第陸拾玖話 お見送りに来た車椅子
まだ少し弱ってはいるが、いつも自分を励ましてくれていた、駒の声だった。
男は思わず振り向きたくなったが、寸でのところで、拳を固く握って、耐えた。
「やあ駒さん、外に出られるまでに回復したんだね。よかった、すっごく心配してたんだ」
「まあ、それはそれは、ご心配おかけいたしまして、申し訳ございませんでした。よく覚えてないんですけど、私、仕事中に倒れたんですってね。皆さんにも、たくさん迷惑をかけてしまって。でもおかげさまで、元気になりましたよ」
まだ車椅子から立ち上がれない状態なのに、立ち去る男を心配させまいと、気丈に振る舞っている。
(駒さん、まだ俺をお世話してる側だと思ってるんだな。次の患者は、君なんだと、どうしたらわかってもらえるんだ)
ここを去ったら、駒に会えなくなる。永遠に。駒がまた聖域に戻って、医療スタッフ側に戻ってしまったら、また駒が治療される番が遠くなる。
(俺は、今すぐ駒さんに綺麗になってほしいのに!)
こんなタイミングで便意が。早く人里に降りて、お手洗いを借りたい。家に帰って、待っている人を両手いっぱいに抱きしめたい。浴衣は寒いから、いつもの服に着替えたい。美味しいもの食べたい。お金の心配があるから、職場復帰したい。
次から次へと湧き出てくるのは、自分のことばかり。自分自身の人生を、良くすることばかり。
駒を世話する必要なんて、男が人間らしく生きていくだけなら一切必要ない。それでも、男は――
「駒さん……どうか怒らないで、聞いてほしい」
「はい? 何でしょうか」
「君が大事な人を助けるために、自分の顔を切り裂いた話を、聞いたんだ。君の鼻、根こそぎ無いんだってね」
「……はい」
駒の声は、悲しげだった。
「でも私は、これでいいんです。顔のあちこちが無くなったって、死ぬわけではありませんし、ここでお世話にもなっていますから、そのご恩を返すために働けるだけで、毎日充分に満足していますよ。ですから主人様は、どうかお気になさらずに。私は、大丈夫ですから」
駒は、自分がまだ生きてると思い込んでいた。生まれつき感覚が鈍かった彼女は、きっと高熱も、それに伴う苦しみも、あまり感じなかったのだろうと男は思った。
(駒さんは、今の暮らしに大変満足していると言う。……本当にそうなのか? いつでも顔を治療してくれる優秀なスタッフに囲まれていて、でも頑なに治療を拒んでいる理由はなんだ? 人前に出るなら、ズタズタになった顔より、綺麗になった顔のほうがいいに決まってるのに……)
他人に迷惑をかけまいと頑張る性格の駒ならば、他人を驚かせてはならないと、顔の治療に了承するはずだ。それを拒み、施設の中で、ずっと籠もっている理由は? 外出も、すぐそこの稲荷神社のみに留めている、その理由は?
男は便意と戦い、脂汗をひたいに浮かべて、必死に考えた。駒の立場になって、駒の目線で、必死に考えた。
(そうか! 駒ちゃんと一緒にいた花魁を、嫁に貰っていった山男は、この山に住んでたんだ! だから駒ちゃんは、花魁と山男に鉢合わせしないように、この施設にずっといるんだ。それでもうっかり再会してしまったときを想定して、山男が花魁を捨てないように、駒ちゃんは自分の顔を絶対に治さないんだ!)
思うに、山男はまあまあ良い人だったのだろう。だから尚更、駒は花魁よりも美しくなるわけにはいかなかったのだ。花魁をこの施設へ呼ぶこともできなかった。ここは今にも命の灯火が消えそうなほど重傷の患者しか、受け付けないから。山男の施しで、花魁は健康状態だけは維持されたのだろう。だから、この施設の門をくぐるに値しなかったのだ。
(駒さんは、二人がまだ生きてると思い込んでて、それで自分だけが綺麗に戻るわけにはいかないと、鼻が無いまま、ここに居るんだ。誰かの幸せのために、ずっと不幸で居続けなきゃいけないだなんて……そんなの友情なんかじゃない! 忠義でもない! そんなの、人間の生き方じゃない! 俺なんか今、うんこに行きたくて、そればっかり頭によぎるんだぞ。みんなの前で漏らしたくない、かっこよく去っていきたい、って自分の見た目のことばっかり考えてるんだぞ)
しかし男は、駒に振り向けない。口嚇丸が言っていた通り、駒の顔も見られない男に、彼女は救えるわけがないのかもしれない。
(でも、駒さんに綺麗になっててほしい! 駒さんは、女神のように美しくなきゃ嫌なんだ! 俺が嫌なんだ!)
