第陸拾陸話 明日ここを発つ・下

 すれ違うお弟子さんたちの挨拶を、男は明るく返しながら、疑耳彦に厨房へと案内された。


「あら主人様~、また台所に入って来ちゃったの? 食いしん坊ね~」


「その声は、鼻緒ちゃんだね。俺は明日に退院することになったよ。今まで本当に、世話になったね」


「まあ、いよいよなのねぇ、本当におめでたいわ〜。あ、そうそう、アタシを口説く覚悟はできたのかしら〜?」


「え……? いや、あの、あはは……」


「冗談に決まってるじゃな〜い。いや〜ねぇ、もう、本気にしちゃってぇ」


「ハハハ……」


 点鼻薬を処方した鼻緒は、料理番を任せられるほど舌も鼻もよく効くらしい。ここで男は、ふと疑問に思った……鼻緒と最初に会話した時、鼻緒は鼻が詰まっていたようだが、やたら男のことを臭い臭いと連呼していた。あれには本当に腹が立ったが、生活に支障をきたすほど鼻が詰まる持病がある鼻緒に、はたして人の悪臭がどれほどわかったのだろうか。


(あれはもしかしたら、俺を煽って早く退院させたく思わせて、リハビリを促していたのかもしれないな……俺の考えすぎかもしれないけど)


 性別も、その本心すらも、全てが謎に満ちている鼻緒。ただ確かなのは、治療の腕が良いことと、癖は強いが優しい奴ということだった。


 疑耳彦は、すぐそばに目慈郎もいると言う。相変わらず気配が全くしない子であった。


「主人様」


「やあ、世話になったよ。せっかく治してもらった両目なのに、包帯が取れないのが残念だ」


「うん……こればっかりは、ごめんね」


 目慈郎の声が申し訳なさそうに、さらに小さくなるものだから、男は慌てた。


「その、駒さんは今、話せる状況かな」


 一瞬だけ……長い沈黙が流れた。


「疑耳彦君から聞いたの? うん、駒ちゃんの意識が戻ったよ。主人様が部屋に入ってきたことは、覚えてないみたいだけど」


「そ、そうか…… 。お腹が破れちゃった記憶なんて、覚えてない方が、いいよな、うん」


 あの日、水槽から出て倒れてしまった駒の体に、男は救助のためとはいえ、無断で触れてしまったのを思い出していた。休憩中の女性がいる風呂場まで、ただ話したいだけの理由で侵入しただなんて、セクハラで訴えられたら惨敗する気がした。


「主人様、駒ちゃんに会いたい?」


「ああ、もちろんだよ。ぜひ、あ、駒さんが無理じゃなかったらでいいんだけど、お礼が言いたいよ。精神的にも、彼女の優しい声には支えられたから」


「それじゃあ、ここからは僕が案内するよ。駒ちゃん、まだ自由に動けないから、直接会うことはできないけれど、主人様の大きな声だったら、扉越しでも聞こえるよ」


 男は、自分の声が大きい方で良かったと歓喜した。



 水先案内人を目慈郎が代わった。男は目慈郎と二人で、水槽のある部屋へと歩きだしていた。


「緊張するなぁ……。俺が声をかけたせいで、また駒さんのお腹が破れちゃったら、どうしよう」


「今日は大丈夫だと思うよ。部屋の中の駒ちゃんに近づかなければ、駒ちゃんが反応して立ち上がることはないと思うよ」


「そうか……誰かが近づくと、自分に用事があると思って反応しちゃうんだね」


 愛想が良いあまりに、具合が悪くても対応しようとするらしい。そのいじらしい様子を想像するだけで、胸が熱くなる男だった。

 こうなると、もう駒に再会することしか頭になくなり、周りの不気味な瓶が立てる生々しい物音にも、生臭い異臭にも、そこまで恐怖しなくなった。


 目慈郎は水槽が置かれた部屋の、大扉の閂を外した。


「え? 目慈郎君、俺は扉越しから声をかけるんじゃないのかい?」


「うん、でも、扉を閉めてると駒ちゃんが立ち上がろうとしてるかどうかが、僕に見えないから」


「まさか、君、最初から扉を開けてあげるつもりだったんじゃ……」


「主人様は、ここから一歩も動かないでね。部屋に入ったら、足の裏が凍るよ」


 目慈郎の手により大扉が細く開かれて、業務用の冷凍庫のような冷気が漏れ出てきた。男の背筋がぶるりと縮み上がる。


「……駒さ~ん?」


 少し待ったが、返事はなかった。


「目慈郎君、駒さんは起きてるんだよね?」


「うん。目は開いてるよ」


 今の彼女は、どのような顔で、どのような状態で自分を見ているのか、全くわからない。けれども、自分の声に反応し、こちらを向いてくれているのだと、男は信じた。


「君には、本当に本当に世話になったよ。いつも明るく励ましてくれて、ありがとう。君がいなかったら、俺はここで正気を失っていたかもしれない。俺がここでスタッフの皆を信じることができたのは、きっと君が、周りと明るく会話してるのを聞いたからだと思うんだ。君が信じる人たちなら、俺も信じられるって、無意識にそう思ったんだ。だから、えっとぉ……君は俺の命の恩人だ」


 小さく水音が鳴った。男は少し待ったが、やはり返事はなかった。


「それでね、駒さん、俺は明日、ここを発つよ。完全回復したから、自分の家に帰るんだ。みんなのおかげで、俺はこんなに回復したんだよ。ちょっと前まで寝たきりだったのに、本当にこれは奇跡だよ。君たちがいなかったら、俺はきっと布団の上で冷たくなってた。感謝してもしきれないよ。君たち素晴らしいスタッフに出会えて本当によかった」


 水音が鳴った。今度はさっきよりも、少し大きかった。


「主人様……お帰りに、なるんですね……」


 男はハッとして、声のする方へ顔を向けた。


「うん! すっかり元気になったよ。本当に、本当にありがとう!」


 駒の笑顔を、毎日想像するだけで、楽しかった。駒の声を聞くだけで、触れてもらうだけで、とても癒された。それは、紛れもない事実。男を奮い立たせてきた、紛れもない事実だった。


 彼女はもはや人間とは呼べないかもしれない、幽霊かもしれない、成仏させなければならないのかもしれない。けれども、男にとっては理想の女性であり、自分を生かし続けた女神なのだった。


 目慈郎が、男の腕をそっと引いた。


「主人様、そろそろ行こう。このお部屋、まだ冷やしておかなきゃいけないの。扉を開けていると、温度が上がって、駒ちゃんが腐っちゃうから」


「ああ、わかったよ」


 未だ予断を許さない状態の駒に、男は去り際、再度振り向いた。


「どうか、自分の体を治すことだけ考えてくれね。明日、もしも君が起き上がれなくても、俺は今日君と話せただけで充分嬉しいからさ。どうか気にしないでくれね」


 小さく水音が鳴り、聞き取れたのが奇跡なほどか細い声で、


「はい……」


 駒が返事をしたのが、聞こえた。


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