かげろう茶屋

彩瀬あいり

かげろう茶屋

 頬を伝い流れた汗が、踏み出したばかりの爪先に落ちたのを機に、男は足を止めた。立ち止まった途端、暑気がひどくなったように感じられ、自然と肩が下がり、足もとに視線が向かう。

 数日間、歩き続けた草履はそろそろ限界を迎えそうで、背負った荷物に予備があっただろうかと頭を巡らせる。しかし、疲労と暑さのせいなのか、思考がなかなか定まらなかった。

 夏の太陽を遮る木々のない街道は、この暑さのせいか人の気配もない。さきほどまでは幾人かとすれ違ったものだったが、それすらもなくなったのは、男が向かう先が江戸の町とは逆方向だからかもしれない。

 また、時刻は昼をとうにまわっており、このままでは次の町へ辿り着く前に日が落ちてしまう可能性が高いことも、理由のひとつ。

 旅慣れた者たちは無理をせず、ひとつ前の町に宿を取っているに相違ないが、万事屋よろずやの商いを始めたばかりの男には、まだその感覚が鈍かった。

 ゆえに、ただひたすらに先へ先へと歩を進め、日暮れ前には峠を越えようと試みていた。

 照りつける陽光は、若い男からでも体力を奪う。頭に巻いた手拭いはあまり意味をなさず、うだるような暑さで目が霞んでくる。

 汗が目の中に入り、瞬きを数回。拭いても拭いても吹き出る汗は、いままでに体験したことのない状態だ。

 ――夏の移動は厳しいとは聞いていたが、まさかここまでとは。

 男に商いを持ちかけた老人の弁は正しかった。急ぎではないのだから、出立をずらしてもよかったのだ。

 だが、預かったふみを持ったまま、数日を過ごすのはなんとも忍びない。町中の使い走り程度ならばともかく、今回は国を超える。向かう先が、男の故郷近くということもあって託された仕事、おろそかにはできない。これを完遂すれば、実績にもなろうというもの。

 飛脚のように組織だった派閥に属しているわけではない男にとって、大事な仕事だ。商いを町の外へ広げる絶好の機会。逃す手はなかろう。

 勉学は苦手だが、幼いころより足の速さと勘の良さだけには自信があるのだ。ようやく得た自分なりの仕事を不意にしたくない。

 まこと決意だけは立派なものだが、いかんせん暑い。どこかで一旦休みたいところだが、細い街道には見渡すかぎり何もない。

 歩むうちにいつしか足取りは重くなり、なにやら頭もぐらぐらと揺れている。

 否、これは地面から立ち昇る暑気による揺らぎか。

 ぼんやりと滲んだ視界。汗で見えぬというわけではなく、行く先の景色がゆらゆらと判然としない。

 それでも男は歩き続ける。ひとつ前の町へ戻るよりも、今となっては先へ進んだほうがずっと近いと思うからだ。



 向かう先に見える山、そのいただき付近に雲がかかっているのがわかる。青空にかかる白雲に墨を一滴混ぜたような色合いのそれは、みるみるうちにこちらへと流れてきた。厳しかった日射しは鳴りを潜め、ようやっと眩しさと別離した男は、わずかに頬を緩ませる。

 これから峠を越えるところだ。陰りがあるのは、ありがたい。


 流れる汗を拭い、少し元気を取り戻した男であったが、その心は瞬く間に反転する。

 耳に響く遠雷。

 この曇天は、雨を連れてくるのだ。

 そして、その場所はすぐそこに迫っており、男はこれからその一帯へ足を踏み込む。

 向かう先に見える峠道の脇には木立が並ぶが、ただの雨ならいざ知らず、雷が響く中で大木の下に避難するのは危険であろう。男の持つ知識がそう告げる。

 ――やはり、さっきの町へ留まるべきだった。

 苦い思いを抱えながらも、男ができることは少しでも早く先へ進むこと。灰色の雲はすでに頭上に広がりつつあるが、山の端はすでに明るい。

 ならば、この雲もいずれはうしろへ流れてゆくだろう。いっときの雨さえしのげば、どうにかなるかもしれない。


 峠に差し掛かったころ、男の頬を汗とは異なるものが濡らした。

 ひとたび自覚すれば見る間に数を増し、やがて大粒の雨となって地面へ突き刺さり始める。ついさきほどまでは、熱による揺らぎで視界が遮られたものだが、今度は雨によって奪われてしまった。なんともついていない。

