大礼話 立つ鳥跡を濁さず
皆が大仰天して、一斉に木々や岩の陰に隠れた。疑耳彦も思わず岩陰で小さくなる。少しでも男の視界から、逃れようとして。
男は目をぎゅっとつむっていた。駒の顔を、絶対に見ないように。そして、駒の前髪がふわりと持ち上がるほど勢いよく、土下座した。
「ええ!?」
「君も! 君だって幸せにならなくちゃいけないんだああぁあ〜!」
「ちょ、ちょっと待ってください!! 主人様!?」
「だのむよ! だのむよぉおおごまざあぁあぁん! うわああああん!」
大の男の大号泣が、音の少ない神社の前でわんわん響く。これまで訓練中に
駒の車椅子を押していた目慈郎が、あまりの衝撃に、震えていた。
「な、泣いてる……しかも、土下座しながら……」
口嚇丸が
「うわぁ、キッモ……」
朽ちた縁側から、鼻緒がにゅるりと出てきた。
「あらあら~泣いちゃった~。どうするの、駒ちゃん?」
「え? わ、私のせいなんですか???」
文字通り、地にひたいを擦り付けて号泣する男に、おろおろする駒だったが、男の声は止まらない。ひたすらに、駒に綺麗になるよう大声で泣きながら訴えている。
どうしたらよいのか、決められない駒は、しばらく、男の丸まった背中と、嗚咽に震えながら訴える様子を、おろおろしながら見下ろすことしかできなかった。
やがて駒も、少しずつ落ち着いてきた。どきどきする胸を押さえて、何度も深呼吸する。
「私の顔のことで、そんなに泣いてくださる方が、いるなんて……思ってもいませんでした……」
駒の声が、震えていた。
「主人様、私がこのままの顔でいる事は、主人様にとっての、憂いとなりますか?」
「めちゃくちゃなる! 駒さん、俺がここを去ったら、次は君がここで治療を受けるんだ。次の人に、順番を渡しちゃだめだよ。次は、君の番なんだからね! 俺がリハビリを頑張ったのも、君に早く部屋を譲りたかったからなんだ。お願いだ、駒さん、自ら切り付けてしまった顔の部分を、全部取り戻してくれ。彼らの腕は、とても良いから、安心して任せてくれ!」
頼む、と繰り返して、男はさらに背を丸めて、おでこを砂利に擦り付けた。もう、大便を漏らしてでもここでずっと、土下座してやろうという気構えだった。
駒の呼吸が、震えている。
「……主人様に、そこまでさせてしまっては……お受けせざるをえませんね。どうか、顔を上げてくださいませ、そして、お立ちになってくださいませ」
いや、顔は上げられないと思った。
「駒さん、信じてもいいんだよね。ほんとに治療、受けてくれるんだよね」
「はい、皆様のお手数にはなってしまうかと思いますが、受けてみたいと思います。主人様が提案してくださった妙案も、参考にいたしますね。ですから、どうかご安心ください、主人様。あなたの駒は、ご期待に応えます!」
男は危うく顔を上げそうになった。
目をぎゅっと閉じて、立ち上がり、そのまま背を向けた。
「嬉しいよぉおお、駒さん! 俺の思い、通じてよがっだ!」
嬉しすぎて、涙と砂利でぐちゃぐちゃの顔を、手で豪快に拭き取った。鼻水も出ていたから、顔半分がぬるぬるになった。
「ごばさん、よがった、ほんとによかったよー……綺麗に治してもらってね。俺も幸せを目指すから、駒ざんも幸せになるんだよぉ」
しゃっくりを引きずる男の背中を、駒は微笑んで見上げていた。
「はい……。幸せって何なのか、よくわかりませんけど……きっと、顔の傷を治しても良いと、許してくださった主人様に、出会えたことが、私にとっての幸せなのかもしれません」
男は最後に、駒の手を握りたい衝動に駆られたが、乱暴に触っては駒の皮膚が破れてしまうかもと思い、彼女の美貌のために我慢した。
「女の人は、どんな立場でも、綺麗でいなくちゃいけないんだ。美しくなきゃ、可愛くなきゃ、いけないんだ」
「そうですね。お客さんや主人様に、失礼ですものね」
「いや、もうお客さんの事は気にしなくていいよ。駒さん自身のために、だ」
駒が小さく微笑んだ気配がして、男はそれだけでとても嬉しくなった。砂利が詰まった鼻をすする。
「それじゃあ、駒さん、それにみんなも、お元気で」
「はい、主人様も。どうかお嫁様とお元気で」
駒は深々と一礼し、男は歩きだした。たくさんのお弟子さん達の別れを告げる声が、男の背中を後ろから押してゆく。
男はここでできる事を、全てやり尽くした。その達成感と、感動と、駒の嬉しそうな笑顔とを胸に、泣いて熱くなった体で、春先の寒い山を、力強く降りていったのだった。
駒の車椅子を押していた目慈郎は、絶句のあまり、何も言えなくなっていた。まさか、もう帰るのみだったあの男が、あんなに感情に訴えるやり方で、強引に駒を説得してしまうとは、思っていなかった。
てっきり、人間の世界へ、そのままあっけなく帰ってしまうものだと、思っていた。
(主人様、すごい……あのわからずやな駒ちゃんが、主人様の駄々っこに応えた!)
