第陸拾捌話 縫合結縁稲荷神社

 洗面台には、縁の欠けた湯のみが置いてあり、口をゆすぐ用の水が入っていた。男は歯ブラシにしては大きすぎるぼさぼさのブラシを口の中に突っ込んで、がんばって歯を磨いた。


「終わったよ、疑耳彦君。俺も浴室から出ればいいのかな?」


「うん。気をつけて外に出てきてな」


 それきり声は、しなくなった。男は恐る恐る、浴室の扉を開けてみる。


「うわっ! なんだ、ここ……まるで廃墟になったお寺みたいだな……」


 今すぐにも倒壊しそうなほど朽ちた、広い木造の建物だった。ぼろぼろの畳はとうの昔に黒い粉になり、床板はどこも腐って穴だらけ。壁もあって無いようなもので、点々と残った太い柱が、シロアリに食われながらも屋根を支えている状態だった。その屋根から柔らかい陽射しが差し込んで、室内にタンポポが生えている。


「俺はどうやって、こんなところでリハビリをしていたんだ?」


 つい辺りをぐるりと見回したくなったが、友達との約束を思い出し、どこも振り向かないで歩きだした。穴の空いた天井から清々しいほどの青空が見える。良き退院日和であった。


 廊下の床板が腐ってぶよぶよしており、おまけに穴だらけなので、進むのに難儀した。


「そっか……俺は今まで、本当に聖域に居たんだな。人間が気軽に、入れない世界に……」


 朽ちた壁の穴から強い春風が、男を突き飛ばさん勢いで主張した。男の浴衣の袖が、音を立ててはためいた。春先にこの服装は寒いなぁと、男は浴衣を見下ろし、その模様の見覚えがあることに、大変驚いた。


「この浴衣は……あの人を、初めて花火大会に誘ったときの……」


 男は浴衣と自分の体を、じっと見下ろした。泣くつもりはなかったのに、涙がこぼれ落ちた。


「もうこれ、俺には似合わないよ。腹、こんなに出てるし」


 ぎゅるりと腹が鳴りだして、男は一瞬で青ざめた。


(は、早く外に出ないと!)


 急ぎたいのに、穴だらけでぶよぶよの廊下は走らせてくれなかった。縁側のような箇所を見つけ、男は裸足の片足を一歩出して、地面に降りた。


 建物の周辺は、お弟子さんがやったのか草むしりがなされ、綺麗なものだった。少し遠くに視線をやると、人の入れる隙間がないほどびっしりと生い茂った草木の影響で、薄暗かった。獣道すら見えない、山の奥深くなのであった。


 人が寄らなくなってかなり経つのか、餌を食べていた小鳥やリスが、男に気づくと、じーっと凝視し、逃げることなくまた食べ始めた。男が近づいても、ぎりぎりまで逃げなかった。


「ん? なんだか、観賞用っぽい岩が点在してるな。ここは中庭か?」


 ふと、庭の終わりと思しき位置にある岩陰に、サンダルのような物がぽつんと置かれてあるのを見つけた。近づいてみると、それは草で丈夫に編まれた草鞋わらじだった。


 ちょうど裸足の男、これを借りたく思った。振り向かずに、声を張る。


「おーい、この靴を借りてもいいかい? 裸足で山道を歩くのは、さすがに大変だ。尖った小石や木の枝を踏んで、足の裏が血だらけになるかもしれない。いいかい? 借りても」


 返事はなかった。


 男は恐る恐る、草鞋を履いてみた。すると、恐ろしいほどに足にぴったり合った。まるで寝ている間に足の大きさを測られたかのように。


「ああ、これ、俺用か! ありがとう! これを履いて人里に降りるよ」


 念のために、声を張って宣言した。なんとなくだが、自分の背後に、たくさんの気配を感じる。でも、ちっとも怖くなかった。


 さて、どこをどうやって進めば人里にたどり着けるのか、男にはさっぱりわからない。とりあえず、適当に山を下っていけば何とかなるかな、と思いながら、後ろだけは振り向かないように、ざっと左右を見渡すと、見覚えのある豆が、ひとつぶ、ひとつぶ、かなりの間隔をあけながら落ちていた。近くに小鳥や小動物が、餌の時間を満喫しているにも関わらず、その豆たちは見向きもされていなかった。


「あぁ……きっとこれが、本当の意味で最後のリハビリなんだな。人里に帰るための、リハビリだ」


 手入れされて歩きやすくなった道を、そしてポツポツ落ちている豆を、その目で追って、辿って歩いた。


 歩きだして間もなく、丸太のような物が横たわって朽ちている光景を、目の当たりにした。神社などで目にする、見覚えのある形状に組まれている丸太だった。


「うん……? なんだ、でっかい鳥居か? 見事に倒れてるな……」


 鳥居の柱には、達筆な文字が彫られていた。男はしゃがんで、解読する。


縫合結縁ほうごうむすびえにし……稲荷神社。あ、稲荷神社なんだ」


 男は鳥居が倒れた方向に目を向けた。左右対称に並んだ、苔むした石の台座に、二対の狐の像が向き合うようにして建っていた。双子のようにそっくりな造りだったが、左の狐の後ろ脚が欠けている。


「そう言えば、院長は杖をついてたな」


 たしか、双子でもあった気がする。男は参拝したく思ったが、肝心のお社が、土台を残しているだけで跡形もなく朽ちてしまっているため、この場で二礼二拍手、参拝した。


「院長、こんな姿してたんだ。今、俺はスマホも財布もないから、賽銭が投げられなくて……。あ、でも、院長たちにとって俺は、もう二度と戻って来ちゃいけない患者なんですよね。なにせここは、一人しか治せない場所だから。元気ハツラツな俺は、家に帰るだけですね」


 心残りと言えば、駒だった。けっきょく、彼女は起き上がれなかったのだろうと思われた。未練で未練で、男は振り向きたくなってしまうのを、我慢し続けた。


 ふと、背後から小さな車輪が、砂利を鳴らしながら近づいてきた。


「主人様」


 駒の声だった。


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