 懐に忍ばせてあるふみを濡らさぬよう右手で襟元を抑えながら、峠道を小走りに駆ける。緩やかな坂道をひとつ超えた先、ほんのすこし開けた場所に赤い色が見えて、目をらした。

 小屋がある。軒先にかかる藍色の暖簾のれん、扉は開いていて、その奥には赤い布地が映える縁台がひとつ。

 茶屋というにはささやかな店構えだが、雨に打たれているこのときばかりは、天の助けのように感じられた。ぐっと足を踏み込み、勢いのまま坂を駆けあがると、茶屋へ飛びこむ。

 薄暗い店内は無人。まるで人の気配がなく、思わず一歩後ずさる。

 もしやここは空き家なのか。

 人通りの少ない峠で、商いを長く続けるのは困難だ。とうの昔に立ち退いているのかもしれない。

 うすら寂しい気持ちになったとき、男の耳が物音を捉えた。店の奥から聞こえたそれは徐々に近づき、やがて人の声がした。

「ごめんなさい、奥にこもっていて気づくのが遅れてしまったわ。長くお待たせしてしまったかしら。声をかけてくださればよかったのに」

 場にそぐわぬ、明るく朗らかな声。

 店内に光が射したような感覚に、男は思わず身を震わせた。

 現れたのは若い女だ。二十代半ばの男より、少しばかり下だろうか。

「さあさ、どうぞ座ってくださいな」

「いや、しかし、俺はこのとおり濡れて――」

 言いかけて言葉を止める。

 雨を吸い濡れていたはずの着物、雫を垂らしていたはずの裾と、水をたっぷりと含んでいたはずの草履。そのすべてが乾いている。

「ひどい雨ですが、降られる前に辿り着いてよかったです。遠慮せず、雨宿りしていってくださいね」

 入口から外の様子を眺めていた女は、そう言い置いて奥へ消えると、盆に茶を乗せて戻ってきた。

 縁台に盆が置かれ、男は自然、その隣に腰かける。大きめの湯呑にたっぷりと注がれている茶を、まずはひとくち。暑気が立ち込める中を歩き続けていた身体は、驚くほどに水分を欲していたようだ。乾いた喉を潤した茶はほどよく冷えており、続けてあおる。ごくりと音が鳴るほどに飲み干すと、目前に立っていた女が小さな手を叩き合わせて拍手をした。

