第陸拾伍話 明日ここを発つ・上

 布団の上で大盛りの朝食を食べ、リハビリに赴くために立ち上がる。


 もしも今日、院長の部屋まで到着できたら、今日が最後のリハビリになるのだと、疑耳彦から聞いたときは、いよいよ明日、この施設を出るんだと実感し、男は身が引き締まる思いだった。


「主人様、最後だからって油断せずに、気をつけて歩いてね」


「ああ。今まで本当に世話になったよ。指先が動かせないほど重傷だったのに、また元通りに手足が動いて、立って歩けるようになるなんて。君たちに出会えなかったら、俺は……どうなっていたんだろう……」


「主人様は、運が良かったんだよ。俺たちが集中して治すことができるのは、たった一人だけだから」


「ああ……本当に、運が良かった。俺が退院しても、もう家に誰も待ってくれてないかもしれないのが、ちょっと辛いけど、生きてりゃまた彼女にも会えるかな……なんの連絡も寄越さない俺に愛想が尽きて、出て行っちゃったかもしれないなぁ」


 不安をこぼす男に、疑耳彦は苦笑しながら「大丈夫じゃない?」と軽い口調で励ました。


「だって主人様、いい奴だしさ。その家で待ってる人だって、主人様に良くしてもらったから、家にいるんでしょ? 待っててくれてると思うよ」


「良くしただなんて……俺は何も、たいした事はやってないよ」


 男は廊下に出ると、リハビリを始めることにした。高校最後の夏休み、あの時、あの娘に一言、綺麗だと、好きになったと、素直に言えていれば、金ばかりの詐欺集団に惹かれて行方不明になるなんてこと、起きなかったのではないかと……じんわり後悔していた。自分一人に褒められた程度で、女性一人の人生が大きく左右されるわけがないとわかっていても、あの最高に美しかった夏の夜に、言おうと思えば言えるチャンスに怖じ気付いて、何もしなかった青年を、今の男は許すことができなかった。


「駒さんは、今日はどんな調子だい? まだ眠ってるのかな」


「ふふ、今日は聞かないのかなーって思ってたんだ。駒ちゃんね、か細い声だったけど、俺の呼びかけに返事したよ」


「本当かい!? ああ良かった、あれからずっと意識不明のままでお別れすることになったら、どうしようかって心配してたんだ。罪悪感で吐き気すら出てきてたよ」


 男は駒の腹部が破れた原因が自分にあると考えており、ずっと苦悩していた。


「駒さん、他に何か言ってたかい?」


「すぐ眠っちゃった」


「そうか……。でも、ずっと眠っていた状況よりは、良くなってるよね。明日、もしかしたら会えないかもしれないけど、俺がいなくなっても元気を取り戻してくれるといいな」


 男はしっかりとした足取りで、すたすたと廊下を歩いていった。未だその両眼には包帯が巻かれており、軽く両手を前に突き出して、暗記した道を迷いなく歩くその足取りは、数年前まで起き上がれなかったとは思えないほど、自然であった。


「院長、おはようございます!」


「あいあい、今日もお元気ですね、主人様」


 院長はすぐに扉を開けて出てきた。まるで、男が辿り着くのを待っていたかのように。


「院長、明日には退院できると聞きました。あなたの育てたお弟子さんたちの腕前は、どの子も素晴らしかったです! 特に、この疑耳彦君。彼の人当たりの良さには、かなり救われました。不安な入院生活を支えてくれたのも、彼です。本当に良い子でした」


 立て板に水のごとく褒められて、疑耳彦が、目を丸くして男を見上げていた。


「疑耳彦が優しかったのは、主人様が優しかったからですよ。古くからこの山に住む山彦のように、疑耳彦は主人様の言葉や心を聞き、そのまま返しているだけなのです」


「え?」


「つまりは、疑耳彦は悪党には不真面目に治療する子なんですじゃ。主人様、これからも人畜に無害であってくだされよ、ほっほっほ」


 不思議と褒められているように聞こえない男なのであった。


(俺なんかの心を、そのまま返してるようには、思えないくらい良い子だけどな……。強いて言うなら、仕事に真面目なところが、俺と似てるかな。あとは、口調もだいぶ俺と似てきた気がするな)


