第陸拾漆話 禊の儀式

 ここで食べる今日最後の朝食は、残りの食材を全部使って作ったそうで、男は本当に食べきるまでに苦労した。最後の食事なのだし、綺麗に食べきりたい、その一心で、脂汗を流しながらようやく完食。なにやら、腹がごろごろと鳴りだした。


(う……全身の内臓が、特に腸の辺りが、うごめいてる気がする……)


 自分の内臓が、自分を生かそうとうねうねしている。今を生きようと、明日も生きていこうとうねうねしている。まるで芋虫みたいだった。


 足音が近づいてきた。疑耳彦より荒々しいのが口嚇丸の特徴だ。


「主人様、風呂に入るぞ」


「え? 風呂?」


「そうだよ。歯も磨くんだぞ」


「ちょっと待ってくれ、え? 風呂? 歯も?」


 久々に耳にした単語に、男は大変戸惑ってしまった。それくらい、ここでの不可思議な生活に、すっかり染まっていた。


「何度も言わせんなよ」


「いや、あの、そうなんだけど、今まで体を拭いてもらって終わりだったから、急に風呂とか単語が出てきて、ちょっと今、頭が混乱してて」


「おら、風呂場まで連れてってやるから、とりあえず立てよ」


 あれよと言う間に男は手を引かれて、口嚇丸達が昨日たわしでこすっていた浴室へと、連れていかれた。暖かな湯気が、男の全身をしっとりと湿らせる。途端に男は湯船いっぱいのお湯が恋しくなり、今すぐにでも飛び込みたく思った。


(やっぱり日本人と言えば、風呂だ!)


 入りたくて入りたくて、体の芯からうずうずしてくる。


 他のお弟子さん達に、包帯を取ってもらって、しかし両眼の包帯だけはそのままで、それでも男は嬉々としていた。皆に手を引かれて、浴槽のそばへ。しゃがむよう指示され、背中や頭に、たくさん掛け湯をしてもらい、それがすごくすごく嬉しかった。


「あったかい!! お湯があったかいよー!! わああ、あったかいお湯を全身に浴びれる、この幸せ!! あー、生きててよかったぁ!!」


 大声ではしゃぐ男の頭を、口嚇丸がポカリと叩いた。


「うるせーよ! ここは声が響くんだから、はしゃぐんじゃねーよ」


「いやー、こればっかりは止められないよ」


「はぁ~、わけわかんないおっさんだな。ほら、湯船に入るぞ。ゆっくり入れるからな」


 ゆっくりとは口ばかりで、口嚇丸は背中をぐいぐい押して湯船に自力で浸からせた。それでも、男にとっては待ちに待った瞬間だ。熱いお湯の中に下半身が浸っただけでも、おっさん臭い声がじんわりと腹から沸き上ってきた。


「うい〜……」


 ついに肩まで浸かった。掛け湯にさんざんお湯を使ったせいか、湯船からお湯は溢れなかった。本当に久々の熱いお湯に、男が極楽気分で浸っていると、またまた、お腹がぐるぐると鳴りだした……。


(う……お湯に入ったら体がほぐれて、余計にお腹が……)


 今までの人生経験から計算して、急いでトイレに駆け込むほどではない。だが、腹の調子が気になって、心底極楽気分に浸ることができない。


「しゃーっす! お体拭きますね!」


「え?」


 いつもの、豪快に拭いてくれる子だった。ただでさえ腹の具合が悪いのに、腹部を圧迫されたらたまらない。湯船に入っている男の体を、背中を、ゴシゴシこすりだす、元気なお弟子さん。男はお腹だけは自分でやらせてくれと、手ぬぐいを渡してもらったのだった。



 包帯で視力を封印されている男には、真っ黒に穢れた湯の有様は確認できない。弟子たちは風呂の栓を抜いて、汚水を浴室から排除した。


 ずぶ濡れになった体を、乾いた大きな布で拭いてもらい、男はまた体中を包帯で巻かれるのかと思いきや、


「今から浴衣を着せるから、袖を通してくれよ」


 疑耳彦の声がして、皆で一緒にするすると着付けてくれた。


(そうだった、裸に包帯だけ巻いた格好で、家に帰るわけにはいかないじゃないか。通報されて、逮捕されるわ。そんなことにも気づかないだなんて、俺はすっかりここでの生活に馴染んでたんだなぁ)


 帯をぎゅーっと締められて、お腹がまた刺激された。


「う……! なあ、疑耳彦君、俺、ちょっと、お手洗いに行きたいんだけど」


「え? 無いよ、ここには」


 トイレを使わせてくれないコンビニ店員のようなことを言われて、しかし病院で患者にトイレを使用させないなんて聞いたことがない男は、本当に無いのかと何度も尋ねた。


「うん、無いよ。ここは聖域だから、人間や畜生の糞尿を長く置いておけないんだよ。薬の材料に使う分や、治療用に使用する分は、小さい瓶の中で保管できるけど、お尻から直接出たヤツは、ただの汚物だから置けないんだ」


