そして、走り出した道

柊 彩蘭

そして、走り出した道

 夕飯の頃までには帰るから、とママは千奈ちゃんに言って、町内会の集まりに行ってしまいました。夕飯の時間は毎日きっかり7時。現在時刻は4時。つまり残り時間3時間ほど、千奈ちゃんは家に一人きりということになります。

 でも、千奈ちゃんは一人きりではありません。千奈ちゃんには私がいます。

 ほら、予想どおり千奈ちゃんがベッドまで私を迎えに来てくれました。私を両手で抱え、リビングのソファに腰を下ろしました。少し大きなテレビには、夕方のニュース番組が流れています。千奈ちゃんは、小学校一年生なので教育テレビからは卒業したいお年頃という時期なのかもしれません。もしかすると、家の中の寂しい空気を紛らわすことができれば何でもよかったのかもしれません。

 おや、千奈ちゃんがしきりにあたりをキョロキョロと見ています。どうやら、後者だったようです。え? 私は何者かって? そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたね。大変失礼いたしました。わたくし、4年前にウサギの森で千奈ちゃんのご両親に買い取られました。ウサギのモモと申します。もふもふの頬がかわいいって? よく分かりますよ。もちもちの綿がところせましと詰められておりますので、それはそれはキュートな見た目であると自覚しておりますよ。ところどころの縫い目は私の苦労の結晶です。私が傷つくと、Dr.千奈ちゃんママのもとにかかっていたものです……あまり思い出したくない記憶ですが。

 おっと、千奈ちゃんが立ち上がったようです。庭に面した大きな窓を開けて外に出たようです。家の中の静寂に耐えられなくなったのでしょうか。しかし、千奈ちゃんが自分から外に出るとは珍しいこともあるものですね。


 これくらいの年齢の子供たちは夕方に公園などに集まって、五時のチャイムで聞きなれた童謡が流れたらカラスと一緒に帰りましょ、と家に戻るのではないかと思っておりました。しかし、千奈ちゃんは学校に行く時と、毎週水曜日にピアノのレッスンに行く時以外ずっと家にいるのです。千奈ちゃんのママは公園に行ってきたらどうなの? と千奈ちゃんに尋ねていましたが、千奈ちゃんは、お家で本を読んでいるほうが千奈は好きかなぁと言っていました。

 その夜、ベッドに寝転んだ千奈ちゃんは私を高く抱き上げて呟きました。

「ねぇ、モモ。どうやったら千奈もお友達出来るかな? 千奈もみんなと遊びたいなぁ」

 どうやら、千奈ちゃんは人見知りと言うもののようです。


 ところで、サンダルを履いて庭の少し大きい石に腰かけた千奈ちゃんは庭の花(主に雑草)を見たり、人差し指で地面をいじいじしたりしています。千奈ちゃんのきれいな肌が蚊に刺されてしまうのではないかと少し心配ですが、家の中にいるよりも外にいたほうがご近所の世間話やセミの鳴き声、近所の公園で遊ぶ子供たちの声が聞こえて、寂しくないのでしょう。私は、泥が体につかないように注意しながら電線の上のおいしそうな二匹のスズメを見ていました。捕えて食べようなどみじんも思っていませんよ。しかし、毎回硬くてつるつるとした人参や、緑の折り紙をくしゃくしゃとしたもの(おそらくレタスのつもり)を口に押し当てられていたら、時には肉を食べたくなるものです。

 その時でした。千奈ちゃんのママが大切に育てている夏野菜の向こうにある低木がガサガサと音を立てました。そして、目をまん丸にした三毛猫が出てきました。我がライバルの登場の瞬間でした。

 ウサギにとって、好きな動物ランキングで勝てたことのない因縁の相手の一つがネコでした。そんなことを考えている間にも三毛猫はこちらに向かってきます。千奈ちゃんたら、さっきまであんなに不安そうにしていたのに今となっては三毛猫に向かって、ネコちゃんおいでなんて言っています。ずっと、一緒にいたのは私なのに一瞬にして寝返ったのですね。はい分かりましたよ。と、柄にもなく少し嫉妬してしまいました。