断れないし、お人好しだし、自分の事は一切考えられなくなっている駒に、仲良くなった患者から、土下座までされて頼まれたら、それこそ断れないのだった。
「あのおっさん、キモイけど、なんか、すげぇヤツだったな」
「うふふふ、ほんとにいろいろ変わった人だったわね。ま、ここに来る人って大概変わってるんだけど」
口嚇丸と鼻緒が、聖域へと戻ろうとする。その後ろから、雨の中、打ち捨てられた子猫のような鳴き声が聞こえて、びっくりして振り向くと、目慈郎が顔を覆って泣いていた。
「目慈郎? どした」
「あらあら~、感極まっちゃって、可愛いわぁ」
目慈郎が車椅子を押してくれないと、駒の体が前に進まない。だけど今の目慈郎は、何もこなせる状態ではなかった。
駒が心配して振り向いた。
「目慈郎さん? あの……大丈夫ですか?」
これまで多くの主人様を見送ってきても、目慈郎は顔色一つ変えなかったのに、どうしたことかと、駒はおろおろ。
目慈郎は涙の溢れる目をこすりながら、しゃっくりを抑えて、息を吸った。
「駒ちゃん、ほんとに顔、治してくれるの?」
「はい。とっても今更になりますけど、治してもらいたく思います」
「そう……よかった。ずっと治して欲しかったから」
「そうだったんですか……?」
「うん、そう。でも駒ちゃん、頑固だから、みんなが治してあげても、すぐまた取れちゃうし」
そんな駒が、自分から治すと言ってくれた。目慈郎が何よりも待ち望んでいた言葉だった。
「駒ちゃん、あのね」
「はい」
「僕の名前、目刺しっていうの、本当は」
「目刺しさん……? まあ、私が以前暮らしていたお店に、同じ名前の可愛い子猫がいたんですよ。すごい偶然ですね」
目慈郎を見上げる駒が、励ますように微笑んだ。
「きっとまた、素敵な主人様が訪れますよ。その方と、また仲良くしましょうね、目慈郎さん」
「違うもん……僕のご主人様は、一人だけだもん……」
言われた意味がわからずに、駒は困った顔で「そうなんですね」と小首をかしげていた。
疑耳彦がやってきて、目慈郎の代わりに車椅子を押すと言った。
「それじゃあ駒ちゃん、じゃなかった、次の主人様」
「はい」
「顔を元通りに治していこうね。あそこまで泣いて土下座されちゃあ、断れないよね」
「はい、よろしくお願いいたします」
深々とお辞儀する駒の膝に、オスの三毛猫が飛び乗ってきた。
「まあ!」
いったいどこから、と驚く駒の瞳に、見覚えのある毛色と、片目の潰れた、小さな子猫の顔が飛び込んできた。
「目刺しちゃん!? まさか、吉原からここまで、ついて来ちゃったの!?」
痩せた子猫は、駒の胸に頭を押し付けて、匂いを擦り付けるかのように甘えた。ごろごろと小さく鳴る喉。寒い日も、寂しい夜も、もう二度と離れまいと、全体重をかけて、駒に甘えた。
駒が苦笑して、小さな体を両腕に包んだ。
「もう、誰に似んしたか。頑固もんでありんすなぁ」
おわり
縫合寝殿の、駒犬 小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中) @kohana-sugar
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