消えた。

「そのキモい挨拶をする奴のこと、他の先生に相談して、替わってもらうとか……」

「相談?」ニイコは鼻で笑うような声で遮った。「言っても無駄だよ。もっとキモい奴が来るだけだもん。それに、そういうことで文句言ったってなれば、問題ある生徒として目をつけられるから」

「目をつけられて、困るの?」

「……君ね、イチコーかニコーでしょ」ニイコは一瞬だけ苦笑いを浮かべてから言った。

「いや、俺はジョのほう。女子高だったところ。今は共学化したけど」

「うん、だから、進学校ナンバースクールでしょ。そういうところの人には、わからないんだな。頭いい人達には、大人だって丁寧に接するもん。新米の教師なんか生徒に敬語で話しかけるんでしょ」

「いやいや、全然だよ。うちは共学化してから偏差値めちゃ落ちたし……」

「だとしてもね、『大人に相談』なんて発想が出てくる時点で、もう住む世界が違うんだわ。わかんないでしょ。うちの高校、入学して最初の授業がだよ? 君に想像できる?」

「ああ、まあ、噂には聞きますよ……」

 燐太郎は小瓶のコルク栓を抜き、中に入っている赤い砂粒のような粉をガラスの器にあけた。


 粉はあらかじめ器に入っていた少量の水に溶け、燐太郎がティースプーンで混ぜると均一なペースト状になった。


「それは何?」ニイコが聞いた。

「呪術、かな」燐太郎はティースプーンを持つ手をぴたりと止め、壁に掛かった時計を見上げた。「一分待って、青い粉を入れる」

「ふーん。それがね……」ニイコはソファの上で身を乗り出し、まじまじと燐太郎の手元を見つめた。

「睨んでも何も起きないよ。手品じゃないから」

「でも、これで呪術をかけるんでしょ?」

「そう」

「効き目はあるの?」

「無かったら金を取らない。うちは後払いだから」


 燐太郎は一分待ち、もう一つの小瓶を開けて青い粉を器に入れ、ぐるぐると混ぜた。紫色の塊ができあがり、燐太郎は指でそれを集めて掌の上で丸めた。


「それをどうするの?」ニイコが聞いた。

「どうもしない。もうかけ終わった」燐太郎は紫色の球を盆の上の空いた場所に乗せた。

「え、これで、終わり?」

「終わりです。今後は登校の際、学校が見えてきたあたりで意識がぼんやりしてきて、気付くと教室にいて朝礼が始まっている。何か変わったことがあった日は途中で目が覚めると思うけど、基本、ルーティンの登校であれば自動化が効くはず。数日試してみて、何か不具合があれば調整をするから。来週か再来週にでもまた来てください。お支払いもそのときに」

「うーん……来週になるとダルいから、今日払ってもいい?」ニイコは隣に置いていたバッグを膝に乗せて開けた。

「いや、何か不具合があると困るから、一度使ってみての様子は知りたい」

「じゃあ、来週、様子はちゃんと知らせに来るから。支払いだけ先にさせてくれない? それも駄目?」

「それは、いいですけど……なんで? 早く払いたがる人って珍しいけど」

「後で払うものがあると、それだけでストレスなんだよ。今日は手持ちがあるから、今日のうちなら気分良く払える」


 ニイコは半ば強引に財布を開け、バタバタと支払いを済ませた。


「高校はどこ?」手書きの領収書を渡しながら、燐太郎は聞いた。

「何? なんで聞くの? 嫌味?」

「いや、そのキモい地理の教師をちょっと見たいなと思って。来週、校門前に行ったら見れる?」

「え、来るの?」ニイコの顔に戸惑いが浮かんだ。

「遠くから見るだけ。通行人のふりしてチラッと。話しかけたりしません。だいたい俺、顔が目立つから迂闊に近寄れないし」

「なんでわざわざ見たいの?」

「なんとなく……気になるな、というだけ。駄目かな?」

「私を見かけても無視してくれるんだったら、別に構わないけど」

 ニイコは校名と、地下鉄の駅からの簡単な道順を説明して、このあと用事があると言い慌ただしく帰って行った。



 客人がいなくなると、応接間の奥の戸が開いてあかしおがのそっと顔を出した。

「終わった?」

 背の高い、精悍な顔立ちの男だ。クタクタになった無地のシャツとスエットのズボンを履いていて、ついさっきまで布団で寝ていたような恰好だった。

 赤潮はノートパソコンを持ってきて、空いたソファの端にドサっと陣取った。

「けっこう、楽しそうだったな。女子と会話が弾んでた」

「弾んでねーよ」燐太郎は盆の上の道具を見下ろして、軽く首を振った。「普通に敵視されてたし。術が掛からないかと焦ったよ」

「俺が仕事振っといて言うのもなんだけど、あまり深入りしない方がいいぞ、あの子は」

「そう? なんで?」

「なんと言うかな、やる気を出しすぎてるように見えるから。なに、彼女の学校に行くの? 来週」

「一応、ちょっと不安だから……話聞く限り、普通にセクハラなんじゃないかと思うし。自動化してやり過ごして、解決するようなものと思えない」

「だとしても、俺たちが提供できるものは呪術だけだ」

「けど、無責任な売り方はできないよ。依頼人のためにならないとわかってたら、そこはなるべく回避しないと。赤潮さんも、いつもそうしてるだろ?」

「まあ、正解は無いからな。好きにやってみればいいけど」

「なんか嫌味な言い方。術師としては俺が先輩だぞ?」

「術師としては、な」赤潮は背中を丸めてパソコンの画面を覗き込みながら、含みのある笑みを浮かべた。

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