 年の離れた友人といった関係にも思えた。自分と波長の合う子になるのが疑耳彦だというのならば、これほど患者に寄り添える子に育つのも、珍しいことではないのかもしれない……。


(けど、やっぱり俺の性格とは似てないぞ。疑耳彦君は、いったい誰の声を聞いてたんだ?)


 ここに患者は、二人いる。



 男は部屋に戻るついでに、お世話になったスタッフにも挨拶して回りたいと、疑耳彦に頼んだ。


「構わないけど、大丈夫かい? 口嚇丸たちがいる部屋は、主人様が今まで歩いてきた道順とは、違う道を通るよ」


「さすがに俺一人じゃ無理だな。おっさんの手を触るのは嫌かもしれないけど、手を繋いで導いてくれたら、助かるよ」


「うん、わかった。今の主人様なら、誰かと手を繋ぐだけで、充分に進めるよ」


 疑耳彦は、快く引き受けてくれた。少年と手を繋ぎ、少し不安なので壁に片手を着きながら、男は歩き始めた。友人として、そして一番信頼できる医療スタッフとして、男は疑耳彦の導きに、全権を預けていた。


 自分たちの横を通り過ぎる、お弟子さんたちの足音。どの子も「主人様、ご快復おめでとうございます」と、まるで新年の挨拶のように口々にするので、男も丁寧にお礼を述べた。一度も話す機会がなかったお弟子さんだって、自分の治療に携わったかもしれないのだから。


 いつもと違う道順は、初めて歩く散歩道のように新鮮だった。なにやら、たわしのような物で硬い物をこすっているような音が聞こえてきた。ジャブジャブと、水で洗うような音もする。


「着いたよ、主人様。ここは俺たちが使う風呂場だ。おーい、口嚇丸。それにみんなも、主人様が会いたいってー」


 浴槽なせいか、舌打ちがよく響いた。


「っんだよもう、もう少しで終わるんだったのに」


 悪態をつきながら、口嚇丸が風呂場から出てきた。


 その後ろから、最近ずっと男の食事を担当している子と、体を豪快に拭き上げる子も現れた。口嚇丸が新人に、ここでの暮らしを指導しているのであった。


 機嫌の悪いのを隠そうともしない口嚇丸に、男は苦笑した。


「やあ、口嚇丸君。それにみんなも。今まで大変お世話になったよ。俺は明日、家に帰れることになったんだ。今まで、本当にありがとう」


「あーはいはい、わかったわかった。これ以上問題を起こす前に、とっとと人間界に帰れよな」


「あの、あの! 私、何度もおかずを落としちゃってごめんなさい! 次こそ上手にやり遂げますので、今日の夕飯も、私に担当させてください!」


 たぶん、今日もこぼされる予感がしたが、それすらも男には微笑ましかった。


「嬉しいね、ありがとう」


「俺は!! 最後に主人様の体、めっちゃ力込めて拭きますんで!! ほんと、体の隅々まで!! 一片の穢れなく拭き取りますんで!! おねしゃーっす!!」


「お、お手柔らかに頼むよ……」


 男はもう少し彼らと話したかったのだが、口嚇丸が「時間内に終わらせてーんだけど」とぶっきらぼうに言うから、この場を引き上げることにした。


「ハハ、すまねぇなぁ主人様。口嚇丸は、ああいう奴なんだよ。あれでもまだ、ましな態度なんだよ」


「ああ、知ってるよ。後輩も、怖い先輩に指導されちゃ大変だな。きっとすぐに仕事を覚えてくれるよ」


 こうして男が彼らと会話できるのも、口腔外科である口嚇丸が、呼吸器官も含めて、治療してくれたからだった。


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