 しかし、そんなこと考えている暇はなかったのです。三毛猫は、これぞまさしくというような猫なで声で千奈ちゃんに近づいたかと思うと、その膝にあった私の耳をくわえて走り出したのです。一瞬、強く引っ張られて耳が逝ってしまわれたかと思いました。おそらく、絡み合っていた綿の一部が分離しました。布の繊維もほつれたかもしれません。許すまじ三毛猫。それより千奈ちゃんは無事かと思い、後ろを見るとモモ、モモ~~! と言いながら一生懸命に追いかけてくれていました。サンダルなので少し走りにくそうでしたが、追いかけてくれていたことがとても嬉しかったことを生涯忘れることはないでしょう。


 三毛猫は、千奈ちゃんの家の庭を走り抜けて、公道へ出ました。千奈ちゃんがピアノのレッスンに行く時に通っている道です。幼稚園児だったころは、よく一緒に通ったものです。少しだけ懐かしく感じました。そして、細い路地に入りました。薄暗いうえに時折頬が横のブロック塀に擦れてひりひりと痛みます。でも、追いかけてきてくれる千奈ちゃんの声がよく反響したことによって、平常心を保つことができました。暗いところは苦手で、家の中でも夜に暗い廊下を通れないくらいなのに、初めて通る道ならなおさら怖いはずなのにそれでも追いかけてきてくれる千奈ちゃんに、成長を感じました。

 そして、最後には垣根に飛び込んだではありませんか。さすがにこれはこたえました。枝葉が体全体を包み、突き刺しました。そして、垣根を抜けた先は、公園でした。小学校低学年くらいの子供たちが遊具で遊んだり、おにごっこという遊びをしたりしていたのだと思います。三毛猫は子供たちに驚いて私を開放しました。やっと自由の身になったのです。捨てるように地面に落とされた恨みは忘れませんよ。鼠壁を忘る壁鼠を忘れずという言葉があるように、耳をくわえて引っ張られたウサギの恨みも深いものです。


 少しして、垣根ががさごそと再び音を立てたかと思うと頭に葉っぱや木の枝をつけた千奈ちゃんが飛び出してきました。公園で遊んでいたみんなの視線が千奈ちゃんに集まります。いつもの千奈ちゃんだったら、きっとうつむいて黙ってしまうでしょう。下手をすれば泣き出してしまうかもしれません。しかし、ネコを追いかけて走った道が確かに千奈ちゃんを成長させました。私をそっと拾い上げると、スカートのすそをぎゅっと握りしめました。そして、聞いたこともないくらい大きな声で言いました。

「いっしょに、あそんでほしいです!」

 公園にいたみんなは目を丸くしました。そして、にっこりと笑って言いました。

「あーそぼっ」

 千奈ちゃんもにっこり笑いました。サンダルだから運動靴に変えてくるねと声をかけて家までの道を走りだしました。

 千奈ちゃんの影も成長していました。


 靴を変えて、玄関のかぎもしっかり閉めて公園に戻った千奈ちゃんは、みんなと遊具で遊んだり、鬼ごっこやかくれんぼをして遊びました。私も、たくさんの子供たちになでられてとてもうれしい気持ちになりました。


 千奈ちゃんは今、リビングのソファですうすうと寝息を立てています。ママが帰ってきましたね。今日の夕飯は、カレーライスでしょうか。おいしそうなにおいがしてきました。葉っぱがついた千奈ちゃんの洋服にママは驚いたような表情をしましたが、そっとブランケットをかけてあげていました。そして、いつもより少し多く千奈ちゃんのご飯をよそいました。寝ている千奈ちゃんはとてもうれしそうな笑顔を見せてくれました。この笑顔が見られるなら、この後に訪れるであろう、ドクターの痛い治療も耐えられると思いました。

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そして、走り出した道 柊 彩蘭 @ayatomousimasu

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