「えっと、じゃあ君らは、トイレに行きたいときどうするの?」


「俺たちは一ヶ月に一回か二回、山でするかな。ここではしないよ」


 疑耳彦達は、糞尿が一ヶ月に数回しか出ないらしい。やはり人間と体の作りも違うようだった。


「そんな少ない頻度じゃあ、お腹パンパンにならない?」


「滅多にならないよ。俺たちは人間の腕や足の一本なら、骨ごとすぐに食べられるんだけど、しばらく何も食べなくてもいいくらい、ゆーっくり消化するんだ」


 ……退院間近に、聞く話ではなかった。豊作を約束する代わりに、村娘を一人生贄に取ってゆく感じの、神様のようだと思った。


「そんなわけだから、主人様、ここでは糞尿を漏らさないでくれよ。ちゃんと家に帰ってから済ましてくれや」


「うーん、我慢できるか、やってみるよ……」


 男はお腹をさすって、げんなりした。駒の前で脱糞だけは、避けたかった。



 浴衣も着せてもらったし、もう浴室には用は無いかと思った男だったが、


「主人様、今から俺が言うことをよく聞いてね。ある意味、これが一番難しい試練かもしれない。絶対に、後ろを振り向かないでね」


「え? う、うん、わかったよ」


 何かサプライズでもあるのかと思ったら、


「今、主人様は鏡の前に立ってるんだ。これから小刀で、自分で顔を剃って、歯も磨いてもらうよ」


「え? 自分で刃物を持って? 俺は今、両目を包帯で隠されてて、とてもじゃないけど、顔なんて剃れないよ」


 慌てる男に「うん……」と、小さく疑耳彦がうなずいた。


「俺たちはこれから浴室を出るよ。主人様は、最後の包帯を自分で取って、そして、絶対に後ろを振り向かずに、顔と歯を清めてね」


「最後の包帯……」


「うん。俺たちは主人様の後ろにいて、主人様の視界には絶対に入らないように頑張るから、主人様も絶対に振り向かないでね」


 何度も、絶対、が繰り返し強調された。


「……そっか。君たちの姿を見ては、いけないんだったね。最後に目も合わせずに、家に帰るのか…… 。仕方ないことだとは言えさ~、いっぱい世話になったことだし、友達と笑顔でお別れしたかったよ」


「うん、俺もいつもそう思うよ。でも、どうか乗り越えてくれよ。ここで起きた事は、人間の主人様にとっては経験しなくてもいい事だったから。記憶や思い出に、強く残しちゃ駄目なんだ。俺も寂しいって思うよ、どうか俺たちのためにもさ、笑って元気で、家に帰ってくれよ、な?」


 背中をポンポンと叩かれて、なんだか小学生の時に会った優しい体育の先生を思い出した。


「うん、頑張るね。寂しいけど、これが最後の試練だ」


「それじゃあ、今浴室にいるのは俺だけだから、合図したら包帯を取ってね」


「ああ、わかったよ」


 疑耳彦の足音が遠ざかり、浴室の戸を閉めた音がした。


「はい、出たよ。主人様、絶対に絶対に後ろを振り向かないでね。それから、それから、仲良くしてくれてありがと!」


「こちらこそ、本当に世話になった。ありがとう」


 男は、まるで肌の一部かのように顔に張り付いていた包帯へ、ゆっくりと爪先をかけた。強力な粘着力の絆創膏みたいに、ゆっくりゆっくりと、包帯を剥いでいく。皮膚の薄いまぶたに、この粘着力はなかなかに辛かったが、先ほど風呂で少しふやけてくれたようで、ナメクジのような速度だったが、剥がれていった。


(本当に……世話になったよ……)


 退院時の患者は、「世話になった」ことへの「感謝」の気持ちを、医療スタッフに伝える時、壊滅的な語彙力になる。本当に、同じことを繰り返すのだ。世話になった、ありがとう。心の底から湧いてくる言葉。自分の治療のために、時間と心血を注いでくれたことへの、感謝の気持ち。そして、家に帰れるくらいに回復してくれたことへの感謝の気持ち。


 お世話になりました。


 ありがとうございました。


 退院時、この言葉を、意味を、気持ちを、精一杯医療スタッフに伝える。


 どのスタッフにも、この言葉がかかる。


 患者はスタッフ全員に、心の底から感謝しているからだ。今こうして生きているのは、本当に彼らのお陰なのだから。繰り返される言葉に、溢れんばかりの感謝の感情を詰め込んで、ひたすらにお礼を述べるのである。


(お世話になった皆の顔を見れないのは、残念だし、すごく心がモヤモヤするなぁ……。でも、ここでこの病院の規則を破って、心臓が止まっちゃったら、目も当てられない結末だしな)


 自分は、帰る。家で待っている人がいるから。不安で心配で、晴れぬ感情を毎日抱えて、それでも自分の無事を信じて、待っている人がいるから。


 はたして、まだ籍も入れていない彼女が、まだ辛抱してくれているのかは、男にもわからない。待っていてほしいとは願っているが、辛いことばかりだった彼女が、これ以上の苦難に耐えきれずに出て行ってしまっていても、男は責められなかった。


 ようやく、片目が包帯から解放された。どこかで廃棄されていた物を拾ってきたのだろうか、ひび割れた鏡の洗面台が、男の顔をいびつに映していた。


「……おお、老けたなぁ俺。まあ、最後に撮った運転免許証の顔よりは、男前だな」


 包帯を全てはずした。久しぶりに見た、自分の顔。角度を変えて、顔のあちこちを観察した。恐ろしい苦難を乗り越えて、鏡の中で笑う自分は、最高にかっこよかった。人生で、こんなに自分の顔をかっこよく思った日は無い。


「さて、ヒゲを剃るか……って、おいおい! これ、リンゴとか切る果物ナイフじゃないか! これで顔、剃れるのか?」


 他の剃刀かみそりはないかと疑耳彦に声をかけたが、無いそうなので、男は便意を我慢しながら、不慣れな刃物で髭を剃らねばならないのだった。


 結局、全部剃りきれなくて、まだらに残ったまま妥協した。


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