「いい飲みっぷりね。見ていて気持ちがいいわ」

「……すまん。もっと味わうべきだったよな」

「いやね。たいした茶じゃないわ――って、茶屋なんだから、そんなことを言っちゃいけないわね。うん、とっても高くて美味しいお茶よ。あなたは運がいいわ」

 男が置いた湯呑を見ると奥に消え、戻ってきた折には大きな急須と皿を手にしていた。空になった湯呑に茶を注ぐ傍ら、男には皿を進める。

 そこにあるのは、ごくごくありふれた団子と饅頭。なんとはなしに饅頭のほうに手を伸ばし、口へ含んでわずかに目を見張った。

 旨い。

 外側の皮は舌先にピリリとくる塩辛さがあるのだが、中に包んである餡がそれを掻き消す。

 それどころか、餡の甘みをより引き立てており、これまでに体験したことのない味わいなのだ。これはなんというものなのだろう。

 団子のほうはどうかといえば、こちらも変わっていた。

 男が知る団子といえば、タレや餡が乗っているものだが、これは内側に隠されている。親指ほどの小さな団子ひとつひとつに、そんな手間をかけているのかと思うと感服だ。

「おかわりはいかが?」

 女の声はひどく楽しげだ。思わず視線をやると笑みを浮かべた顔と出合い、男は視線を逸らせた。

 甘味をむさぼる姿を見られるのは、いささか具合が悪い。大勢いる客のひとりならまだしも、今は男ひとりだけ。

 その心中を察したか、女は声を柔らかくして告げる。

「峠の茶屋を利用するのは、殿方ばかり。それも長旅に疲れた方が多いのは必然ね。疲労には甘いものがいいの。まして今は汗を掻く季節。塩辛いものだって大切よ」

「そうなのか?」

「あなたがこれからも旅をするのならば、きちんと学ばなくてはいけないわ」

「面目ない」

 項垂うなだれる男に、女は続ける。

「いいの。ここは、そんな方に一服していただくことが目的で作られた場所だもの。あなたはとても幸運なのよ」

「たしかに幸運なのだろうな。いきなりの雨にたいそう困っているところに、この場所を見つけたのだから」

「そうよ、雨のおかげ」

 雨のせい・・ではなく、おかげなのだと笑う女は、雨に似つかわしくない明るい声と笑みを浮かべている。

 滝のような雨は屋根や壁を叩き、バタバタと音を立てる。

 男にとって悪天候は仕事のさまたげになるもので、常ならば忌々しく思う事象だが、今は不思議と穏やかだ。

 旨い茶と、菓子。

 話上手で聞き上手な看板娘――いや、女店主なのか。店を切り盛りしているのは、女ひとりなのだという。

 このような場所で店を構えて、危険はないのか。付近には人家もなく、もしも夜も更けたころに誰かが通りかかり、明かりを頼りにやってきたとしたら。

 それが不届き者ではない可能性は、ないとも言いきれないではないか。

「大丈夫。この店は四六時中開いているわけではないし、そんな心根の方がやってきたとしても見つかりっこないわ」

「なんとも気楽に言うものだな」

「私、かくれんぼは得意ですのよ」

 茶目っ気に笑う女は、まるで幼子のようでもあり、まったく年齢を探れない。不思議な魅力を持つ店主である。打てば響くようなやり取りで、時刻を忘れてつい話し込んでしまう。

 気づくと戸外は明るくなっていた。灰色に覆われていた空も薄まり、青さを取り戻しつつある。

「あら、時間切れね」

「わずかな間だが、世話になった。助かったよ。感謝する」

「感謝するのはこちらだわ。お客様は久しぶりだったから、私もとても楽しかった。ありがとう」

 荷の中から新しい草履を取り出して、履き替える。

 旅の途中で飲んでちょうだいと渡されたものを替わりに仕舞い、出立の準備が整った男は扉の前に立つ。名残惜しい心持ちで振り返り、立っている女に告げる。

「帰りもここを通るつもりだ。また立ち寄ってもいいだろうか」

「……そうね、もしも機会が訪れたら」

「必ず寄る。旨い茶を楽しみにしている」

「いつか会えることを祈っているわ」



 激しい雨の名残がそこかしこに残る道。水たまりを避けながら、男は考えた。

 どうして別離のようなことを言うのだろう。そういえば、いつも営業しているわけではないと言っていたか。ならば、開いている日を聞いておいて、そこに合わせて峠に差し掛かればよいのではないか。

 立ち止まり、身体を反転させる。

 そして目を見張った。


 店がない。

 まだ十数歩ほどしか進んでいないにもかかわらず、いましがた出てきたばかりの茶屋の姿が、どこにもないのだ。

 瞬きをする。

 目をこする。

 幾度見返したところで、状況は変わらない。

 まるで狸か狐にでも化かされたような事態に、茫然と立ち尽くす。

 頭上からは再び陽射しが降り注ぎ始め、暑気が立ち上がる。地面の湿り気を吸い上げた空気がむわりと漂い、ゆらゆらと揺れる。

 そのとき、峠の向こうから男が歩いてきた。立ち尽くすこちらに気づいたか、心配げに近づいてくる。

「どうしたおまえさん、平気か? こんなところに突っ立って、まるで白昼夢でも見たような顔つきじゃないか」

「たしかにあれは夢のようなものかも知れない」

「おや、ひょっとして、茶屋にでも入ったか?」

「知っているのか!」

「いやあ、俺も噂でしか知らねえよ。だがな、なんでも妖艶な美人が手厚くもてなしてくれる店があるんだとか。けど、場所が定かじゃねえんだ。幽霊か妖怪のたぐいじゃねえかって話だが、行けるものなら行ってみてえもんだよ」

 旅をする者たちの間では、よく知られた話だという。

 一定の条件下でのみ出現する不思議な店。

 いつ現れるとも知れないし、店を出た途端、跡形もなく消えてしまう。幽玄のような世界。

 付いた呼び名が、かげろう茶屋。


 陽炎の中に見出した赤い縁台。

 他の旅人たちも、同じように、あの揺らめきの中で彼女に出会ったのだろうか。

 夏の夕立や、冬の豪雪。

 誰かがひどく困り、あるいは疲弊しているときにのみ、あの店は入口を開くのだろう。

 妖艶というよりは、元気の塊といった茶目っ気のある女の顔と声を思い出し、男の胸には夏の暑さとは違う熱が生まれる。

 かくれんぼは得意だと言ったが、生憎とこちらは、それを見つけるのが得意な少年だった。

 いつかと言わず、帰り道に必ず見つけてやる。

 女から受け取った瓢箪のくちを開け、茶をひとくち。

 夏の暑さに負けず、不思議と冷たさを保ったままのそれは、男の心も潤した。

 



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