だが、友達との約束が。絶対に振り向いてはいけない、と言う約束が。振り向かずに歩き去らないと、男の命は無い。
どうしたら、どうしたら――
「うおおおおおおおおおおお!!!!」
突如、男が大声を上げて肩を
「主人様? どうされたのですか!?」
「駒さん、君には、本当に本当に! 世話になった! 俺は、君のためにここまで回復したといっても、過言じゃないんだ、本当に! 嘘じゃない! 君に喜んでほしくて、君の反応が欲しくて、君にかまってもらいたくて! それをご褒美に、ここまでリハビリを頑張ってきたんだよ!」
「はあ、そうなんですか?」
「駒さん」
「はい」
「俺とっ、俺と結婚してほしい!」
辺りが、静まり返った。
駒が狼狽している気配が、男の背中にひしひしと伝わってくる。
「あの……私、顔が……」
「俺も、家に女房がいるんだ。女性を二人も養えるほど、俺には甲斐性がない。だけど、君にこれだけは言いたかったんだ。君に心底惚れてる。俺の人生で、こんなにも心の底から好きになった人は、他にいないんだ。大好きだ駒さん! ほんっとうに! 連れて帰りたいくらい、大好きだ!」
後ろで、駒がすごく困っている。
「あの、主人様、私……どうしたら……」
大好きだ、は指示や仕事の依頼ではない。男がただ大声で発しているだけの、告白だ。
誰かの指示や求めがないと、駒はどうしていいやら、わからなくなる。そういうふうに、生きてきたから。そんな生き方しか、知らないから。
そして、誰かに一番に想われたことが、ないから。金銭も体も目当てではない男に、一方的に好意を向けられたことがなかった。
「私、私は……ど、どうしたら、良いのでしょうか」
「綺麗になってくれ」
「え?」
「元通りの、綺麗で、可愛くて、美しい顔に、戻ってくれ! どうか、あなたのことが大好きな俺のために、自分の顔を、もとに戻してくれ!」
「それは……その……」
「花魁と、その旦那さんに、申し訳なく思うんだろ? だったら心配ないよ。俺も一緒に考えたんだ。駒さんが顔を綺麗にした後で、この山を降りればいいんだよ。それで、もう二度と二人に会えないくらい、遠く、遠く……暖かくて、明るい場所へ、行けばいいんだよ。こんな所にいるから、二人に会うんじゃないかって怯えることになるんだ。この山から、離れよう!」
「でも……」
「わかってるよ、山を降りるときに、花魁夫婦にばったり会わないか気がかりなんだよね。確かに、山を歩いていたら、山に住んでる人に会うこともあるかもしれない。そういう時はね、駒さん、周りの頼りになる人たちに、頼ればいいんだよ。疑耳彦君たちに先に山を歩いてもらって、花魁夫婦を見張ってもらって、夫婦が外出してない時に、駒さんが山を降りればいいんだ。何でも一人で頑張っちゃいけないよ。ここのお弟子さんたちは、みんなすごくしっかりしてて、優しいから、絶対に力を貸してくれるよ」
「そんな方法が……ですが、忙しい皆さんのご迷惑に、ならないでしょうか」
「なるもんか! みんな駒さんが大好きで、もうずーっと駒さんを心配してたんだよ。むしろ、頼ってあげてよ。彼らはずっと、頼られるの待ってたんだから」
「頼って、あげる……ですか?」
心底不思議そうに尋ねる、駒の声。誰かに頼るという発想すら、今までなかったことが伺えた。
「でも私、どこへ行けば……この辺りには、何の心当たりもなくて。ここで奉公していた方が、皆様のお役に立てるかと」
「ここに居ちゃダメなんだよ! あの花魁夫婦を気にして、君がどこにもいけなくなるだろう。外出だって、してないそうじゃないか」
「それは、そうなんですが」
「行きたい場所がわからないなら、院長やお弟子さん達に聞けばいいよ。きっと、明るくて、あったかくて、すごく安心する場所に、駒さんを連れて行ってくれるから!」
「でも、多忙な皆さんにお手数をおかけするわけには……今だって、こうして走る椅子に乗せてもらって、ここまで運んでいただいているのに……」
自分の存在が、皆にとって迷惑極まりないと思い込んでいるようだ。もともとは農村から売られてきた娘さんである。「要らない子」「口減らし」「借金のカタ」「男の子なら良かったのに」様々な理由を付けられて、徹底的に自尊心を破壊されて、商品として値段を付けられて働かされてきた人を、今ここで褒めたり励ます程度では、なんの改善にもならないのだと、男は悟った。
(お願いだ……駒さん! わかってくれ! お願いだぁ!)
男は、ぎゅっと目を閉じた。
「君が幸せになることで、笑顔になる人だっているんだ! ここにいるんだよ、たくさん!」
「ええ?」
ピンときていない駒に、男がガバリと振り向いた!
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